文化露寇(1/2)江戸時代、ロシアによる樺太・択捉襲撃事件

文化露寇

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
文化露寇(1806年〜1807年)
場所
北海道
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松前城

松前城

江戸時代後期、鎖国中の日本にロシアからの外交使節が訪れます。日本とロシア間での通商交渉が目的でしたが江戸幕府は拒否。幕府の頑なで無礼な態度に怒りを覚えた外交使節のニコライ・レザノフは、部下のフヴォストフたちに命じて日本の北方拠点だった樺太・択捉(えとろふ)を襲撃させました。これが文化3年(1806年)から翌年にかけて起こった「文化露寇(ぶんかろこう)」、別名フヴォストフ事件です。文化露寇をきっかけに幕府は海防強化に努めていくことになります。今回はそんな文化露寇とは何かについてわかりやすく解説します。

鎖国時代のロシアの動き

文化露寇の話に入る前に、鎖国時代の日本とロシアの関係について確認しておきましょう。寛永16年(1539年)、江戸幕府第三代将軍の徳川家光の時代に「鎖国」が完成します。ただし、鎖国とはいえ海外との交流や通商を完全にストップしていたわけではありません。江戸時代には長崎口、対馬口、薩摩口、松前口(蝦夷口)の4つの窓口が存在し、海外と交流していました。

長崎口では幕府直轄の長崎奉行のもと、中国やオランダとの通商が続いていました。加えて、対馬口では対馬藩(現長崎県対馬市と佐賀県の一部)のもとで朝鮮と外交・交易が、薩摩口では薩摩藩(鹿児島県と宮崎県南西部)のもとで琉球王国との外交・交易が継続。そして松前口は松前藩(当初は北海道南部、その後拡大)のもと、蝦夷(北海道全島、樺太島、千島列島など)のアイヌ、ひいてはアイヌ経由でのロシア・黒竜江(アムール川)下流域の住民との交易が続いていたのです。

18世紀後半からはロシアやフランス、アメリカ、英国などの船が日本を訪れて、通商交渉を開始します。ロシアについては安永7年(1778年)、千島列島のウルップ島を拠点にラッコ捕獲事業をしていた商人・オチエレデンが、3隻の船で根室市のノツカマップに上陸したのが史料上残る日本との初接触だとされています。食糧不足から日本との交易を求めての来訪でしたが、松前藩は鎖国中であることを理由にこれを拒否しています。

ラクスマンが大黒屋光太夫らと根室を訪問

オチエレデンから14年後の寛政4年(1792年)、ロシア帝国エカチェリーナ2世の使者として日本を訪れたのが最初の遣日使節である、軍人のアダム・ラクスマンです。ラクスマンは伊勢国(三重県)出身の船頭・大黒屋光太夫達を日本に送り届けるとともに、通商を求める信書を携えて根室に上陸しました。

大黒屋光太夫は天明2年12月(1783年1月)、乗った船が遠州灘沖で遭難。7か月ほど漂流したのちにアリューシャン列島のアムチトカ島に到着し、そこで数年をすごします。そしてオホーツク海を越え、寛政元年(1789年)2月にイルク-ツクに移りました。ここで光太夫はアダム・ラクスマンの父、キリル・ラクスマンと出会い、日本に帰るためロシア帝国の首都・ペテルブルグに向かいます。しばらくは首都にとどめ置かれましたが、寛政4年にアダム・ラクスマンとともに日本に戻ってきたのです。

ラクスマンとの窓口となった松前藩の報告を受けた江戸幕府の返答は「漂流民の送還については感謝するが、通商は国法により不可」というものでした。ラクスマンとしては江戸を訪れて通商交渉を行いたいところでしたが、当時の老中・松平定信は「通商の交渉をしたいのならば長崎に行くように」と伝えました。

ただし、漂流民を送り届けてくれたことから松前藩に対しては「失礼のないよう丁寧にもてなすように」と指示しています。ラクスマンは根室で約8ヶ月間過ごしたのち、松前で幕府側の役人と交渉。結局通商交渉は決裂しましたが、幕府はラクスマンに対し「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と題する長崎への信牌(入港許可証)を与えています。ちなみに、幕府としてはラクスマンが長崎を訪れた場合は貿易を開始せざるを得ないのでは、と考えていたようです。ところがラクスマンは箱館から出航したのち、長崎によらずオホーツクに帰ってしまいます。

文化露寇①ニコライ・レザノフの来日

ラクスマンの来航を契機に、ロシアは千島列島のウルップ島に開拓民を送り、ロシアの拠点を建設しました。しかもロシアに加え、英国船も北海道近海に現れ始めます。こうした事態を重く見た江戸幕府は海防政策の強化をはかり、北海道や千島列島、樺太などを調査したうえで幕府の直轄地化しています。

そんななか、文化元年(1804年)9月、ロシア帝国の外交使節としてニコライ・レザノフが長崎を訪れます。レザノフはアレクサンドル1世からの親書とラクスマンが得た信牌を持参し、江戸を訪問して将軍に親書と献上物を呈するとともに、ロシアと日本の通商を求めたのです。ロシア側としてはラクスマンの例から、当然の通商が許可される、そんな目論見がありました。

ところがラクスマンが訪れてから10年以上もたっており、幕府はロシアの進出を警戒中。当時の交渉相手だった松平定信も失脚しており、変わって「通商断固拒否」の老中・土井利厚が対応したため、レザノフの要求は受け入れられることはありませんでした。このほか、レザノフの日記などロシア側の資料からは、天皇の許可なくラクスマンに信牌を渡したことが問題になっていたらしい記述も残されています。

土井利厚については『大河内文書 林述斎書簡』に「レザノフに乱暴な応対をすればロシアは怒ってもう二度と来ないのでは。もしこれが原因でロシアから武力行使されても日本の武士は後れはとらない」と主張した、という話が残されています。このため王の親書を持った正式な使者であるにもかかわらず、レザノフへの対応はラクスマンと比較するとひどいものでした。

レザノフは長崎に正式に上陸を許可されるまで2ヶ月、さらに長崎奉行や幕府側の役人と会談するまで半年も待たされました。しかも要求はすべて拒絶され、さらに信牌まで返却させられる始末です。ちなみに会談は文化2年(1805年)3月6日から9日に3回行われていますが、この時江戸からやってきた幕府側の担当者が目付の遠山金四郎景晋、つまり「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の父でした。

レザノフは交渉が決裂したまま3月19日に長崎を出航。カムチャツカに戻りますが、その裏では部下のフヴォストフ中尉やダヴィドフ士官候補生らに樺太・千島にある日本の拠点を攻撃するよう命じていました。さらにアレクサンドル1世に長崎での経験を踏まえ、日本に関しては武力による開国要求を行うしかない、と上奏しています。

こうしたレザノフの行動は長崎での対応に腹を立てたからだと言われていますが、そもそも親書を持った正式な外交官が、親書を持たないただの使者よりも下に見られる扱いを受ければもはや外交問題です。この時の幕府の対応は文化露寇後に幕府内からも相当批判されることになります。

文化露寇②レザノフ、樺太襲撃をフヴォストフに命令…?

ニコライ・レザノフは文化3年(1806年)8月8日付で、部下のフヴォストフに対し「日本は一度は通商に同意しながら、その後に使節団を派遣したときは拒絶するという背信行為を起こした」と日本を非難したうえで、樺太南部・アニワ湾での日本船の焼き討ちを命令。健康で労働に適した日本人は連行するよう命じており、日本人をアラスカ開拓の労働力として活用しようと考えていたようです。また、日本人に対しては「どこで出会っても船を焼いて損害を与えること」と書いています。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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