佐賀城佐賀県佐賀市

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佐賀城DATA
別称 龍造寺佐賀城、村中城、佐嘉城、栄城、沈み城、亀甲城
築城 1602年
住所 佐賀県佐賀市城内2-18-1
電話番号 0952-41-7550
開館時間 9:30〜18:00
休館日 12月29日~1月1日
登閣料 無料
佐賀城への交通アクセス
JR「佐賀」駅 徒歩約25分

HISTORY 佐賀城「沈み城」の別名を持つ城

佐賀城は現在の佐賀県佐賀市に建てられていた輪郭梯郭複合式平城です。龍造寺宗家代々の居城であった佐賀龍造寺城を前身とし、鍋島家が改修して「佐賀城」と名付けました。平地に建つ城で、敵に攻められたときは外堀から水を引き込んで主要部分以外を水没させる仕組みを備えていたため「沈み城」という別名があります。そんな佐賀城の歴史を紐解いていきましょう。

佐賀城の前身
佐賀(肥前国)は、戦国時代に龍造寺氏によって治められていました。龍造寺氏は肥前国の東部の国人から九州北西部を支配する戦国大名まで登り詰めた一族です。特に、大友氏を破った、龍造寺隆信は有名です。 そんな龍造氏宗家の居城であった佐賀龍造寺城(別名、村中城)が佐賀城の前身と伝わっています。 平成21年~22年にかけて佐賀市教育委員会によって西御門付近が発掘調査された結果、佐賀龍造寺城に関連する大型建物2棟や堀が発掘され、伝承が真実であったことが裏付け等られました。
佐賀城の建設
龍造寺氏は、天正12年(1584年)に島津・有馬連合軍に当時の当主であった龍造寺隆信が討たれたことがきっかけで一気に没落し、家臣の鍋島直茂が実権を握りました。鍋島直茂は龍造寺隆信の義弟であり、竜造寺家の家老でもあったので隆信の嫡男龍造寺政の後見人となって豊臣秀吉や徳川家康と渡り合ったのです。そして、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、息子の鍋島勝茂が西軍に与しましたが、その一方で鍋島直茂は徳川家康に恭順の意を示し、所領を安堵されます。 そのため、江戸幕府は龍造寺家から鍋島家へ藩主の座を移し、佐賀鍋島家が治める佐賀藩が成立します。 それに伴い、鍋島直茂は慶長7年(1602年)から佐賀龍造寺城の改修に着手し、慶長16年(1611年)に息子鍋島勝茂が完成させます。 これが佐賀城です。明治を迎えるまで佐賀藩の藩庁として機能しました。
佐賀城の概要
佐賀城は、80mもの長さの内堀を持つ平山城です。小倉城天守の図面を参考に高さ38mの外観4重内部5階建ての天守も建造されます。 平坦な土地が建造場所に選ばれたため、堀は石垣ではなく土塁で築かれ、その土塁には目隠しのために松や楠が植えられたと記録されています。 そのため、城がまるで松や楠の中に沈み込んでいるように見えることと、的の攻撃にあった際は主要部以外は水没させ侵攻を防衛する仕組みを設けていたところから、「沈み城」という別名があります。 また、慶長年間(1610年代)の作と伝わる「慶長御積絵図 (けいちょうおつもりえず)」には、佐賀城下のもっとも古い時期の様子が描かれています。この図面の、城内部分には実際に築造されなかった石垣などが描かれていることから、佐賀城は厳密的には未完成のまま幕末を迎えたのではないか、という説もあります。
築城後、佐賀城は何度も火災に遭遇した城としても有名です。 1度目の火災は享保11年(1726年)で、このときは天守閣をはじめ本丸・二の丸・三の丸が全て焼失し、本丸の建物でのこったのは土蔵のみという有様でした。 幕府からの許可を得て二の丸を再建したのは享保13年(1728年)のことです。しかし、天保 6年(1835年)再び火災が発生し,再建した二の丸が再度焼け落ちます。 そして、天保 9年(1838年)に本丸や現存する鯱の門・続櫓が完成しました。なお、天守は享保の火災以降一度も再建されることなく明治を迎えています。
明治維新以後の佐賀城
明治を迎えた佐賀城は、明治7年(1874年)に江藤新平を中心とした佐賀の乱で反乱軍の本拠地にされます。そのため、現存する鯱の門や続櫓以外の建物のほとんどが焼失しました。 本丸御殿はかろうじて焼失を免れ、その後裁判所や学校として再利用されています。 昭和28年(1953年)に、鯱の門と続櫓が佐賀県重要文化財に指定され、昭和32年には、国の重要文化財に指定されました。 その後、昭和33年(1958年)には佐賀城に現存していた最も古い建物である本丸御殿の「御座間」が、水ヶ江大木公園に南水会館として移築されます。なお、この御座間は平成13年(2001年)に市の重要文化財に指定され、平成16年(2004年)に本丸御殿復元により元の位置に戻されました。 平成24年(2012年)には大規模な天守台の発掘調査及び、文献調査が行われ、享保の火災以前の佐賀城の様子が分ってきました。
現在の佐賀城
現在の佐賀城は、復元された本丸御殿が「佐賀城本丸歴史館」となっています。現存しているのは鯱門などごく一部ですが、その城跡が「日本の名城100選」に選出され、訪れる歴史ファンがたくさんいます。 なお、鯱門には佐賀の乱の際についた銃弾の跡などが残っています。

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佐賀城を藩庁とする、佐賀藩の歴史

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佐賀藩
佐賀藩DATA
藩庁 佐賀城
旧地域 肥前国佐賀郡
石高 35万7000石
譜代・外様 外様
主な藩主 鍋島家
推定人口 64万8277人(文政11年)
日本の城フォトコンテスト.03