二本松城福島県二本松市

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二本松城DATA
別称 霞ヶ城、白旗城
築城 不明
住所 福島県二本松市郭内3丁目・4丁目

二本松城は日本100名城の一つ。2007年7月26日、二本松城跡として国の史跡に指定。

二本松城への交通アクセス
JR東北本線二本松駅から徒歩約20分。

HISTORY 大阪の陣以来江戸時代で唯一戦闘が行なわれた二本松城

二本松城は、福島県二本松市にあった平城です。日本百名城の1つに数えられており、現在は桜の名所としても有名です。しかし、江戸時代末期、二本松の戦いと呼ばれる戦場となった城でもあります。そんな二本松城の歴史を紐解いていきましょう。

二本松大改修までの歴史
二本松城は、畠山氏によって室町時代初期に築かれたという説が有力です。築城年数は所説あり、応永21年(1414年)もしくは嘉吉年間(1441~1443年)のいずれかといわれています。畠山氏はその後二本松畠山氏、(奥州畠山氏)や二本松氏と呼ばれるようになり、彼の地を治めました。
安土桃山時代になると、奥州の覇者伊達政宗が二本氏の所領に攻め入ります。そのため、二本松氏は伊達政宗の父伊達輝宗に和睦を申し出るように見せかけ、彼を拉致しようとします。伊達政宗は父、輝宗もろとも15代当主である二本松義継を殺しました。 15代当主の二本松義継と伊達輝宗の死により、二本松氏と伊達氏は本格的な戦に突入し、人取橋の戦いなどを経て、天正14年(1586年)に二本松城は開城、二本松氏は伊達政宗に滅ぼされました。 その後、二本松城の城代は片倉景綱や伊達成実を経て、会津若松城主蒲生氏郷の支城となります。さらに、上杉景勝が会津の地を豊臣秀吉から賜ると、家臣の下条忠親が城代となりました。 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが東軍の勝利で終ると、西軍に就いた上杉景勝は米沢藩に国替えとなり、二本松城は再び蒲生氏のものとなります。
江戸時代の二本松城
江戸時代に入ると、二本松城は最終的に丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入り、この丹羽家が幕末まで二本松藩の藩主となりました。寛永20年(1643年)、丹羽光重は城の大改修を行なって、石垣や三重の天守閣を築きます。 時代は下り、慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発します。
会津藩討伐を主張していた奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵が仙台藩士によって暗殺されたことを発端として東北の諸藩が明治政府に反発。奥羽列藩同盟を結成し、二本松藩もそれに加わりました。そのため、二本松城は明治政府の攻撃の対象となります。二本松藩の兵力は、少年兵、老年兵も含めてわずか2000人にも満たず、それに対して明治政府軍は7000人、かつアメリカやイギリスの協力で西洋式の軍事教育も受けていました。はじめから勝ち目のない戦いでしたが、二本松藩の藩士達は徹底抗戦し、慶応4年の7月29日、二本松城は炎上して落城します。
戊辰戦争では、会津戦争をはじめ多くの激戦が行なわれましたが、城が炎上して落城したのは、二本松城だけです。また、この戦いで後に「二本松少年隊」と呼ばれる13~17歳の少年兵が十人以上戦死したと言います。最終的に二本松の戦いでの戦死者は公式の記録では337人、負傷者71人です。これは、東北の藩の中で群を抜いて多く、戦のすさまじさを物語っています。
明治以降の二本松城
二本松の戦いで大部分の建物が燃えた二本松城は、明治になると残った建物もすべて取り壊され、明治6年に城跡には二本松製糸会社が建設され、福島県の近代化に貢献しました。 昭和57年(1982年)箕輪門と附櫓が復元され、平成5年(1993年)から平成7年(1995年)にかけて本丸の修復、復元工事が行なわれ、城跡公園としての体裁が整えられています。
現在は、国定史跡県立霞ヶ城公園として、福島県の観光名所となりました。 また、明治政府の時代は表だって供養できなかった戊辰戦争の戦死者たちも、少しずつ遺族が声を上げてきた結果、今では公園内に戦死者の供養塔や二本松少年隊の像なども建てられています。 このほか、公園内には約2,500本もの桜が植えられており、桜、紅葉の名所としても有名です。

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二本松城を藩庁とする、二本松藩の歴史

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二本松藩DATA
藩庁 二本松城
旧地域 陸奥国南部安達郡
石高 10万石
譜代・外様 外様
主な藩主 松下家、加藤家、丹羽家
推定人口 3万7000人(明治元年)

加藤嘉明の会津入封に伴って、娘婿の松下重綱が立藩。その後、加藤家・丹羽家が続いた。

二本松城、戊辰戦争の激戦地となった中世から続く城

福島県二本松市にある「二本松城」は、中世から続く日本100名城に認定された城です。「霞ヶ城」や「白旗城」とも呼ばれ、現在は「霞ヶ城公園」として整備され、桜の名所として人気を博しています。

