唐津城佐賀県唐津市

唐津城DATA
別称 舞鶴城
築城 1608年
住所 佐賀県唐津市東城内8-1
電話番号 0955-72-5697
開館時間 9:00〜17:00(入館は16:40まで)
休館日 12月29日〜31日
登閣料 一般500円/小・中学生250円
唐津城への交通アクセス
JR「唐津」駅 徒歩約15分

HISTORY 現在は桜と藤の名所「唐津城」

唐津城は、佐賀県唐津市東城内にあった平城です。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が築かれており、現在も直接海にそびえる石垣を見ることができます。城の左右に広がる砂浜が鶴の翼のように見えることから「舞鶴城」の別名があります。現在は桜と藤の名所としても知られている唐津城の歴史を紐解いていきましょう。

唐津城の築城
唐津城の歴史は、豊臣秀吉の家臣である寺沢広高が唐津の地に封じられたことから始まります。 寺沢広高は、父と共に豊臣秀吉に仕えましたが肥前名護屋城の普請を務め、出征諸将や九州大名への取次を担当したことから出世し、長崎奉行まで登り詰めた人物です。 一次はキリシタンに改宗していましたが、慶長2年(1597年)の日本二十六聖人処刑を契機に棄教します。さらに、秀吉の死後は小西行長とともに武断派と敵対しました。 そのためか寺沢広高は秀吉の死後、徳川家康に近づき慶長4年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは、東軍につきます。 その結果、寺沢広高は所領を安堵されると同時に、天草4万石を増加されます。
寺沢広高はこの増加を得て、慶長7年(1602年)より本格的な唐津城の築城を開始します。 築城の際には、東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、松浦川がそこから直接唐津湾に流れ込むような、大規模な治水工事も行っています。 城の建材は豊臣秀吉が朝鮮出兵の際の居城とした名護屋城の廃材が用いられました。 また、九州の各藩に普請を依頼し、協力してくれた大名の記録は、現在も柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀といった堀の名前として残っています。
江戸幕府が開かれた後に作られた城で戦には使われず、二の丸に藩庁御殿、三の丸は侍屋敷が建築されました。 なお、現在復元されている唐津城には天守がありますが、築城当時の唐津城は天守台こそ作られていますが、天守は築城されませんでした。 以前は、「築城当時は天守があった」という説もありましたが、天守があったことを示す絵図などの記録は一切なく、現在は最初から作られなかった説が有力です。 寺沢広高は唐津城築城だけでなく、城周囲の砂浜に防風林として松林をつくり、これは現在でも日本三大松原の一つ、「虹の松原」として観光名所になっています。 唐津城は明治に至るまで、唐津藩の藩庁として機能し、5つの大名家が城主として入りました。
明治以降の唐津城
明治時代になると、廃藩置県により唐津藩は廃止されました。明治4年(1871年)に唐津城は廃城になり、建物は取り壊されて明治10年(1877年)には舞鶴公園として整備され、市民に開放されました。 そして、戦後昭和41年(1966年)、文化観光施設として5層5階の模擬天守が築かれます。門や櫓も同時に再建され、唐津城は観光名所となります。 平成元年(1989年)には唐津市役所前に肥後堀と石垣が復元され、平成4年(1992年)二の丸跡に時の太鼓、平成5年(1993年)市役所付近に三の丸辰巳櫓が復元されました。
平成28年(2016年)には発掘調査が行われ、大手門の遺構が初めて確認されます。
平成29年(2018年)には、続日本100名城に選出されました。同年、天守閣の大規模改修も行われています。 なお、現在の唐津城にはエレベーターが設置されており、舞鶴公園から天守閣まで一気に上ることもできます。 舞鶴公園は桜と藤の名所としても有名で、毎年春になるとたくさんの観光客で賑わう場所です。
まとめ
唐津城は海に面した海城として大変見栄えがする城でした。 現在でも舞鶴公園は市民の憩いの場や観光名所として知られています。 また、初代藩主寺沢広高がつくった虹の松原は国の名勝にも指定されています。

唐津城と関連する事件を読む

島原の乱鎖国のきっかけとなったキリシタンたちの反乱
江戸時代初期、キリシタン農民たちによる大規模な反乱が発生します。それが寛永14年(1637年)10月25日から翌寛永15年(1638年)2月28日まで、約半年間にわたって続いた「島原の乱」です。「島原
島原の乱

唐津城を藩庁とする、唐津藩の歴史

唐津藩5つの大名家が治める
唐津藩は現在の佐賀県唐津市(備前国唐津)を領地とした藩です。豊臣秀吉と徳川家康の両方に仕えた寺沢広高が起ち上げた藩であり、明治維新まで5つの大名家によって治められました。そんな唐津藩の歴史を紐解いてい
唐津藩
唐津藩DATA
藩庁 唐津城
旧地域 肥前国唐津
石高 6万石
譜代・外様 譜代
主な藩主 寺沢家・大久保家・松平家・土井家・水野家・小笠原家
推定人口 6万5000人(明治元年)
日本の城フォトコンテスト.03