岐阜城岐阜県岐阜市

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冬の岐阜城1 冬の岐阜城2 冬の岐阜城3 冬の岐阜城4
岐阜城DATA
別称 稲葉山城、金華山城、井口城
築城 1201年
住所 岐阜県岐阜市金華山天守閣18 金華山頂18
電話番号 058-263-4853
開館時間 午前8時30分~午後5時30分(季節により変更)
休館日 年中無休
登閣料 大人200円/小人(4歳以上16歳未満)100円

織田信長が斎藤道三の孫・斎藤龍興を追放し稲葉山城を奪取。その後地名を「井口」から「岐阜」へと改める。織田信長の天下統一の拠点とする。岐阜城は1601年徳川家康により廃城となる。奥平信昌に10万石を与えて加納城を築城、岐阜城山頂にあった天守・櫓・山中・山麓の石垣などは加納城へ移された。

岐阜城への交通アクセス
JR岐阜駅・名鉄岐阜駅からバス15分。バス停下車、徒歩3分の岐阜公園内から金華山ロープウェー3分、金華山ロープウェー山頂駅から徒歩8分。

HISTORY 岐阜城について

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稲葉山城の戦い織田信長が美濃を制覇
永禄10年(1567年)8月、織田信長は美濃国(岐阜県)にあった斎藤氏の本拠地「稲葉山城」を攻め落として斎藤龍興を下し、美濃を平定しました。「稲葉山城の戦い」と呼ばれるこの戦い以降、信長は稲葉山城を「
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岐阜城、信長が築いた天下布武の城

岐阜城は岐阜県岐阜市の中心部、金華山の山頂に築かれた山城で、日本100名城にも選ばれています。かつては「稲葉山城」と呼ばれており、斎藤道三の居城でした。現在は山頂に復興天守が建てられており、展望台からは信長が見下ろしたであろう眺望を楽しめます。

岐阜城
岐阜城の歴史
岐阜城の起源は鎌倉時代末期にさかのぼります。鎌倉幕府の執事・二階堂行政が築いた砦がその前身とされており、のちに稲葉山城と呼ばれるようになりました。
稲葉山城は一度は廃城になりましたが、戦国時代に美濃守護代の斎藤利永が城を修築しました。その後、天文年間(1532年〜1555年)に斎藤道三が城を修復して入城し、稲葉山城を拠点に、美濃国を支配して城下町の整備を進めました。天文23年(1554年)に長男の斎藤義龍に家督を譲ると、道三と義龍と間で争いが起き、弘治2年(1556年)4月の「長良川の戦い」で道三は討ち死にしました。その後、義龍やその跡を継いだ息子の斎藤龍興が稲葉山城に住みました。
ところが斎藤龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとしなかったため(諸説あり)、永禄7年(1564年)3月、家臣の竹中重治(竹中半兵衛)らが稲葉山城を攻め、約半年間占領しました。
その後、龍興らは稲葉山城に戻りますが、美濃をめぐる斎藤氏と織田氏の争いはますます激化し、ついに永禄10年(1567年)、織田信長が稲葉山城を攻略しました。龍興は伊勢長島に逃亡し、稲葉山城は信長のものになりました。
信長は城と町の名前を中国の古代王朝にちなんで「岐阜」「岐阜城」と改めました。さらにこのころから「天下布武」の朱印を用いており、本格的に天下統一をめざしていきます。
また、信長は岐阜で楽市楽座を導入し、経済発展を促しました。天正4年(1576年)になると信長は安土城に移り、岐阜城は嫡男の織田信忠の居城となります。天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が討たれ、信忠も自害すると、信長の三男の信孝が入城。天正11年(1583年)に秀吉に敗れて開城したあとは、池田元助や池田輝政、豊臣秀勝を経て織田秀信が岐阜城に入りました。
秀信は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍につきましたが、東軍に攻め落とされ、岐阜城は落城しました。その後、徳川家康は岐阜城の廃城を決定し、城郭の建物は失われていきました。岐阜に代わって加納城が築城され、天守や櫓などは加納城に移築されています。
その後、明治43年(1910年)に模擬天守が完成しましたが、昭和18年(1943年)2月に火事で焼失。現在の模擬天守は昭和31年(1956年)に鉄筋コンクリートで再建されたものです。昭和50年(1975)には隅櫓が復元され、岐阜城資料館となりました。
平成23年(2011年)には山麓から山上にかけた一帯が「岐阜城跡」として国の史跡に指定されました。平成27年(2015年)には「『信長公のおもてなし』が息づく戦国城下町・岐阜 」の構成遺産として日本遺産に認定されています。
岐阜城の見どころ①模擬天守
岐阜城の模擬天守は3層4階で、加納城御三階櫓の図面や古文書などを参照して作られました。内部は資料展示室となっており、織田信長をはじめとした美濃・岐阜の歴史などに関する展示は見ごたえがあります。岐阜城山上の石垣の模型、木造織田信長坐像(複製)などもありますよ。
4階の展望台からは360度の大パノラマが楽しめます。北に日本アルプス、東に恵那山、西に伊吹山から養老山脈、南西に長良川と美濃平野の市街地を望めます。信長が天下を見据えたとされる景色を楽しみましょう。
岐阜城の見どころ1 岐阜城の見どころ2 岐阜城の見どころ3
岐阜城の見どころ②随所に残る巨石と石垣
岐阜城は発掘調査などにより巨石や石垣が確認されています。斎藤道三の時代以降のものや織田信長の時代のものがほとんどで、毎年金華山で行われている発掘調査ではさまざまな石垣が発見されています。
一ノ門跡や二ノ門跡、本丸や二の丸の石垣、野面積みの天守台など、見学できる石垣も多くあります。マップ「史跡岐阜城跡石垣発見伝」を参照しながら巡るのがおすすめです。
岐阜城の見どころ③岐阜城資料館
復興天守の東側、山上にある「岐阜城資料館」は、彦根城を参考にしつつ隅櫓を模して作られたもの。稲葉山城・岐阜城の歴史や発掘成果や関連史料、武具や刀剣などが展示されています。トリックアートで写真撮影できるコーナーは人気を博しています。
岐阜城の見どころ④信長公居館跡
金華山の西麓の千畳敷下・槻谷には、信長をはじめとした歴代当主の居館跡があります。斎藤氏時代に作られ、信長が大規模に改修した館は「信長公居館跡」として整備されています。庭園跡や石垣、門跡などが残っており、当時の信長の暮らしや政務の様子を想像させてくれます。
岐阜城のフォトスポット
岐阜城の模擬天守と金華山を撮影するなら岐阜公園からがおすすめ。岐阜城と月を一緒に撮るなら、長良川公園や長良川の右岸堤防から望遠で狙いましょう。また、天守4階の展望台は必須のフォトスポット。毎年、特定期間に開催される「岐阜城パノラマ夜景」では、最長20時半まで模擬天守に入城できるため、美しい夜景が撮影できます。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。