安政の大獄井伊直弼による大規模弾圧
安政の大獄
江戸幕府が開国と攘夷に揺れる幕末の動乱期、安政5年(1858年)から翌6年(1859年)まで、江戸幕府の大老・井伊直弼が反幕府勢力を弾圧したのが「安政の大獄」です。攘夷派といて知られる水戸藩主の徳川斉昭やその息子の一橋慶喜(徳川慶喜)、吉田松陰をはじめとした志士たちに加え、皇族や公家まで対象になったこの事件ではなんと100人以上の人々が弾圧されました。苛烈ともいえる直弼の弾圧は、明治維新への大きなターニングポイントとなった桜田門外の変で直弼が殺害されるまで続きました。今回はそんな安政の大獄について、分かりやすく解説します。
安政の大獄の背景①:将軍継嗣問題
嘉永6年(1853年)6月3日のペリーの黒船来航以来、日本には外国からさまざまな使節団が訪れました。長きにわたり鎖国を続けてきた江戸幕府ですが、各国の開国を迫る動きに翻弄されていきます。こうした中で幕府をけん引するべき将軍はどうしていたかというと、12代将軍の徳川家慶はペリー来航の直後、嘉永6年6月22日に61歳でこの世を去っていました。
跡を継いで13代将軍に就任したのは徳川家定。病弱で脳性麻痺だったという説もある、「天璋院篤姫」こと藤原敬子の夫です。家定は敬子の前に2人の女性と結婚していますが実子はいませんでした。このため将軍就任中から跡継ぎ問題で派閥争いが起こります。
家定の次の将軍候補は2人。13代将軍候補でもあった一橋慶喜と、最も将軍家に近い血筋を持つ紀伊藩主の徳川慶福です。英明な人物として知られる一橋慶喜を推したのは実父で水戸藩主の徳川斉昭、薩摩藩主の島津斉彬や越前藩主の松平慶永、土佐藩主の山内豊信などで、「一橋派」と呼ばれました。どちらかと言えば外様大名がメインです。そんな彼らの動きを老中の阿部正弘も後押しします。
一方で徳川慶福を推したのは彦根藩主の井伊直弼ら譜代大名と大奥の面々で、こちらは「南紀(紀州を指す)派」と呼ばれました。各派閥は諸外国に対するスタンスも異なっており、一橋派は開国派や攘夷派、南紀派は外国に対し保守的態度を取る穏健派がメインでした。南紀派は200年以上続いた徳川幕府の体制を重視し、政治の主導権を握っていました。
安政5年(1858年)、家定の体調がいよいよ悪化すると、跡継ぎは慶福に決定されました。これは直弼ら南紀派の働きかけの勝利!と思われがちですが、家定自身が慶喜ではなく慶福を跡継ぎに選んでおり、それに老中たちが同意した形だったようです。
もともと家定と慶喜は13代目の将軍を争った仲。また、家定は幼少の頃に痘瘡(天然痘)にかかったため目の辺りに痣がありました。一方の慶喜は美青年で大奥から人気が高かったのだとか。当時の武士の回想録には家定は「自分より慶喜の方がイケメンで腹立たしい」と思っていた、という記述まであります。
安政の大獄の背景②:対外関係をどうするか
将軍の跡継ぎ問題と同時期にあった問題が、外国との関係をどうするかでした。嘉永7年3月(1854年3月)には幕府は米国と日米和親条約を締結し開国。その後英国やロシア帝国、オランダと似たような内容の条約を結びました。この段階では外国勢が利用できる港は限定的でしたし、港は開いたものの貿易(=通商)は許可していませんでした。
その通商に踏み込んだ要求をしたのが米国総領事のタウンゼント・ハリスです。ハリスは安政4年(1857年)10月に江戸城を訪問し、家定に国書を渡し、米国との貿易開始を強く訴えました。ハリスの強硬な姿勢をみた幕府は下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震を全権として交渉を開始。15回の交渉の結果合意がなされたのち、当時の老中・堀田正睦が孝明天皇の勅許を得ようと朝廷に伺いを立てます。
幕府内には「天皇の勅許は必要ない」との意見もあったようですが、日米和親条約の時も朝廷と連携していたこと、幕府内には徳川斉昭を中心に攘夷論を唱える大名もおり、大名たちの意見をまとめきる決め手が欲しかったことなどから勅許を求めたようです。幕府としては日米和親条約の時のように勅許をもらえるだろうとの考えでした。
ところが安政5年(1858年)3月、関白の九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したところ、岩倉具視をはじめとした88人の公家達が猛反発。座り込んで抗議しました(廷臣八十八卿列参事件)。
