大友宗麟大友氏で最も名を残した武将

大友宗麟

大友宗麟

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人物記
名前
大友宗麟(1530年〜1587年)
出生地
大分県
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臼杵城

臼杵城

府内城

府内城

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日本各地で覇権争いが繰り広げられた戦国時代、九州地方でも有力な武将が台頭して争っていました。その中でも、島津氏と並ぶ由緒ある武士の家柄が大友氏です。大友義鎮(この記事では宗麟と表記)の時代に有能な家臣に助けられて最も勢力を拡大し、明との貿易やキリシタン大名としても名を馳せました。宗麟が豊後国を拠点に激動の時代をどう生き抜いたのか、今回はその生涯を紹介します。

大友氏の歴史

鎌倉時代、初代当主である大友能直の時代に大友家は豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に輔任されました。しかし、能直と第2代当主・親秀の時代には豊後に下向したという記録はありません。

九州に下ったのは能直の宰臣の古庄重吉(古庄重能)とされており、能直や親秀の庶子家もこの頃に豊後で土着したとされています。大友氏が豊後守護に補任されたのは、かつては平家の基盤であり、平家の家人だった武家の多い九州に対する源頼朝の東国御家人による抑えの役割のためでした。

第3代当主・頼泰の代に豊後に下向しましたが、文永の役を前にした異国警固のためだといわれています。頼康は元寇における戦いで武功を挙げて活躍、大友氏興隆の基礎を築き上げました。以後、大友氏は分家とともに豊後に定着し、一族庶子を在地豪族の養子として所領を収奪し、勢力を拡大していきます。

鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始されますが、後醍醐の新政から足利尊氏が離反。尊氏は摂津地域の戦いで敗れ、九州に逃れてきます。尊氏を迎えたのは少弐氏で、多々良浜の戦いで宮方の菊池氏に勝利しますが、大友氏も足利方に与しています。

足利氏は九州統治のために一色範氏を九州探題として残して上京、京都を占領して室町幕府を樹立します。
なお、九州では南朝勢力が強大化していたため、第9代当主の大友氏継は御家存続のために南朝に与するも、家督を弟の大友親世に譲って第10代当主となし、北朝方に味方させます。大内氏は応永の乱で一時没落するが、室町時代から戦国時代まで大友、大内、少弐の抗争は続くことになりました。

永享3年(1431)に第12代当主・持直は大内盛見を討ち、九州の権益をなおも確保。しかし、大内持世の反撃を受け、さらに親直と敵対する親綱が持世に与して反抗したため、大友家の内紛が深まります。大友親綱は京都の将軍足利義教により肥後から呼ばれて大友家当主となりました。この内紛は、文安元年(1444)に親世系の親隆の娘を娶り、その娘が産んだ男子を次期当主にするという条件で氏継系の親繁が第15代になったことにより収まります。

しかし、親繁の死後、第16代当主の政親と第17代当主の義右が対立して内紛を起こし、一時的に大友家は衰退。明応5年(1496)5月には大友政親が実子の大友義右を毒殺し、6月には政親が大内義興により自害に追い込まれて大友家は滅亡の危機に立たされます。

政親の異母弟・親治(母は親世系大友親隆の娘ではない)が実力で内紛を鎮め、第19代当主の義長を補佐し肥後に進出を果たすなどして戦国大名へと飛躍していきました。
第20代当主・義鑑のときには肥後や筑後に進出する。しかし天文19年(1550)の二階崩れの変で、義鑑は重臣の津久見美作・田口鑑親によって殺されてしまいます。
その跡を継いだのが、第21代当主・大友宗麟となります。

誕生から家督相続後の活躍

享禄3年(1530)1月3日、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれました。傅役は重臣の入田親誠、幼名は塩法師丸。
天文9年(1540)2月3日、塩法師丸は元服し、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から一字拝領して、義鎮と名乗ります。

