大垣城岐阜県大垣市

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冬の大垣城1 冬の大垣城2 冬の大垣城3 冬の大垣城4 冬の大垣城5 冬の大垣城6
大垣城DATA
別称 麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)
築城 1535年
住所 岐阜県大垣市郭町2丁目52
電話番号 0584-74-7875
開館時間 午前9時~午後5時(入館は16時30分まで)
休館日 火曜、祝日の翌日、年末年始
登閣料 大人200円

大垣城は全国的にも珍しい4層の天守を持ち、「城下町・大垣」のシンボルとして市民に親しまれている。

大垣城への交通アクセス
JR「大垣駅」南口から南へ徒歩7分。

HISTORY 関ヶ原の戦いで石田三成の本拠地になった大垣城

大垣城は、岐阜県大垣市郭町にあった平城です。別名を麋城(びじょう)や巨鹿城(きょろくじょう)と言い、太平洋戦争の空襲で焼失するまで天守閣が現存していました。慶長6年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成の本拠地にもなった歴史があります。 そんな大垣城の歴史を紐解いていきましょう。

関ヶ原の戦いで石田三成の本拠地となる
大垣城の歴史は、美濃守護を務めていた土岐一族の宮川吉左衛門尉安定によって天文4年(1535年)に築かれたと伝わっていますが確かな記録は残っていません。
戦国時代後期になると、大垣城は戦略上の重要な拠点になったことから織田氏や斎藤氏といった中部地方に台頭してきた戦国武将が奪い合いを繰り返し、最終的に織田信長の父、小田信秀が落城しましたが、5年後斎藤氏が奪い返します。その後、永禄2年(1559年)氏家直元(桑原直元)という武将が大規模な改修を加え、堀や土塁が拡張され、総囲いなどが整備されました。
天正11年(1585年)賤ヶ岳の戦いが終わると、大垣城が建つ地域一帯は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の支配下に入ります。秀吉ははじめに池田恒興とその息子池田輝政に大垣城を与えた後、池田輝政を岐阜城に移封し、豊臣秀吉の甥、豊臣秀次の家臣一柳直末に3万石で城主の座を与えました。
天正13年(1586年)に発生した天正地震により、大垣城の建物は全壊消失します。天正16年(1588年)~慶長元年(1596年)一柳直末、もしくは伊藤祐盛によって特徴的な4層の天守閣が建築されました。
慶長6年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると、当時城主であった伊藤盛宗が西軍に味方したため、石田三成は主力軍を率いて大垣城に入り本拠地としました。その後、石田三成と主力軍は関ヶ原へ移動した後、三成の妹の夫にあたる福原長堯という人物が城を守るために残ります。
関ヶ原での戦いで西軍が敗北すると大垣城は東軍に包囲されます。さらに相良頼房、秋月種長、高橋元種が東軍に寝返り、垣見一直、木村由信、木村豊統、熊谷直盛らを軍議の名目で呼び出して謀殺しました。このような状況になってなお、福原長堯は抵抗をつづけましたが、徳川家康からの使者が直接説得してようやく降伏して城を明け渡します。関ヶ原の戦いが始まったのが9月15日、福原長堯が降伏したのは9月23日のことでした。
その後、福原長堯は伊勢朝熊山に籠って出家しますが徳川家康は彼を許さず、結局自害して生涯を閉じました。 なお、大垣城の戦いに加わっていた山田去暦という武将の娘がそのときの場内の様子を書き残した「おあん物語」という読み物が現代まで伝わっています。
江戸時代以降の大垣城
江戸時代に入ると、城主は石川康通、甥の石川忠総、松平忠良などが務め、その間に大規模な修繕や改築が行われました。寛永12年(1635年)に戸田氏鉄が城主になると以後明治維新まで戸田氏が城主を務めます。江戸時代の大垣城は4重4階の合式層塔型天守のほか、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並んでいました。本丸と二之丸は並郭式に並んでおり、その周囲を三之丸が囲み、さらに三之丸の外側を総構がかこっていたと記録に残っています。
明治時代に入り廃城令が発せられましたが、天守などの一部の建物は破損を免れ、昭和11年(1936年)には、天守等が旧国宝に指定されます。しかし、昭和20年(1945年)の大垣空襲により、天守を含む建物はすべて焼失しました。
昭和36~42年(1959~1967年)にかけて天守や乾櫓などが鉄筋コンクリートで復元されます。しかし、天守は群上八幡城を参考にしており、外観がやや異なっています。大垣市では現在まで昔の大垣城を再現しようという「大垣城郭整備ドリーム構想」を計画していますが、まだ実現にはいたっていません。 平成29年(2017年)に続100名城に指定されました。
まとめ
現在の大垣城は場内が展示室になっており、関ヶ原の戦いに関する資料や江戸時代に大垣城の城主であった戸田氏に関する資料などをみることができます。 また、桜の名所としても親しまれており、桜の時期には市民や多くの観光客でにぎわいます。

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大垣藩DATA
藩庁 大垣城
旧地域 美濃国大垣
石高 10万石
譜代・外様 譜代
主な藩主 石川家、松平(久松)家、岡部家、松平(久松)家、戸田家
推定人口 9万人(明治元年)