また、異国嫌いとして知られる孝明天皇も「和親」は時代の流れとして許したものの「通商」は許可しませんでした。裏では攘夷論者の徳川斉昭の猛プッシュがあったとも言われています。天皇はその後も反対し、幕府に再び衆議を尽くして大名たちと議論するよう求めます。結局堀田正睦は勅許を得ることができず、最終的には通商条約の調印後に責任を取って老中を辞職することになりました。
ここで面白いのは、堀田正睦は実は一橋派だったということ。「徳川斉昭と攘夷の件で対立していたはずでは?」と思いますが、正睦は勅許を得るためには朝廷に人気のある慶喜を推すべしと判断し、南紀派から一橋派に鞍替えしていました。一方の一橋派としても、正睦を助けて天皇家と接近し、「通商条約を結ぶからには英明な人物に将軍家を継がせるべき=一橋慶喜が次の将軍になるべきでは」と訴えようとしていました。ところが天皇が反対したことで全て水の泡になったわけです。
「勅許なしの通商条約締結」の裏側
一橋派がダメージを受ける一方、安政5年(1858年)4月には南紀派の井伊直弼が大老に就任します。大老は幕府の臨時職で老中の上におかれた最高職。特に家定が体調不良等でほぼ活動できない状況下では実質の幕府のトップでした。
直弼がしたことで有名なのが「天皇の勅許なしで日米修好通商条約を締結」したこと。しかし、実は直弼は勅許なしでの条約締結に反対でした。しかし時代がそれを許しません。ハリスが当時の世界情勢を背景に幕府に圧力をかけてきたのです。
実はこのころ、中国では英国・フランスと清が第2次アヘン戦争(アロー戦争、1856年~1860年)の真っ最中。いわば清の植民地化推進戦争だった第2次アヘン戦争を例に、ハリスは英国やフランスに攻め入られないためには米国と結ぶべし、と説いたのです。
そうこうしているうちにアロー戦争が一時的に停戦状態になります。ここでハリスは追い打ちをかけるように「英国やフランスが日本に侵略する前に我々米国と通商条約を結ぶべきだ」と強調。開国派の老中・松平忠固を筆頭に、多くの幕閣は「とにかく早く通商条約を結ばなければ」と焦ります。
ところが直弼は「天皇の許可がなければ条約を結ぶべきでない」と勅許の必要性を盾に最後の最後まで反対します。交渉担当の井上清直と岩瀬忠震にも可能な限り条約締結を引き延ばすよう命じましたが、一方で「どうしてもやむを得ない場合は条約を締結してもいいか?」という2人の問いに対し「やむを得ない場合は是非に及ばず」とも回答しています。
そして安政5年(1858年)6月19日、2人の交渉役はハリスと対面し、日米修好通商条約は天皇の勅許なしで締結されることになるのです。ハリスのブラフを交えた脅しに屈したとも、確信犯的に条約を結んだとも言われていますが、いずれにせよこの知らせを聞いた直弼は衝撃を受けたに違いありません。直弼が主導したわけではありませんが、責任者は直弼。このため直弼は大老を辞任しようとまで考えますが、一橋派が盛り返すのを恐れた周囲に止められています。
安政の大獄①:大名の謹慎が全ての始まり
辞職を思い止まった井伊直弼は自らの政策に反対する一橋派などの弾圧に乗り出します。これが「安政の大獄」と呼ばれる一連の出来事です。安政5年(1858年)6月24日、松平慶永は直弼の屋敷を訪れて勅許なしの条約調印を批判し将軍継嗣問題についても言及。加えて徳川斉昭やその長男の徳川慶篤、尾張藩主の徳川慶勝達と江戸城に登城し、直弼や老中たちを批判・詰問しました。
当時江戸城は登城日が決められていたため、この登城は「不時登城」と呼ばれています。しかし、その批判のかいもなく、6月25日には次代の将軍が徳川慶福であることが発表されます。
そして7月5日、井伊直弼は不時登城を批判し、松平慶永、徳川斉昭、一橋慶喜、徳川慶勝に隠居や謹慎を、徳川慶篤に登城停止を家定の名で命じました。一橋派の主要メンバーが丸ごと政治の舞台から姿を消した、この命令が安政の大獄の始まりでした。
7月8日、直弼は外国奉行を立ち上げ、井上清直と岩瀬忠震らを任命し、7月にオランダとロシア帝国、英国、9月にフランスと通商条約を勅許なしで調印します。2人はいわば「裏切りもの」でしたが能力の高い人材でもありました。通商条約は相手国の治外法権を認める点、関税自主権がない点など日本にとってマイナスな面のある不平等条約だったため、直弼に批判が集まります。
安政の大獄②:水戸藩に出された「戊午の密勅」
一方、幕府の対応に怒り心頭の孝明天皇。当時の公家の日記によれば、「はなはだ御逆鱗のご様子」だったようで、譲位の意思を示すほどでした。そんな天皇は朝廷での会議を経て8月8日、水戸藩に「戊午の密勅」を下します。勅諚は2日後には幕府にも伝えました。