義鎮20歳の頃、父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ることを画策、傅役の入田親誠らと共に義鎮の廃嫡を計画。天文19年(1550)2月、義鎮を強制的に別府浜脇に湯治に行かせ、その間を利用して義鎮派(田口鑑親(蔵人佐)、津久見美作や齋藤長実、小佐井大和守ら)の粛清が計画されたが、この動きを察知した義鎮派重臣が反撃。2月10日に塩市丸とその母は殺害され、義鑑も負傷して2月12日に死去(二階崩れの変)。
義鑑の遺言により義鎮が家督を相続、晴れて大友氏21代目の当主となります。同時に入田ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。

天文20年(1551)に周防国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反で自害すると、陶隆房の申し出を受けた義鎮は、実弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込みます。
これにより大友氏は、室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打ち、北九州における大内氏に服属する国人勢力が同時に大友氏にも服属することになります。
さらに周防・長門国方面にも影響力を確保していき、特に筑前博多の支配権を得たことは、大友氏に多大な利益をもたらしました。

弘治3年(1557)に連合で派遣した遣明船で、義鎮は倭寇禁制使の蔣洲を護送して勘合頒布を求め、義長は倭寇被虜人を送還するとともに大内氏所有の「日本国王」印を用いて貿易にいそしみます。
また、肥後国での復権を目論む叔父の菊池義武の蜂起を退け、菊池氏を滅亡させて肥後国も手中に。さらに少弐氏や肥前国人の竜造寺氏に勝利して、天文23年(1554)に肥前国の守護にも任じられました。
しかし父の死(二階崩れ)以降の大友氏家臣中には軋轢が残っており、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが、大友家臣団内の宗教対立に結び付きます。

天文22年(1553)に一萬田鑑相[注釈 4]と宗像鑑久兄弟と服部右京亮、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)、義鎮の治世は当初から苦難の多いものでした。

弘治3年(1557)、実弟の大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると、大友氏は長門周防方面への影響力を失います。長門周防の旧大内氏領土を併呑した毛利氏が北九州に進出してくると義鎮はこれと対立し、毛利氏と内通した筑前国の秋月文種を滅ぼし、毛利氏を追い、北九州における旧大内領を確保することに成功しています。
この頃、義鎮は本拠地を豊後府内の大友館から丹生島城(臼杵城)に移しました。

壮年期から晩年

元亀元年(1570)、再度肥前国に侵攻するも龍造寺隆信に今山の戦いで敗れ、弟の親貞が戦死しました。その後肥前国や筑後国の反龍造寺勢力を扇動し支援することで対抗しましたが、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできません。 元亀4年(1574)、京都では織田信長が将軍足利義昭との抗争に勝利し権力を確立。義昭は京を追放され、天正4年(1576)に山陽地方に下り毛利氏の庇護を受けることになります。

天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期に、宗麟は家督を長男の義統に譲って隠居したものの、天正5年頃までは宗麟と義統との共同統治が行われていました。

日向国出陣直前の天正6年(1578)7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用います。

改宗の理由として、宗麟の関心は信仰の内容ではなく、信者となることで得られる実収入にあったと考えられています。

天正5年(1577)、薩摩国の島津義久が日向国に侵攻を開始、大友氏はこれを迎え撃ち、宗麟も出陣しますが、天正6年(1578)に耳川の戦いで大友氏は大敗、多くの重臣を失いました。

耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの勢力拡大で、大友氏の領土は侵食されていきます。宗麟は本州で大勢力となっていた織田信長に依頼し、島津氏との和睦を斡旋してもらうだけでなく、信長が中国地方侵攻する際は協力することなどを約束しますが、天正10年(1582)の本能寺の変でこれらは立ち消えになりました。

天正14年(1586)、宗麟は上方へ向かい、中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見。宗麟は大友氏が豊臣傘下になることと引き換えに、軍事的支援を懇願します。

