松前城北海道松前郡

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松前城DATA
別称 福山城
築城 1855年
住所 北海道松前郡松前町字松城144
電話番号 0139-42-2216
開館時間 午前9時~午後5時
休館日 12月11日~4月9日
登閣料 大人360円・小人240円

松前城は安政元年に完成した最後の日本式城郭。

松前城への交通アクセス
北海道新幹線、道南いさりび鉄道線・木古内駅から函館バス「松城」下車、徒歩約10分。

HISTORY 幕末に築城された北海道唯一の城郭、松前城

松前城は、北海道松前町松城に建っていた平城です。正式な名前を福山城といいますが、備前福山城との混乱を避けるために、築城当時から「松前城」の通称で呼ばれていました。
安政元年(1855年)に築城された北海道唯一の日本式城郭です。 そんな松前城の歴史を紐解いていきましょう。

幕末に築城された城
松前城は、江戸幕府が海防強化のため松前藩へ命じて築城させた城です。 松前藩は領内に米の生産がないことから、「藩」としながら大名格付けはされておらず、大名の最末席に位置づけられていましたが。 しかし、文政4年(1821年)に幕府より蝦夷地一円の支配を戻されたのをきっかけに、それまで居城としていた「福山館」を拡張する形で松前城を築城し、晴れて城持ちの大名になったのです。 嘉永2年(1849年)に築城を開始し、安政元年(1855年)に完成しました。 長崎県五島市にあった石田城と並んで江戸時代最後期に建築された、北海道唯一の日本式城郭です。
箱館戦争と松前城
松前城は、明治元年(慶応4年・1868年)から翌明治2年(1869年)にかけて、起こった箱館戦争の舞台にもなりました。 函館戦争は「五稜郭の戦い」や「己巳の役」とも呼ばれ、旧幕府軍と新幕府軍がぶつかった最後の戦闘でもあります。 このとき、旧幕府軍を率いていた将の1人が土方歳三です。 松前藩は戊辰戦争勃発前から、新政府に従う意思を示す一方で奥羽越列藩同盟にも加わるなど日和見を続けていましたが、尊王派の正義隊によるクーデターによって松前藩は正式に新政府軍に味方することを公言します。 そのため、土方歳三が旧幕府軍の彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などを含む総勢700名を率いて松前城に出陣しました。 このとき藩主の松前徳広が内陸の館城に移動しており、松前城には少数の兵士かおらず、搦手門から旧幕府軍に攻め込まれた兵達は数時間で城を放棄し、城下に火を放ち、江差方面へ敗走したのです。 しかし、箱館戦争は結果的に新政府の勝利で終り、土方歳三は五稜郭で命を落とすことになりました。
明治維新後の松前城
幕末に築城されながら戦争の舞台になった松前城は、明治4年(1871年)には家臣俸禄維持のために、銅瓦など価値のある部分から解体されて売却されるようになります。 さらに、明治6年(1873年)に漁業税改正反対の漁民一揆が発生したことを受け、旧藩士の反乱を防ぐために松前城の解体が決定します。 このとき、天守閣の銅板は開拓使札幌本庁舎の屋根に転用されました。 本丸御殿の建物も福山出張所として使用しようとしましたが老朽化が激しく断念、翌明治8年(1874年)には、「天守」「本丸表御殿」「本丸御門以外」を残しそれ以外の建物の解体を開始します。 さらに、石垣も撤去して堀を埋め立てて更地としました。このときにでた廃材は、役所など公共の建物の建築材料に再利用されたり民間に売却されたりしました。 そして、松前城の石垣を再利用して作られたのが「松前波止場」です。 松前波止場は現在の松前港が整備されるまで船着き場として使われ、平成26年(2014年)には土木学会によって「土木学会選奨土木遺産」にも認定されています。
昭和10年(1935年)には、城跡が国の史跡に指定され、翌年には天守、本丸御門、本丸御門東塀が旧国宝保存法に基づいて国宝に指定されました。 それでも、経年劣化による天守閣は損傷が激しく太平洋戦争が終った昭和20年(1945年)には、白壁が崩れ落ちて骨組みばかりの姿になっていたと記録に残されています。 昭和24年(1949年)、やっと資金の捻出がかなって天守閣の修繕をはじめようとした矢先に火災が発生し、本丸御門を除いた天守をはじめとする現存していた建物の大半が焼失しました。
昭和32年(1956年)、当時の町長であった松本隆氏が「松前城再建期成会」を結成して募金を開始し、昭和34年(1958年)より松前城再建工事が始まります。 昭和36年(1960年)に鉄筋コンクリート構造の松前城が復元されました。内部は資料館になっており、外観はできる限り焼失前の姿を再現した作りです。 なお、現在は再建された松前城の老朽化が激しくなったため、平成30年(2018年)より令和17年(2035年)完成を目指して木造による復元計画が立ち上げられました。
その後
現在、本丸御殿が国の重要文化財、本丸表御殿玄関が北海道の有形文化財に指定され、松前の観光地として多くの人々が訪れています。 特に、毎年5月におこなわれる「松前さくらまつり」には20万人の人手があつまる盛況ぶりです。

松前城と関連する事件を読む

文化露寇江戸時代、ロシアによる樺太・択捉襲撃事件
江戸時代後期、鎖国中の日本にロシアからの外交使節が訪れます。日本とロシア間での通商交渉が目的でしたが江戸幕府は拒否。幕府の頑なで無礼な態度に怒りを覚えた外交使節のニコライ・レザノフは、部下のフヴォスト
シャクシャインの戦い松前藩vsアイヌの戦い
江戸時代、蝦夷地(現在の北海道、サハリン島、千島列島など)の大部分にはアイヌが住んでいましたが、江戸幕府が置いた松前藩が徐々にアイヌへの支配を強めていき、アイヌと幕府の対立が深まっていきます。そんなな