勅諚では、まず幕府が通商条約に勅許なしで調印したことを批判しています。さらに不時登城の結果隠居や謹慎させられた水戸・尾張両家に対しても気遣う言及があり、最後は内憂外患のなか、大老、老中、御三家、御三卿、御家門、譜代・外様の区別なく諸藩一同で評議をおこない、朝廷と幕府が一体となる「公武合体」で徳川家を助け、外国に軽蔑され内容にせよという内容が書かれていました。
なぜ「密勅」なのかというと、本来であれば関白の九条尚忠が参内の上発せられるべきものだったのにしなかったため。なお、関白は事後承認しています。
普通、勅諚はまず幕府に通達され、そこから諸藩にわたるもの。それがなぜ最初に水戸藩に届けられたかは、水戸藩が薩摩藩とともに、幕府を批判するよう朝廷工作を続けていたことが一因です。ただし、薩摩藩は反井伊直弼の筆頭で、軍を率いることまで計画していた島津斉彬が7月に急死(暗殺説も)したのち、表向きは幕府に従う姿勢を見せます。このため、朝廷は攘夷論の強かった水戸藩に密勅を送り、さらに副書で水戸藩から御三家や諸藩に内容を伝達するよう求めました。
孝明天皇としては自分を無視して通商条約を締結した幕府を信じられず、徳川御三家で攘夷論者の徳川斉昭もいる水戸藩に期待をしていた、ということなのかもしれませんが、これは大変掟破りの行動でした。
安政の大獄③:100人以上への苛烈な弾圧
戊午の密勅を知った井伊直弼は怒ります。朝廷との窓口は幕府であり、通達事項はまず幕府を通してから諸藩に送られるものだからです。それをいきなり幕府のメンツは丸つぶれ。水戸藩への密勅を認めてしまえば幕府の支配体制は崩れ、威信は吹っ飛びます。
このため直弼は水戸藩を中心に戊午の密勅にかかわった関係者、ひいては一橋派を徹底的に弾圧します。徳川斉昭は永蟄居、水戸藩家老の安島帯刀は切腹。密勅の拝受にかかわった水戸藩京都留守居役の鵜飼吉左衛門は斬罪、その息子で留守居役助役の鵜飼幸吉は獄門。元小浜藩士で尊王攘夷の志士としても知られる儒学者の梅田雲浜も密勅の関係者として捕らえられ、拷問の末獄中死しました。
弾圧対象は朝廷の公家や皇族まで及び、これに水戸藩関係者の密書などから明らかになった幕府に反する計画を企てた志士なども弾圧対象に加わります。結果、総勢100名以上が弾圧されることになりました。
弾圧された人物のなかには、福井藩主の松平春嶽の側近・橋本左内もいました。国際感覚があり、優れた人物として知られていた左内は遠島を申し付けられるはずでしたが、井伊直弼の横やりで斬首されました。
また、もう一人注目したい人物が長州藩の吉田松陰です。幕末の有名な思想家で、松陰が主宰した私塾「松下村塾」では久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文といった幕末・明治維新を駆け抜けた名だたる志士たちが学びました。そんな松陰ですが、安政の大獄で捕らえられた梅田雲浜と交流があったことから幕府から危険視されました。江戸での尋問の結果、松陰は間部詮勝暗殺計画を企てていたことをばらしてしまい、斬首刑に処されています。松陰の死は志士たちに大きな衝撃を与え、やがて討幕へと駆り立てていくことになるのです。
そして桜田門外の変へ
安政の大獄により、井伊直弼は反対勢力から強い反感を得て恨まれることになります。その筆頭が水戸藩です。直弼は水戸藩の関係者を厳しく弾圧するとともに、藩主の徳川慶篤に戊午の密勅を幕府に返上するよう何度も要求していました。これを受けた水戸藩では勅書を諸藩に通達すべきという派閥と、勅書は幕府に返納すべきとする派閥が武力行使も辞さない争いを繰り広げることになります。
遂に直弼は安政7年(1860年)1月15日、直弼は「1月25日までに密勅を幕府に返上しなければ斉昭を罪に問い、水戸藩を改易する」と脅します。これを知った水戸藩士達は怒りに震え、直弼襲撃を決意。幕府も水戸藩士たちの動きを警戒していましたが、万延元年(1860年)3月3日、井伊直弼は江戸城外桜田門付近で水戸脱藩浪士ら計18名による襲撃を受け、首を刎ねられ命を落とします。享年46(満44歳没)。この江戸城の目の前で幕府の重臣が殺害された「桜田門外の変」により、幕府の権威は失墜。尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、討幕へと進んでいくのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。