忍城埼玉県行田市

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忍城DATA
別称 浮き城、亀城
築城 1479年
住所 埼玉県行田市本丸17-23-1
忍城への交通アクセス
秩父鉄道秩父本線行田市駅下車徒歩15分。

HISTORY 関東7名城のひとつ忍城

忍城は、埼玉県行田市に存在した平城です。忍城という名前は、この地がかつて「武蔵国埼玉郡忍」と呼ばれていたために名付けられました。秀吉の水攻めを耐え抜いたことでも有名で、忍城の攻防は2012年「のぼうの城」という題名で映画化もされました。そんな忍城の歴史を紐解いていきましょう。

忍城の築城から江戸時代までの歴史
忍城は、室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられています。 成田氏とは、鎌倉時代以前よりこの地を治めていた武家集団の1つであり、扇谷上杉家に属する忍一族とこの地の覇権を争い、勝利したことが築城の理由であったようです。 北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地や自然堤防を活かした構造になっており、戦国時代を通して一度も落城しなかった難攻不落の城として有名になりました。 ちなみに、遠くから見ると沼地に城が浮いているように見えたため「浮城」という異名があったと伝えられています。
忍城を建築した成田氏は、北条氏が関東に勢力を伸ばしたときに激しく反発する一方、永禄2年(1559年)に上杉謙信が関東に遠征してくると成田氏は恭順の意思を示しました。 しかし、上杉謙信が鶴岡八幡宮で関東管領就任式を行った後に離反します。 その結果、天正2年(1574年)に上杉謙信は忍城を包囲し城下町に火を放ちますが、忍城は持ちこたえました。
忍城の名が有名になったのは、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が関東平定を行った際に、起こった籠城戦です。 豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、忍城を攻め落とそうと包囲しました。 このとき、城主であった成田氏長は小田原城で籠城していたので、氏長の叔父・成田泰季を城代となり、約500人の侍、足軽に加えて雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に籠城したという記録が、「忍城戦記」などに残されています。 忍城の戦いには石田三成のほか、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わっていました。 この様子は、2016年の大河ドラマ「真田丸」の中でも描かれています。 石田三成は忍城を水攻めにするべく、総延長28kmにおよぶ石田堤を建設しました。 2012年に公開された映画「のぼうの城」では、石田堤が切られて城が水攻めにあうようなシーンが描かれていますが史実は水攻めが失敗に終り、忍城が耐えている間に小田原城が先に落ちてしまいました。 この戦により、「忍の浮き城」の名が全国的な有名になったのです。
江戸時代以上の忍城
徳川家康が江戸幕府を開くと、家康の四男の松平忠吉が忍城に配置され忍藩(10万石)が開かれました。 忍城は寛永6年(1639年)より拡張工事が始まり、元禄15年(1702年)までの大工事の末、藩庁にふさわしい城となりました。
忍城の城下町は、中山道の裏街道宿場町、また付近を流れる利根川の水運を利用した物流路として栄えました。 また、忍城の城下町は江戸時代後期より「足袋の産地」として名を馳せます。 その縁があって、テレビドラマ「陸王」の舞台にもなっています。
明治になると廃藩置県が行われ、一時「忍県」が生まれて県庁が二の丸に置かれたが、その後忍県は埼玉県となり、忍城は廃城となりました。 これにより、城内の構造物はほとんどが壊されて更地となり、跡地は公園に整備されました。
戦後、公園には野球場などが作られた時期もありましたが昭和63年(1988年)行田市郷土博物館が開館します。 この際、御三階櫓が博物館の一部として「忍城鳥瞰図」や文献などを元に、鉄筋コンクリート構造によって外観復興されました。 なお、現在も公園内には土塁の一部が当時のままで残っています。 このほか、北谷門が加須市の總願寺に、どこの門かは不明ですが高麗門形式の城門が郷土博物館の駐車場脇に移築され、現存しています。 平成29年(2017年)続日本100名城(118番)に選出されました。
まとめ
現在の忍城は埼玉県行田市の観光名所として武将隊が定期的にパフォーマンスなどを行っています。 また、のぼうの城や陸王など映画やドラマの舞台となったことで、映画ファン、ドラマファンが多く訪れ場所にもなりました。 忍城の建物は門以外現存していませんが、郷土史博物館内で資料を見ることができます。 このほか、公園の南には石田堤も200m前後現存しているので、足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。

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忍藩DATA
藩庁 忍城
旧地域 武蔵国埼玉郡忍
石高 10万石
譜代・外様 譜代
主な藩主 成田氏、松平氏

石田三成の水攻めで有名な忍城。関東入りした徳川家康が4男松平忠吉に10万石を与えて入城させた。その後、天領を経て家康の血縁の奥平松平家や阿部家などが入封。歴代城主は老中など幕府の要職に就任。

忍城、「のぼうの城」で知られる難攻不落の水城

忍城は埼玉県行田市にある平城で、関東有数の「水城」として知られています。戦国時代には関東北部の要衝として重要な役割を果たし、豊臣秀吉の関東征伐の際には石田三成による水攻めを受けたことで有名です。平成29年(2017年)に続日本100名城にも選ばれました。

