宇和島城愛媛県宇和島市

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  • 藤堂高虎が築いた宇和島湾を望む海城
  • 伊達政宗の長男・秀宗から続く宇和島伊達家の居城
  • 現存12天守のひとつが残る国指定史跡

宇和島城とは、愛媛県宇和島市にある江戸時代初期の城である。中世には板島丸串城と呼ばれ、文禄4年(1595)に藤堂高虎が宇和郡7万石を与えられると、この城を本拠として近世城郭化を進めた。慶長6年(1601)に高虎による築城が完成し、その後、元和元年(1615)に伊達政宗の長男・伊達秀宗が宇和島へ入城した。以後、宇和島伊達家9代の居城となり、2代宗利の時代に天守や石垣の大改修が行われた。現在は城山公園として整備され、現存天守、石垣、上り立ち門、登城道などが往時の姿を伝えている。

宇和島城の特長
目的 宇和郡支配の拠点、宇和島藩の政庁、宇和島湾を望む海上交通の監視拠点
特長 現存天守、藤堂高虎、伊達秀宗、宇和島伊達家、海城、不等辺五角形の縄張り、上り立ち門、石垣
他の城との違い ・現存12天守のひとつを持つ
・藤堂高虎が築いた不等辺五角形の縄張りが特徴である
・築城当時は宇和島湾に面した海城だったが、現在は市街化により海から離れて見える
宇和島城の石垣・土塁
石垣 現存
土塁 一部現存
種類 野面積、打込接、石垣、天守台、曲輪、海城、平山城
石材 自然石、割石など
特長 宇和島城は、宇和島湾に面した独立丘陵に築かれた平山城で、築城当時は海を防御に取り込んだ海城であった。藤堂高虎の築城時には、上から見ると不等辺五角形となる縄張りが採用され、死角をつくりにくい工夫が見られる。現在の天守と天守台は、伊達家2代宗利の寛文年間の大改修によるものとされる。城内には野面積を中心とする石垣が残り、苔むした登城道や石段とともに、近世初期の城郭景観を感じることができる。現在は堀や三之丸などの多くが市街化で失われているため、城山に残る石垣と曲輪を中心に見るのが自然である。
宇和島城DATA
別称 鶴島城、板島丸串城、丸串城
所在地 愛媛県宇和島市
築城 1601年
築城者 藤堂高虎
住所 愛媛県宇和島市丸之内1
電話番号 0895-22-2832
開館時間 天守は3月~10月が9時~17時、11月~2月が9時~16時。城山の開門は3月~10月が6時~18時30分、11月~2月が6時~17時
休館日 無休
観覧料 大人200円、中学生以下無料
備考 宇和島城は国指定史跡で、日本100名城にも選定されている。天守は重要文化財で、現存12天守のひとつである。現在の天守は、藤堂高虎時代の天守ではなく、伊達家2代宗利の寛文年間の大改修で建て替えられたものである。南側登城口には市指定文化財の上り立ち門が残る。
宇和島城への交通アクセス
JR予讃線線「今治」駅から瀬戸内バス「今治営業所行き」で約10分「宇和島城前」下車、徒歩約3分。

HISTORY 築城の名手藤堂高虎によって建てられた宇和島城

宇和島城は、1601年に築城の名手と名高い藤堂高虎によって現在の愛媛県宇和島市丸之内に建造された平城です。築城当時は城の東側に海水を満たした水堀があり、城の西側半分が海に面していたので、水運を抑える水城でもありました。
そんな宇和島城の歴史を紐解いていきましょう。