二本松城
二本松城の歴史
二本松城は応永21年(1414年)、奥州地方を統括していた奥州探題の畠山満泰が白旗ヶ峰に築城したのが始まりとされています。その後、約200年にわたり畠山氏がこの地を治めましたが、戦国時代に入ると伊達氏の勢力が拡大。天正14年(1586年)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼすと二本松城は伊達氏の支城となり、伊達成実が城代として入りました。
豊臣秀吉公の奥州仕置後には、蒲生氏郷の支配下にはいり、城は大規模な改修が行われました。その後豊臣氏、上杉氏と城主が変わります。江戸時代には再び蒲生氏がおさめますが、寛永4年(1627年)に蒲生氏が伊予松山城に転封となった代わりに加藤嘉明が二本松藩主として入城。この時城は近世城郭として整備されます。
寛永20年(1643年)には加藤氏に代わって白河小峰城から丹羽光重が入城。このときも大規模な改修が行われ、本丸には石垣や三重の天守が築かれ、現在の二本松城の原型が形作られました。その後は明治維新に至るまで、丹羽氏11代が同地を支配します。
二本松城は慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際、激戦の末わずか1日で落城。攻城戦には少年兵も動員されており、「二本松少年隊の悲劇」として知られています。
明治維新後は廃城令で城は破却され、跡地には二本松製糸会社が設立されました。その後は霞ヶ城公園として整備され昭和57年(1982年)に箕輪門と附櫓が木造で復元され、平成7年(1995年)には天守台や本丸石垣が整備されました。平成19年(2007年)には国の史跡に指定されています。
二本松城の見どころ①復元された箕輪門と二本松少年隊
箕輪門は寛永20年(1643年)に丹羽光重の大改築の際に建てられた門で、箕輪村(福島県二本松市箕輪)山王寺山のご神木を活用したことからその名がつけられました。戊辰戦争の際に焼失しましたが、昭和57年(1982年)に木造で復元されています。同年二階櫓と多聞櫓が復元されており、狭間や石落とし等が設けられています。
門の近くには「二本松少年隊群像」があります。二本松藩は戊辰戦争の際に旧幕府軍側につきましたが、13歳から17歳までの少年たちも出陣しました。このうち城内に向かう大壇口に出陣した少年兵たちはほとんどが討ち死に。城は炎上して落城しています。このほか、二本松城跡の随所に、戊辰戦争で命をおとした人々にまつわる石碑が残っています。
二本松城の見どころ1 二本松城の見どころ2 二本松城の見どころ3
二本松城の見どころ②高石垣と天守台
二本松城は見事な石垣で知られています。特に本丸については発掘調査をもとに平成5年(1993年)から平成7年(1995年)にかけて、約5億3000万円かけて全面修復・復元されました。蒲生氏郷の時代から江戸後期の石積みまで確認されており、石垣の博物館のようになっています。
本丸への枡形虎口や天守台の石垣は美しいので必見。天守台は標高345mにあり、西に安達太良山の峰々、南に城下町が広がる絶景が楽しめます。本丸の南下には蒲生氏郷の時代に穴太衆により築かれた野面積みの高石垣が残っています。城の中では最も古い石垣のひとつです。
また、箕輪門のある三の丸高石垣は加藤氏時代のもので、最大で高さ13mを誇ります。このほか、大手門跡の亀甲済み崩しの石垣も見どころのひとつです。
二本松城の見どころ4 二本松城の見どころ5 二本松城の見どころ6
二本松城の見どころ③「日影の井戸」
「日影の井戸」は畠山氏時代から存在すると伝わる井戸で、千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」と並ぶ「日本三井戸」のひとつです。深さは約16m。さらに井戸底の岩盤をえぐり、北方約14mに達しています。昭和初期まで「底なし井戸」とも呼ばれていました。
二本松城の見どころ④洗心亭
二本松城には茶室「洗心亭」があり、城跡内に残る唯一の江戸時代の建物として、福島県指定重要文化財に認定されています。木造茅葺・数寄屋平屋作りで、もともと城内の庭園にあった「黒絵の茶屋」でしたが、天保8年(1837年)の山崩れにより破損したことで阿武隈河畔に移築。藩主の釣茶屋として利用していました。明治40年(1907年)に現在の場所に再移築され、今に至ります。
二本松城のフォトスポット
二本松城らしい写真といえば、箕輪門。手前から「二本松少年隊」の群像彫刻を入れて撮影するのがおすすめです。霞ヶ城公園は春には約2500本の桜が見ごろを迎えますが、本丸跡の下から桜と本丸石垣を撮影するのも美しいですよ。
また、秋には毎年「二本松の菊人形」が開催され、見事な紅葉と菊人形のコラボレーションが楽しめます。
二本松城の見どころ7 二本松城の見どころ8 二本松城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。