忍城
忍城の歴史
忍城の築城時期ははっきりしていませんが、室町時代の文明年間(1469年~1487年)、成田氏の祖とされる成田正等・顕泰親子が扇谷上杉家に属する忍氏を滅ぼして築いたとする説が有力です。成田氏は武蔵国北部を拠点とする武士で、室町時代から戦国時代にかけて勢力を拡大し、忍城を本拠としました。
忍城は北の利根川、南の荒川に挟まれた低湿地帯に建てられた天然の要害であり、沼地に点在する島や高地を橋で繋げて城郭を構成していました。また、沼や湿地を巧みに利して堀にしていたことから、忍城は攻めにくい城として知られていました。
成田氏はその後、上杉氏に臣従しますが、関東で北条氏が勢力を伸ばすと北条方に下ったと考えられています。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏を攻めた「小田原征伐」の際、忍城は豊臣方の攻撃を受けます。攻撃を担当したのは石田三成でした。
小田原攻め当時の成田氏の当主は成田氏長でしたが、氏長は小田原城に詰めていたため、忍城内には氏長の叔父で城代の成田泰季と息子の長親、そして家臣たちなど約500名が詰めていました。途中で周辺の農民なども加わり、約3700人が立てこもって長期間にわたり籠城戦を繰り広げたのです。なお、籠城の途中で城代の泰季が没したとも伝えられており、長親が城の指揮を執りました。
三成は城を落とすため周囲に全長28km(14kmとも)におよぶ石田堤を築き、城の周囲を水で満たす「水攻め」を行いました。これは備中高松城での戦いを参考にしたともいわれています。
しかし忍城はこの水攻めにも耐えぬきます。本丸部分は水没しなかったことから、忍城は「浮き城」と呼ばれるようになりました。その後、豪雨で石田堤が決壊したことで水攻めは失敗し、忍城は籠城し続けました。
結局、小田原城が7月5日に落城したことで戦は終結し、忍城も7月16日に開城しました。この戦いの逸話は後世に語り継がれ、小説や映画『のぼうの城』でも知られるようになりました。
江戸時代に入ると、忍城は忍藩の藩庁として整備されます。関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、家康の4男・松平忠吉が10万石で城に入ります。その後は徳川の譜代大名や親藩の大名が入りました。
寛永16年(1639年)には老中阿部忠秋が5万石で城主となります。忠秋は忍城と城下町の整備を進めました。その後、元禄7年(1694年)、孫の阿部正武の際に10万石になり、元禄15年(1702年)には御三階櫓が完成しました。文政6年(1823年)、阿部氏が白河に移ると代わって桑名から奥平松平氏の松平忠堯が入り、以後明治維新まで松平氏が同地を治めます。
明治維新後の明治6年(1873年)、廃城令により忍城は廃城となり、建物の多くは取り壊されました。跡地は成田公園(後の忍公園)として整備されました。
昭和63年(1988年)になると、本丸跡に行田郷土博物館が開館し、その際に御三階櫓が鉄筋コンクリート製で外観復元されました。現在は土塁や堀などが整備されて城跡公園として公開されています。
忍城の見どころ①行田市郷土博物館と御三階櫓
現在、忍城を象徴する建物となっているのが御三階櫓です。史料をもとに復元された鉄筋コンクリート製の櫓で、現在は行田市郷土博物館の一部となっています。御三階櫓の内部では忍城と城下町、近代・現代の行田に関する展示が見学できます。4階は展望室となっており、行田の街並みが一望できます。
博物館の常設展示室では古代・中世・近世の行田について学ぶことができます。特に中世では城の絵図や発掘調査で発見された資料が見どころとなっているほか、忍城の戦いについて、水攻めの経緯などを学ぶことが可能です。
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忍城の見どころ②本丸跡と土塁
現在の忍城本丸は公園として整備されており、当時の城郭の雰囲気を感じることができます。例えば、本丸西側を囲んでいた土塁の一部が現存しているほか、行田市郷土博物館の中庭には、かつて城内の櫓に使用されていた石垣の石が残されています。
忍城の見どころ③残された門や鐘楼
郷土博物館の南側には城の西にあった旧芳川家表門を移築・復元した「伝進修館表門」が残っています。高麗門で、もとは藩校・進修館の表門だったと伝わっています。現存する行田市唯一の武家屋敷の表門なので、城があった当時を偲ぶにはぴったりのスポットです。
また、城内二の丸の東隅にあった「時鐘」の鐘楼も見どころです。鐘は松平氏が忍藩に移封されるにあたって移されたもので、現在は郷土資料館内に展示されています。
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忍城のおすすめフォトスポット
忍城らしい写真が撮れるのが御三階櫓で、手前の橋と水堀とともに撮影するのがおすすめです。また、公園側から撮ると、櫓と石垣、堀を一度に収めることができます。春は桜と櫓を一緒に撮影できるため、行田市でも人気の写真スポットです。忍城址公園は桜の名所としても知られており、春は桜と御三階櫓のコラボレーションが美しいですよ。
忍城の見どころ7 忍城の見どころ8 忍城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。

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