松前城を藩庁とする、松前藩の歴史

松前藩アイヌとの貿易や林業で国を支えた
松前藩は、北海道松前郡松前町にあった藩です。藩主は江戸時代以前から松前氏が務め、明治維新を迎えるまで幕府の直轄地と松前氏の支配が繰り返された珍しい土地です。 また、米作ができないため藩の財政はアイヌと
松前藩DATA
藩庁 松前城
旧地域 蝦夷
石高 3万石
譜代・外様 外様
主な藩主 松前氏

アイヌとの交易独占権を認められた蠣崎慶広が姓を松前と改めて在封。以来、15代続く。

松前城、桜に囲まれた日本最北の天守

北海道松前町にある松前城(福山城)は、江戸時代後期に外国船を打払うため松前藩が建てた比較的新しい城です。日本最北端の城としても知られており、昭和35年(1960年)に再建された復興天守が残されています。

松前城
松前城の歴史
松前城のもとになったのは、「福山館」と呼ばれる松前藩主の住む居館です。福山館は松前藩初代藩主の松前慶広が慶長5年(1600年)に築城を開始。慶長11年(1606年)に完成して以降、一部の期間を除き、松前氏の本拠地として代々の藩主が住んでいました。
江戸時代後期になり外国船が日本を訪れるようになると、幕府は松前藩に対ロシアなどを見据えた津軽海峡の警備強化のための城の築城を命じます。そして嘉永2年(1849年)、第12代藩主の松前崇広は福山館のあった場所に館を拡大する形で福山城の築城を開始。安政元年(1854年)に完成しました。城の設計は高崎藩の兵学者・市川一学で、当時「日本三大兵学者」と呼ばれた人物です。
なお、城の正式名称は「福山城」ですが、備後福山城(広島県福山市)と区別するために「松前城」とも呼ばれています。
松前城の面積は約7万7800㎡で、三層の天守を持ち、本丸、二の丸、三の丸に加え楼櫓6、城門16を持つ立派な城でした。海岸に近い三の丸には異国船対策で砲台を7基配備しています。
幕末の函館戦争の際は五稜郭を占拠した旧幕府軍に対し、新政府軍が松前城を拠点としましたが、旧幕府軍に城を落とされてしまいます。その後明治2年(1869年)4月には新政府軍が奪還していますが、戦争により城は大きな損害を受け、城下町も2/3が焼失してしまいました。
松前城は明治6年(1873年)に取り壊しが決定し、天守や本丸御殿、本丸御門以外は破却されます。さらに昭和24年(1949年)の火災により、天守が焼。その後、昭和36年(1961年)に鉄筋コンクリート造の復興天守が再建され、資料館となっています。令和6年(2024年)末時点では老朽化や耐震性などの問題から改修を検討中で、木造天守として復元する計画も出されています。
松前城の見どころ①復興天守
昭和36年(1961年)に再建された復興天守は層塔型3重3階で、焼失前の外観を忠実に再現しています。松前のシンボル的存在として人々から愛されており、周辺には多くの桜の木が植えられているため、春にはピンクの中に天守が浮かび上がる美しい光景が望めます。
内部の資料館には「松前屏風」と呼ばれる、宝暦年間(1751年〜1763年)の松前城下の秋を描いたとされる屏風の複製が展示されています。松前出身の絵師・児玉貞良によるもので、松 福山館はもちろん、寺院や商家、港湾や当時の人々の生活の様子まで生き生きと描かれており、見ごたえがあります。
このほか、資料館には聚楽第にあったと伝わる「桐章」や甲冑、北前船関連資料などが展示されています。なお、毎年12月上旬〜4月上旬は冬季休館となっているので注意しましょう。
松前城の見どころ1 松前城の見どころ2 松前城の見どころ3
松前城の見どころ②現存する本丸御門と本丸表御殿玄関
松前城に築城当時から残る遺構のひとつ、「本丸御門」は国の重要文化財に指定されています。門は切妻造り、屋根は銅板葺きで、これは粘土瓦が寒さで凍ったり割れたりしやすいことからとのこと。三間一戸両脇戸付きの櫓門で、天守との間に塀が取りつけられています。
もう一つ残るのが「本丸表御殿玄関」です。明治8年(1875年)以降、表御殿は松城小学校の校舎となり、明治33年(1990年)に校舎が新築される際に撤去されましたが、表御殿の玄関は小学校の玄関としてそのまま使われ続けました。それが曳屋で現在の場所まで移動・保存されているのです。
実はこの表玄関、京都の伏見城の一部を移築したものだとも言われており、安土桃山時代の特徴が随所に見られます。
松前城の見どころ4 松前城の見どころ5 松前城の見どころ6
松前城の見どころ③函館戦争ゆかりの地
松前城は函館戦争の際の激戦地となっており、函館戦争をしのばせるスポットが残されています。天守台南側の石垣には砲弾のあたった跡だと推察される丸いくぼみがあります。また、松前城に続く「馬坂」は土方歳三が通って城内を攻めたとされる坂です。
三の丸には7台の砲台が置かれた砲台跡があり、函館戦争の際も使われました。現在はその一部が復元されています。
松前城のフォトスポット
松前城の写真を撮るなら春がおすすめ。松前城のある松前公園内には250種類・1万本の桜が植えられており、早咲きのものから遅咲きのものまでさまざまな種類の花が楽しめます。北海道の春は遅く、桜の見ごろは4月下旬から5月下旬までなので注意しましょう。このほか内堀と石垣、天守を撮影するのもおすすめですよ。
松前城の見どころ7 松前城の見どころ8 松前城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。