天正15年(1587)、豊前国小倉に先着していた毛利輝元、宇喜多秀家、宮部継潤らの軍勢と豊臣秀長の軍勢が合流し、さらに豊臣秀吉軍の本隊が九州に入り、総勢10万の軍勢が九州に上陸(九州平定)。同年4月17日に日向国根白坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦(根白坂の戦い)で、砦の守将の宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を堅守し、これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥っていたが、豊臣秀長麾下の藤堂高虎の500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢らが宮部を救援に向かい島津軍と衝突。島津軍は島津忠隣や猿渡信光が戦死するなど甚大な損害を出して敗走した。この戦果は、秀吉による九州平定を盤石なものにした上で、窮地に陥っている大友氏を救った戦いとなりました。

九州平定後、秀吉の命令で義統には豊後一国を安堵され、秀吉は宗麟に日向国を与えようとしていたが、統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退した、もしくは直前に死去した、と言われています。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後国津久見で病死。享年58歳。

臼杵城(うすきじょう)

永禄4年(1561)、毛利氏との戦いに敗れた大友宗麟が、翌永禄5年(1562)に臼杵湾に浮かぶ丹生島に新城を築き、大分府内大友館から移ったとされていました。しかし、1557年10月29日に宣教師のガスパル・ヴィレラからイエズス会に送られた書簡には家臣の反乱(小原鑑元らによる「姓氏対立事件」)を避けるために丹生島に移った事が記されており、具体的な時期を断定する史料は存在しないものの、義鎮自身は弘治3年(1557)前後には臼杵へ拠点を移していたと考えられています。

宣教師ルイス・フロイスの記録によると、城下には多くのキリスト教の施設が建立され城内には礼拝堂もあったと記録されています。その後、田原親貫の反乱鎮圧のために天正7年(1579)から2年ほど府内に政庁を戻しているものの一時的な措置であり、大友氏の改易まで臼杵に本拠地が置かれていたと考えられています。
天正14年(1586)の島津軍の侵攻(丹生島城の戦い)に対して「国崩し」と呼ばれたポルトガルから入手の大砲、「フランキ砲」を動員するなどして島津軍を退けたが、城も城下も大きく損失。その翌年、宗麟は死去しています。

1966年(昭和41年)には大分県の史跡に指定され、2001年(平成13年)、二の丸大手門に当たる大門櫓が木造で復元。2017年(平成29年)には続日本100名城(193番)に選定されています。

宗麟公まつり

10月下旬に、郷土の英傑である大友宗麟公とその時代を新たな魅力として全国に情報発信する祭りとして、様々な功績や史実を多くの方々に身近に伝えるイベントが開催されています。
大友宗麟鉄砲隊や演舞や匹田大智&菅野大地ライブ、鶴崎踊披露、ジャズ演奏、神楽、太鼓演奏などのステージイベントのほか、屋台が出るなど、にぎわいます。

大友宗麟墓地公園

津久見市のあたりは戦国時代の一時期、九州を席巻した戦国時代の武将でキリシタン大名として知られる大友宗麟の終焉の地です。公園に隣接した杉木立の中には、宗麟公の墓(市指定史跡)と、建築家・磯崎新氏設計のもと新調されたキリスト教式の墓が建てられ、厳粛な雰囲気をかもし出しています。
春には桜が咲き、秋には紅葉で彩られるなど緑豊かな公園で、宗麟に想いを馳せ散策を楽しめます。市民や歴史ファンにとっては憩いの場として親しまれています。

大友宗麟の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1530年 享禄3年 0歳 豊後国の戦国大名・大友義鑑の子として生まれる(名は大友義鎮)
1550年 天文19年 20歳 父・大友義鑑の死去により大友家の当主となる
1551年 天文20年 21歳 フランシスコ・ザビエルと会見しキリスト教布教を認める
1560年代 永禄年間 30代 九州北部で勢力を拡大し大友氏の最盛期を迎える
1578年 天正6年 48歳 耳川の戦いで島津軍に大敗
1587年 天正15年 57歳 豊臣秀吉の九州征伐に従う
1587年 天正15年 57歳 死去
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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。