宇和島城の歴史
1575年 西園寺宣久が板島丸串城の城主となる
1587年 戸田勝隆が宇和郡・喜多郡に封じられる
1595年 藤堂高虎が宇和郡7万石を与えられ、板島丸串城を本城とする
1596年 藤堂高虎が板島丸串城の近世城郭化を始める
1601年 藤堂高虎による宇和島城の築城が完成する
1608年 藤堂高虎が伊勢・伊賀へ転封され、富田信高が城主となる
1615年 伊達政宗の長男・伊達秀宗が宇和島へ入城する
江戸時代 宇和島伊達家が代々宇和島藩を治め、宇和島城が藩政の中心となる
1664年 伊達家2代宗利が宇和島城の大改修を始める
1672年 伊達宗利による天守・石垣・櫓などの大改修が完成する
明治時代 廃城後、城郭建造物の多くが失われる
1937年 本丸・二之丸など城山の主要部が国の史跡に指定される
1945年 空襲により、当時国宝だった追手門が焼失する
1950年 文化財保護法により、宇和島城天守が重要文化財となる
2006年 日本100名城に選定される
宇和島城の前身
宇和島城が築城された場所には、板島丸串城という城がありました。 元々この地は「橘遠保」という官人の持ち物で、彼は藤原純友の乱を平定した功でこの地を与えられたと伝わっています。 この橘遠保が構えた砦が板島丸串城の始まりであり、建仁3年(1203年)に橘氏に変わって西園寺公経が伊予国の知行国主に任じられると、この地の再開発が始まります。 室町末期に豊後の大友氏が宇和島に盛んに侵攻するようになると板島丸串城は砦から城に作り替えられました。 その後、宇和島は 豊臣秀吉の四国討伐により小早川隆景の領地になります。 文禄4年(1595年)宇和島の地は藤堂高虎に与えられます。 藤堂高虎は当時板島と呼ばれたこの地を宇和島と改名、一揆などによって荒れ果てていた板島丸串城の跡地に本格的な築城工事城を始めました。
江戸時代の宇和島城
藤堂高虎による築城は慶長5年(1601年)に終了します。築城当初の宇和島城は標高74メートルの丘陵の山頂に本丸、それを囲むように二の丸や藤兵衛丸、代右衛門丸を配置し、麓に三ノ丸を配置した梯郭式の平山城でした。 各郭が山頂部に集中している様式は中世的な造りですが、山麓部には追手門や搦手門を設ける近代的な造りも備えています。 その後、藤堂高虎は慶長13年(1608年)に伊勢津藩へ移封されました。 藤堂高虎が移封したあと、宇和島藩主の座は富田信高を経て伊達秀宗が移ります。 伊達秀宗は、徳川秀忠より贈られた伏見城の千畳敷御殿を三の丸に移築しました。 この頃より、宇和島城という呼び名が定着します。 慶安2年(1649年)、宇和島を襲った大地震により宇和島城の石垣116間、長屏780間が倒壊しました。 城の修復は慶安3年(1650年)から寛文6年頃(1666年) までかかります。この際に再建築された天守が現存しているものです。 なお、このとき幕府には「修理」として届けられていましたが、実際はほぼ造り直しに近く、現在では藤堂高虎の築いた城の名残は石垣などに僅かな部分に残っているだけです。 その後、宇和島城は安政元年(1854年) に起こった安政の大地震のときにまた大打撃を受けます。 その後、万延元年(1860年)に万延の大改修によって宇和島城は再び修復され、そのまま幕末を迎えました。
明治時代以降の宇和島城
明治4年(1871年)宇和島城は明治政府兵部省に帰属し、大阪鎮台の所轄になりました。 その後、宇和島港の改築によって掘りの大部分が埋め立てられ、城門や櫓といった天守意外の建物も解体されます。 その一方で、昭和9年(1934年)に天守・追手門(大手門)が戦前の法律に沿って国宝に指定されました。また、昭和12年(1937年)には国の史跡に指定され、宇和島市の管理下に置かれます。
昭和20年(1945年)戦争末期の空襲によって追手門が消失しました。
昭和24年(1949年)には、幕末まで城主を務めた伊達家が天守を含む城山の大半を宇和島市に寄贈します。
昭和25年(1950年)には重要文化財保護法により、宇和島城の天守などが重要文化財に指定されました。
平成18年(2006年)に日本百名城に指定されます。
現在の宇和島城
現在の宇和島城は、宇和島市の観光名所であると同時に珍しい植物の宝庫となっています。 宇和島城は江戸時代半ばから約300年開発や伐採を免れているため、宇和島市ではもうここだけしか見られない植物もあり、植物好きの聖地にもなっています。 毎年ゴールデンウィークには「うわじまお城祭」が行われ、全国から観光客が訪れます。

宇和島城と関連する人物記を読む

藤堂高虎多数の主君に仕えた築城の名手
藤堂高虎は弘治2年(1556年)、近江国(滋賀県)犬上群藤堂村において、藤堂虎高の次男として誕生しました。幼名を与吉といいます。父の虎高は、近江鯰江城主だった三井乗綱の次男として生まれますが、若い頃は

宇和島城を藩庁とする、宇和島藩の歴史

宇和島藩伊達家が治める
宇和島藩は、藤堂高虎から富田信高、さらに庶子ではあるが伊達政宗の長男、伊達秀宗を祖とする宇和島伊達家によって治められてきました。宇和島藩は何度も天災に襲われ、城が二度も大破しています。そんな宇和島藩の
宇和島藩DATA
藩庁 宇和島城
旧地域 伊予国宇和島
石高 10万2000石
譜代・外様 外様
主な藩主 富田家、伊達家
推定人口 17万人(明治元年)

伊達の天守・宇和島城 植栽豊かな城山での散策も

愛媛県宇和島市にある宇和島城は、宇和島伊達家9代の居城として知られています。天守は現存12天守のひとつで、美しい白壁から「鶴島城」と呼ばれています。城は標高約80mの丘陵に築かれており、城構えは築城の名手・藤堂高虎が創建したものを今に引き継いでいます。

