基肄城跡(椽城)とは、佐賀県三養基郡基山町と福岡県筑紫野市にまたがる古代山城跡である。天智4年(665)、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた後、大陸からの侵攻に備えて大宰府を守るため、大野城とともに築かれた。基山とその東峰の間にある谷を取り込み、約4kmにわたって土塁・石塁を巡らせた大規模な城で、尾根には土塁、谷部には石塁が築かれている。城内には4ヶ所の城門跡、水門跡、約40棟の礎石建物跡などが確認され、武器や食料を蓄える倉庫群が置かれていたと考えられている。中世には古代の城郭を利用した「木山城」として再び軍事利用された。現在は国の特別史跡に指定され、続日本100名城にも選定されている。
| 目的 | 大宰府の防衛、唐・新羅による侵攻への備え、筑紫平野と交通路の監視、武器・食料の備蓄、防衛拠点 |
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| 特長 | 天智天皇、白村江の戦い、大宰府、大野城、百済、朝鮮式山城、基山、土塁、石塁、水門、城門、礎石建物、倉庫群、木山城、特別史跡、続日本100名城 |
| 他の城との違い | ・天智4年(665)という築城年代が『日本書紀』によって確認できる古代山城である ・山頂だけを守るのではなく、基山と東峰の間の谷を約4kmの城壁で大きく囲んでいる ・尾根では土塁、谷では石塁を使い分け、水を城外へ流す水門も設けている ・城内には約40棟の礎石建物跡があり、有事に備えた武器や食料の倉庫群と考えられている |
| 石垣 | 石塁が現存。谷部を塞ぐ城壁として築かれており、近世城郭の石垣とは性格が異なる |
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| 土塁 | 現存 |
| 種類 | 版築土塁、石塁、水門、城門、礎石建物、古代山城、朝鮮式山城、谷を取り込む城郭 |
| 石材 | 自然石を用いた石塁。南側の谷部には現在も大規模な石塁と水門跡が残る |
| 特長 | 基肄城跡(椽城)は、基山と東峰にかけて谷を囲むように約3.9kmの城壁を巡らせた古代山城である。尾根沿いには土を突き固めた土塁を築き、谷部では石塁によって城壁をつないでいる。南側の水門跡では、谷を塞ぐ長さ約26m、高さ約8.5mの石塁が残り、その内部に城内の水を外へ流すための排水施設が設けられている。調査では従来知られていた水門に加えて3ヶ所の通水溝が確認され、同じ石塁に計4ヶ所の排水施設が存在したことが明らかになった。基肄城跡(椽城)では、石塁だけでなく、山の地形に沿って続く土塁、水門、城門跡、礎石建物群を含めた城郭全体を見るのが自然である。 |
| 別称 | 椽城、木山城(中世) |
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| 所在地 | 佐賀県三養基郡基山町、福岡県筑紫野市 |
| 築城 | 天智4年(665) |
| 築城者 | 天智天皇期のヤマト政権。百済の高官である憶礼福留、四比福夫らが築城を指揮したと『日本書紀』に記される |
| 住所 | 佐賀県三養基郡基山町大字小倉字北帝・坊住・車道ほか、福岡県筑紫野市山口・原田・萩原 |
| 電話番号 | 0942-92-2200(基山町教育委員会 教育学習課) |
| 開館時間 | 城跡は見学自由 |
| 休館日 | 城跡は見学自由 |
| 入館料 | 無料 |
| 備考 | 基肄城跡(椽城)は国の特別史跡で、続日本100名城の184番に選定されている。国指定文化財としての名称は「基肄(椽)城跡」で、『日本書紀』には「椽城」、『続日本紀』には「基肄城」と記されている。昭和12年(1937)に国の史跡、昭和29年(1954)に佐賀県内で初めて国の特別史跡に指定された。城域は佐賀県と福岡県にまたがり、水門跡、北帝門跡、東北門跡、大礎石群、丸尾礎石群などの遺構が残る。中世には古代城郭を利用した木山城として再利用された。 |
| 660年 | 朝鮮半島で百済が唐・新羅連合軍によって滅亡する |
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| 663年 | 倭が百済復興を支援して朝鮮半島へ出兵するが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗する |
| 664年 | 大陸からの侵攻に備え、対馬・壱岐・筑紫国に防人と烽が置かれ、大宰府防衛のため水城が築かれる |
| 665年 | 天智天皇期のヤマト政権により、大宰府防衛のため大野城と基肄城跡(椽城)が築かれる。『日本書紀』には百済の高官である憶礼福留、四比福夫が築城を指揮したことが記される |
| 飛鳥時代 | 基山と東峰の間の谷を囲むように土塁・石塁が築かれ、城門や水門などを備えた大規模な古代山城として整備される |
| 698年 | 『続日本紀』に、大宰府が大野城・基肄城・鞠智城を修理したことが記される |
| 奈良時代 | 城内に多数の礎石建物が整備され、武器や食料などを備蓄する倉庫群として利用されたと考えられる |
| 8世紀頃 | 大宰府出土の木簡から、基肄城から筑前・筑後・肥後へ稲穀が供給されていたことが確認されている |
| 南北朝時代 | 古代基肄城の遺構を利用した中世山城「木山城」として再び軍事利用される |
| 14世紀後半 | 南朝方が大宰府防衛の拠点として城山、木山を利用し、その後、九州探題今川了俊が攻略して本陣とした |
| 中世 | 基山山頂周辺に空堀や「いものがんぎ」と呼ばれる堀切状の遺構などが築かれ、古代山城とは異なる中世城郭としての機能が加えられる |
| 1937年 | 12月21日、基肄(椽)城跡が国の史跡に指定される |
| 1954年 | 3月20日、基肄(椽)城跡が国の特別史跡に指定される |
| 2008年 | 国の特別史跡として追加指定が行われる |
| 2017年 | 日本城郭協会により、基肄城が続日本100名城のひとつに選定される |
| 現在 | 土塁、石塁、水門、城門跡、礎石建物群などが保存され、古代大宰府の防衛体制を伝える特別史跡として公開されている |