佐賀城佐賀県佐賀市

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  • 龍造寺氏の村中城をもとに鍋島氏が整備した佐賀藩の城
  • 広い堀と低い石垣・土塁で守られた平城
  • 幕末佐賀藩の政治と近代化を伝える本丸御殿の城

佐賀城とは、佐賀県佐賀市城内にある江戸時代の城跡である。龍造寺氏の村中城をもとに、佐賀藩主となった鍋島氏が整備した平城で、慶長16年(1611)に佐賀城総普請が完成し、鍋島勝茂が本丸に入った。佐賀平野の低湿地に築かれた城で、広い堀、土塁、低い石垣を組み合わせた構造を持つ。享保11年(1726)の大火で天守をはじめ本丸・二の丸・三の丸が焼失し、その後は二の丸が藩政の中心となった。天保9年(1838)には十代藩主鍋島直正により本丸御殿が再建され、現在はその一部を復元した佐賀城本丸歴史館として公開されている。

佐賀城の特長
目的 佐賀藩の政庁、鍋島氏の居城、佐賀平野の支配拠点、城下町形成の中心、幕末佐賀藩の政治・軍事・近代化政策の拠点
特長 龍造寺氏、村中城、鍋島勝茂、鍋島直正、佐賀藩、佐賀城本丸御殿、佐賀城本丸歴史館、鯱の門、続日本100名城、平城、水堀、土塁、低い石垣、幕末維新
他の城との違い ・龍造寺氏の村中城をもとに、鍋島氏が佐賀藩の政庁として整備した城である
・佐賀平野の低湿地に築かれ、広い堀と土塁を活かした平城である
・天守は享保11年(1726)の大火で焼失し、現在は天守台が残る
・天保期に再建された本丸御殿の一部が、佐賀城本丸歴史館として復元・公開されている
佐賀城の石垣・土塁
石垣 現存
土塁 現存
種類 石垣、土塁、水堀、平城、天守台、虎口、低石垣、櫓門、鯱の門
石材 現地周辺の石材。天守台や門周辺などに石垣が残る
特長 佐賀城は、石垣の高さで圧倒する城というよりも、佐賀平野の低湿地に広い堀と土塁をめぐらせた平城である。天守台や門周辺には石垣が残るが、城全体としては水堀、土塁、低い石垣を組み合わせて守る構造が特徴である。鯱の門周辺には幕末の佐賀戦争の弾痕が残るとされ、佐賀城が幕末維新期の歴史の舞台であったことも伝えている。佐賀城では、天守の有無よりも、本丸御殿、堀、土塁、鯱の門、天守台を合わせて見るのが自然である。
佐賀城DATA
別称 栄城、沈み城、亀甲城
所在地 佐賀県佐賀市
築城 龍造寺氏の村中城をもとに整備。慶長16年(1611)に佐賀城総普請が完成
築城者 龍造寺氏、鍋島直茂、鍋島勝茂
住所 佐賀県佐賀市城内2丁目18-1
電話番号 0952-41-7550(佐賀城本丸歴史館)
開館時間 城跡は見学自由。佐賀城本丸歴史館は9時30分~18時
休館日 城跡は見学自由。佐賀城本丸歴史館は12月29日~1月1日、その他臨時休館あり
入館料 城跡は無料。佐賀城本丸歴史館も無料。ただし募金への協力を呼びかけている
備考 佐賀城は続日本100名城の183番に選定されている。現在の佐賀城本丸歴史館は、天保期の佐賀城本丸御殿の一部を復元した施設で、幕末維新期の佐賀藩を紹介している。佐賀城にはかつて天守があったが、享保11年(1726)の佐賀城大火で焼失し、再建されなかった。現存建築として鯱の門および続櫓が残り、国の重要文化財に指定されている。
佐賀城への交通アクセス
JR「佐賀」駅 徒歩約25分

HISTORY 佐賀城「沈み城」の別名を持つ城

佐賀城は現在の佐賀県佐賀市に建てられていた輪郭梯郭複合式平城です。龍造寺宗家代々の居城であった佐賀龍造寺城を前身とし、鍋島家が改修して「佐賀城」と名付けました。平地に建つ城で、敵に攻められたときは外堀から水を引き込んで主要部分以外を水没させる仕組みを備えていたため「沈み城」という別名があります。そんな佐賀城の歴史を紐解いていきましょう。