宇和島城
宇和島城の歴史
宇和島城の歴史は古く、はっきりはしないものの天慶4年(941年)藤原純友の乱で純友らをとらえた警固使の橘遠保が褒賞として宇和島に砦を築き住み始めたのが始まりだとされています。その後、国人領主などを経て西園寺宣久や持田右京など城主が次々に代わりました。このころは板島丸串城と呼ばれていましたが支城扱いで、大がかりな城郭はなかったと考えられています。
文禄4年(1595年)に藤堂高虎が領主として宇和島に入り、慶長元年(1595年)から築城をスタート。築城名人の高虎は海に面した地形を巧みに活かした縄張で城を作り、慶長6年(1601年)に工事が終了し、この時名前も「宇和島城」になりました。
宇和島城の特徴といえば、この高虎による「空角の経始」(あきかくのなわ)と呼ばれる縄張り。空から見るとわかるのですが、実は四角形ではなく不等辺の五角形です。これは敵に四角形の城だと錯覚させて死角を作るためのもので、徳川幕府の隠密もだまされたのだとか。
なお、高虎はこれまでもさまざまな城を築城していますが、大名になって自分の居城としての築城は宇和島城が初めてです。
その後、慶長20年(1615年)に伊達政宗の長男・伊達秀宗が宇和島10万石を拝領して宇和島城に入城。以降明治時代まで9代に渡り、宇和島伊達家の居城となりました。明治維新後も城は伊達家が保護し、昭和24年(1949年)に城のある丘陵全体が宇和島市に譲渡され、現在に至ります。
宇和島城の見どころ①天守閣
宇和島城を最初に築いたのは藤堂高虎ですが、現在の天守は伊達家の居城になってから伊達宗利が再建したものです。藤堂高虎の時代は望楼型の天守でしたが、宗利は3重3階・総塗り籠め造りの層塔型天守に作り変えました。なお、宗利は寛文元年(1661年)から寛文12年(1672年)にかけて多くの石垣や櫓を修築しています。
戦が落ち着いた時代に建てられた天守なだけあって、天守の外観は軒唐破風や千鳥破風、懸魚などの装飾があります。天守は玄関付きで、入り口には伊達家の「九曜紋」「竹ニ雀紋」「竪三引両紋」の3種の家紋が彫られています。内部の階段は天守らしく急こう配ですが、階段の欄干に装飾があるのが特徴的。狭間などの戦向けの設備がないのが平和を感じさせます。
1階には万延元年(1860年)に実施した際に利用した天守のひな型が展示されており、精緻なつくりは見ごたえがあります。このほか3階の窓からは亀の上に桃が乗った飾り瓦の「桃瓦」を見ることができます。桃瓦がある現存天守は犬山城と宇和島城のみなので必見です。また、北の窓からは本丸に宇和海を望む絶景が拝めます。
宇和島城の見どころ1 宇和島城の見どころ2 宇和島城の見どころ3
宇和島城の見どころ②上り立ち門
江戸時代の面影を残すのが、城山の南麓の搦手道口にある「上り立ち門」。実は宇和島城は大正時代の取り壊しや戦災により門などが失われており、江戸時代から残るのは天守と上り立ち門だけです。
上り立ち門は武家の正門とされる薬医門形式となっており、城門として現存する薬医門としては最大級のもの。創建年代は不明ですが、藤堂高虎時代のものである可能性があり、最古の薬医門ではと言われている貴重な建物です。
宇和島城の見どころ③石垣と植生
宇和島城には時代の異なる石垣が点在しています。例えば長門丸の石垣は、伊達宗利による大改修があった17世紀後半ごろに築かれたもので、延長約110mにも及びます。藤兵衛丸周辺にある石垣は藤堂高虎時代、またはそれより前のものといわれており、古い技法が見られます。
さまざまな種類の石垣が一度に見られるのが代右衛門丸付近。こちらの石垣は17世紀から19世紀までと作られた年代が幅広く、野面積み、切り込みハギ、打ち込みハギと見比べて楽しめます。
また、宇和島城の城山の自然は300年以上にわたって火災などから守られてきており、今も珍しい植物や巨木が残っています。約400種類の草木が生い茂っており、随所に案内板があるので植物観察を楽しみながら散策するのもおすすめです。
宇和島城の見どころ4 宇和島城の見どころ5 宇和島城の見どころ6
おすすめ撮影スポット
宇和島城のおすすめ撮影スポットは、二の丸への石段を登り切った場所です。こちらからは天守閣と本丸の石垣が一緒に撮影でき、背景に鬼が城連山が入るという、公式おすすめの「映えスポット」です。また、本丸からは宇和島市の街並みや宇和海を一望できます。
このほか、歩いて約20分の所にある「愛宕公園展望台」からは宇和島城と城山、そして背景の海のコラボレーションが楽しめます。
宇和島城の見どころ7 宇和島城の見どころ8 宇和島城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。