石川康通に続いて、松平(久松)家、岡部家、戸田家などが入封。幕末は家老・小原鉄心が新政府を支持。

大垣城、関ヶ原の戦いで石田三成の本拠地となった城

岐阜県大垣市にあった大垣城は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、西軍の中心人物である石田三成の本拠地となった平城です。現在は復元天守がそびえ、城跡は大垣公園として整備されています。平成29年(2017年)4月には続日本100名城に選ばれました。

大垣城
大垣城の歴史
大垣城は明応9年(1500年)に竹腰尚綱が、または天文4年(1535年)に宮川安定が築いたと言われており、起源には諸説あります。大垣は東海道と東山道が通り、揖斐川などの川による水運も盛んだったため、古くから交通の要衝として重視されていました。その地を巡って織田氏・斎藤氏が争奪戦を繰り広げており、城主は幾度も交代しました。永禄2年(1559年)には斎藤氏の家臣である氏家直元が城主となり、永禄6年(1563年)に総囲を築くとともに城を拡張しています。
豊臣政権下では池田恒興や息子の池田輝政が城主に就きましたが、天正13年(1585年)に輝政は岐阜城に転封となり、代わって豊臣秀次の家老・一柳直末が城に入りました。
同年11月29日の天正地震で大垣城は全壊しますが、天正16年(1588年)に直末が城を復興整備し天守を築きました。または慶長元年(1596年)に直末の次の城主の伊藤祐盛が天守を築いたという説もあります。天守は4重4階でした。
大垣城が次に歴史の表舞台に現れるのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのときです。大垣城は西軍・石田三成の本拠地となりました。三成は城を中心に美濃西部に防衛線を築きましたが、一方の東軍は大垣城を牽制しつつ関ヶ原方面へ進軍。関ヶ原を越えて佐和山城(滋賀県彦根市)を落として大坂城を攻めようという計画でした。このため西軍は関ヶ原で東軍を迎え撃つことを決め、主力を関ヶ原に移動します。
このため大垣城では両軍の衝突はあったものの軽微なものでした。さらに関ヶ原の戦いで東軍が勝利したことで、大垣城にいた西軍の残党のほとんどは東軍に寝返ってしまいます。最後まで抵抗した福原長堯も9月23日に降伏し、大垣城は開城しました。
江戸時代に入ると、慶長6年(1601年)に譜代大名の石川康通が城主として大垣城に入城。慶長18年(1613年)には跡を継いだ石川忠総が総堀を整備しました。寛永12年(1635年)に戸田氏鉄が入封されると、明治維新まで戸田氏が大垣を治めます。大垣氏の時代には大垣城の改修が行われており、寛永18年(1641年)から総門や石垣、枡形などを改築、慶安元年(1648年)には天守や櫓の修築が進みました。
明治維新後は廃城令により城の一部が破却されましたが、天守など主要な建造物は保存されます。昭和11年(1936年)は天守や艮櫓が国宝に指定されましたが、昭和20年(1945年)7月の大垣空襲で焼失しました。
その後、昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート製の復元天守が再建されました。昭和42年(1967年)には乾櫓、昭和60年(1985年)には艮櫓も再建されました。なお、かつての大垣城は水堀を幾重にもめぐらせており、城下町も「水の都」と呼ばれていましたが、明治以降に堀は埋め立てられ、現在は水門川や牛屋川として残るのみです。
大垣城の見どころ①復元天守
現在の大垣城の天守は、複合式層塔型4重4階で、2基の付櫓を備えています。平成23年(2011年)の改修工事を経て、戦前の国宝天守を可能な限り再現する形となっており、白亜の壁と黒瓦が美しいコントラストをなしています。
内部は資料館になっており、大垣城や関ヶ原の戦い、武士や庶民の生活などに関する展示を見ることができます。4階の展望台からは大垣市内が一望できます。
大垣城の見どころ1 大垣城の見どころ2 大垣城の見どころ3
大垣城の見どころ②笑い積みの石垣と化石
大垣城の石垣は石灰岩による「笑い積み」です。笑い積みは石垣の中に巨石(鏡石)を据えて強度を高める積み方で、隙間が多く石が笑っているかのように見えることからその名がつけられました。
石垣の石のほとんどは、大垣城から北西約4㎞にある金生山から切り出した石灰岩です。金生山はもともと海底で、約2億5000万年前の地殻変動で隆起し手山になりました。このため石垣に使われた石にはフズリナ、サンゴ、ウミユリ、巻貝や二枚貝など、古生物の化石が多く含まれています。化石を探しながら石垣をめぐるのがおすすめです。
大垣城のフォトスポット
復元天守を撮るなら城郭の正面から天守を仰ぎ見る形で。堀と石垣、白壁の天守が美しく映えるスポットです。大垣公園にある戸田氏初代藩主・戸田氏鉄の像との写真もおすすめです。また、桜の季節は満開の桜と白亜の天守の競演も見逃せませんよ。
大垣城の見どころ4 大垣城の見どころ5 大垣城の見どころ6
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。