佐賀城の歴史
戦国時代 龍造寺氏が村中城を拠点とし、佐賀平野の支配を進める
安土桃山時代 龍造寺氏の実権を継いだ鍋島氏が、村中城をもとに佐賀城の整備を進める
1602年 鍋島氏により佐賀城の総普請が始まる
1611年 佐賀城総普請が完成し、鍋島勝茂が本丸に入る
江戸時代 佐賀城は佐賀藩鍋島氏の居城となり、藩政の中心として機能する
1726年 佐賀城大火により、天守をはじめ本丸・二の丸・三の丸が焼失する
1727年 幕府より佐賀城普請が許可され、二の丸の普請が始まる
1728年 二の丸が完成し、藩政の中心となる
1835年 佐賀城大火により二の丸が焼失する。鍋島直正が本丸再建を表明する
1837年 本丸御殿が上棟する
1838年 本丸御殿が竣工し、鍋島直正が本丸に入る
1869年 版籍奉還により佐賀藩庁が置かれる
1871年 廃藩置県により佐賀県庁が置かれ、佐賀城は城としての役割を終える
1874年 佐賀の乱、佐賀戦争が起こる。二の丸・三の丸は焼失するが、本丸は焼失を免れる
明治時代 本丸御殿は裁判所、学校、師範学校などに利用される
2004年 佐賀城本丸御殿の一部を復元し、佐賀県立佐賀城本丸歴史館が開館する
2017年 日本城郭協会により、佐賀城が続日本100名城のひとつに選定される
佐賀城の前身
佐賀(肥前国)は、戦国時代に龍造寺氏によって治められていました。龍造寺氏は肥前国の東部の国人から九州北西部を支配する戦国大名まで登り詰めた一族です。特に、大友氏を破った、龍造寺隆信は有名です。 そんな龍造氏宗家の居城であった佐賀龍造寺城(別名、村中城)が佐賀城の前身と伝わっています。 平成21年~22年にかけて佐賀市教育委員会によって西御門付近が発掘調査された結果、佐賀龍造寺城に関連する大型建物2棟や堀が発掘され、伝承が真実であったことが裏付け等られました。
佐賀城の建設
龍造寺氏は、天正12年(1584年)に島津・有馬連合軍に当時の当主であった龍造寺隆信が討たれたことがきっかけで一気に没落し、家臣の鍋島直茂が実権を握りました。鍋島直茂は龍造寺隆信の義弟であり、竜造寺家の家老でもあったので隆信の嫡男龍造寺政の後見人となって豊臣秀吉や徳川家康と渡り合ったのです。そして、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、息子の鍋島勝茂が西軍に与しましたが、その一方で鍋島直茂は徳川家康に恭順の意を示し、所領を安堵されます。 そのため、江戸幕府は龍造寺家から鍋島家へ藩主の座を移し、佐賀鍋島家が治める佐賀藩が成立します。 それに伴い、鍋島直茂は慶長7年(1602年)から佐賀龍造寺城の改修に着手し、慶長16年(1611年)に息子鍋島勝茂が完成させます。 これが佐賀城です。明治を迎えるまで佐賀藩の藩庁として機能しました。
佐賀城の概要
佐賀城は、80mもの長さの内堀を持つ平山城です。小倉城天守の図面を参考に高さ38mの外観4重内部5階建ての天守も建造されます。 平坦な土地が建造場所に選ばれたため、堀は石垣ではなく土塁で築かれ、その土塁には目隠しのために松や楠が植えられたと記録されています。 そのため、城がまるで松や楠の中に沈み込んでいるように見えることと、的の攻撃にあった際は主要部以外は水没させ侵攻を防衛する仕組みを設けていたところから、「沈み城」という別名があります。 また、慶長年間(1610年代)の作と伝わる「慶長御積絵図 (けいちょうおつもりえず)」には、佐賀城下のもっとも古い時期の様子が描かれています。この図面の、城内部分には実際に築造されなかった石垣などが描かれていることから、佐賀城は厳密的には未完成のまま幕末を迎えたのではないか、という説もあります。
築城後、佐賀城は何度も火災に遭遇した城としても有名です。 1度目の火災は享保11年(1726年)で、このときは天守閣をはじめ本丸・二の丸・三の丸が全て焼失し、本丸の建物でのこったのは土蔵のみという有様でした。 幕府からの許可を得て二の丸を再建したのは享保13年(1728年)のことです。しかし、天保 6年(1835年)再び火災が発生し,再建した二の丸が再度焼け落ちます。 そして、天保 9年(1838年)に本丸や現存する鯱の門・続櫓が完成しました。なお、天守は享保の火災以降一度も再建されることなく明治を迎えています。
明治維新以後の佐賀城
明治を迎えた佐賀城は、明治7年(1874年)に江藤新平を中心とした佐賀の乱で反乱軍の本拠地にされます。そのため、現存する鯱の門や続櫓以外の建物のほとんどが焼失しました。 本丸御殿はかろうじて焼失を免れ、その後裁判所や学校として再利用されています。 昭和28年(1953年)に、鯱の門と続櫓が佐賀県重要文化財に指定され、昭和32年には、国の重要文化財に指定されました。 その後、昭和33年(1958年)には佐賀城に現存していた最も古い建物である本丸御殿の「御座間」が、水ヶ江大木公園に南水会館として移築されます。なお、この御座間は平成13年(2001年)に市の重要文化財に指定され、平成16年(2004年)に本丸御殿復元により元の位置に戻されました。 平成24年(2012年)には大規模な天守台の発掘調査及び、文献調査が行われ、享保の火災以前の佐賀城の様子が分ってきました。
現在の佐賀城
現在の佐賀城は、復元された本丸御殿が「佐賀城本丸歴史館」となっています。現存しているのは鯱門などごく一部ですが、その城跡が「日本の名城100選」に選出され、訪れる歴史ファンがたくさんいます。 なお、鯱門には佐賀の乱の際についた銃弾の跡などが残っています。

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佐賀城を藩庁とする、佐賀藩の歴史

佐賀藩明治維新の立役者の1つ
佐賀藩は、現在の佐賀県佐賀市(当時は肥前国)にあった藩です。肥前国は元々龍造寺氏が国人から戦国大名まで成り上がり、治めた土地でした。しかし、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗れた後は重臣である「鍋島直茂
佐賀藩DATA
藩庁 佐賀城
旧地域 肥前国佐賀郡
石高 35万7000石
譜代・外様 外様
主な藩主 鍋島家
推定人口 64万8277人(文政11年)