松下村塾幕末の志士たちを生んだ吉田松陰の私塾

松下村塾
幕末から明治維新にかけて活躍した数々の志士たち。その志士たちをはぐくんだのが長州萩城下(現山口県萩市)にあった「松下村塾」です。吉田松陰が主催したことで知られ、久坂玄瑞や高杉俊作、伊藤博文などさまざまな人材を輩出しました。今回はそんな松下村塾について、分かりやすく解説していきます。
松下村塾を主宰した吉田松陰とは
松下村塾といえば、幕末の思想家・教育者である吉田松陰の塾、というイメージが強くあります。事実、松陰は松下村塾を主宰し、幕末の志士から「松陰先生」と慕われました。しかし、「塾」の創立者は松陰ではなく、その叔父の玉木文之進だということはあまり知られていません。玉木文之進は天保13年(1842年)に萩に八畳一間の私塾を開き、それが後に「松下村塾」と名付けられたのです。松陰がいつから塾の主宰となったのかは定かではありませんが、実際に松下村塾の建物で教えていた期間は約1年程度とわずかな期間でしかありませんでした。
そんなわずかな期間に松下村塾の名を一躍有名にした松陰は、文政13年(1830年)8月4日、萩松本村に長州藩の下級藩士・杉百合之助の次男として生まれました。幼名は寅之助で、何度か改名していますがここでは「松陰」で統一します。
もともと杉家に生まれた松陰でしたが、天保5年(1834年)に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になります。天保6年(1835年)に大助が亡くなると、松陰はわずか6歳で吉田家の家督を相続しました。
若くして山鹿流兵学師範の役目をついだ松陰を立派な師範にしようと、玉木文之進は松陰にスパルタ教育を施します。少年時代の松陰のエピソードとして、勉強中に松陰の顔に蚊が止まったので手で追い払ったところ、文之進が拳骨を振り下ろした、というものがあります。「虫に刺されてかゆいというのは私的なこと。吉田家の跡を継いで藩に仕えるため、いわば「公的」なもののために学んでいるのに、私的なものでよそ見をしてはならない」という理由だったそうですが、現在からすると考えられないことですね。
その後、松陰は天保9年(1938年)から見習いとして藩校・明倫館に出仕。翌年には当時の長州藩主・毛利慶親への御前講義をわずか11歳で勤め上げて絶賛されています。嘉永元年(1848年)に19歳で兵学師範として明倫館に正式に務め始めましたが、天保13年(1842年)にアヘン戦争で清が英国に大敗したことや、相次ぐ外国船の来訪に危機感を抱くようになります。
その後、松陰は嘉永3年(1850年)に長崎に、嘉永4年(1851年)に江戸に遊学します。江戸では佐久間象山に学びました。その後、脱藩して東北を遊学しますが捕らえられ、御家人召放しの処分を受けました。ただし嘉永6年(1853年)にはふたたび許されて江戸に遊学。同年のペリー来航の際は黒船を見て大きな衝撃を受け、翌年ペリーが再来航の際はなんと米国船に乗り込み密航を企てます!しかし、これは失敗し、萩の野山獄に投獄されました。
松陰が松下村塾を受け継ぐ
野山獄のなかで松陰は読書に勤しむとともに、囚人たちに講義を実施しました。また、海外情勢や今後の日本の方向性などを論じた『幽囚録』を獄中で記しています。そして安政2年(1855年)12月、野山獄を釈放された吉田松陰は、人々の求めに応じて自宅の蟄居部屋で講義を再開します。
この講義を聞いていたのが外戚の久保五郎左衛門でした。じつは五郎左衛門は2代目の松下村塾の主宰者でした。松下村塾を開いた玉木文之進は藩の代官職について忙しくなっており、嘉永元年(1848年)に明倫館の教師になったことを機に塾を閉めていたのです。
数年後に「松下村塾」の名を継いだのが、同じ松本村で私塾をひらいていた五郎左衛門でした。五郎左衛門は松陰の講義を聞いて「松下村塾」の名を松陰に譲ることを決意。こうして安政3年(1856年)から安政4年(1857年)頃に松陰は「松下村塾」の主宰となったのです。
松下村塾での「生きた学問」
安政4年(1857年)11月、吉田松陰は松下村塾の八畳一間の建物に移り住み、本格的に教育を開始します。松下村塾は武士身分しか入れない藩校の明倫館とは異なり、身分の隔てなく学ぶことができました。このため武士に加え医者に町人、僧侶など多様な人材が集まることになりました。塾生は入れ替わりがあったものの、久保五郎左衛門時代の門弟を加えると大体80〜90名ほどだったようです。
その後、松下村塾の建物は安政5年(1858年)3月末に増築され、4畳半一間、3畳2間、土間1坪が追加され18畳半あまりにまで拡大。寄宿生十数名をを抱える有名塾にまで成長しています。
松下村塾の教育は独特のものでした。松陰は塾生を身分を問わず公平に扱い、それぞれの個性を尊重し、長所を伸ばす教育を心掛けました。テキストは四書五経がメインだったとはいえ、どの本を取り上げるかは塾生たちが好きなものを選択できました。つまり勉強の内容は塾生たちが自由に決められたのです。
また、松陰は入門の際は塾生に「なぜ学ぶのか」と問い、「学者になってはならない、人は学んだことをどう実行するかが大切なのだ」と教え諭しました。五郎左衛門の松下村塾時代に、五郎左衛門の求めに応じて塾の指導理念や教育方針を記した『松下村塾記』では、「学は、人たる以を学ぶなり」、つまり「学問とは、人間はいかに生きるべきかを学ぶものである」と説いています。松陰にとって学問は生きるために必要で、学んだことは実践すべきという、「生きた学問」だったのです。
また、松陰は一方的な講義ではなく、学生たちと討論しながらともに学ぶスタイルをとりました。このため松下村塾内では世界の情勢や日本の実情、幕政や藩政改革まで、さまざまな議論がされました。さらに松陰は行動するためには最新の正確な情報が必要と考えていました。このため塾内には「飛耳長目帳(ひじちょうもくちょう)」という情報ノートを設置しており、ノートの内容からの議論もあったようです。
安政の大獄で松陰が投獄される
吉田松陰が松下村塾で塾生達と議論を繰り広げるなか、安政5年(1858年)、松陰のもとにとんでもないニュースが飛び込んできます。なんと、江戸幕府が孝明天皇の勅許なしに日米修好通商条約を締結したのです。これに激怒した松陰は幕府を批判し、要人の暗殺を企てるなど過激化していきます。
松陰は長州藩に老中首座の間部詮勝の襲撃を提言しますが、久坂玄瑞や高杉晋作、桂小五郎など弟子や友人たちに止められます。また、こうした松陰の動きに危機感を抱いた長州藩は野山獄に再度松陰を投獄しました。しかし、松陰は獄中からも倒幕の計画を立て、塾生などに協力するよう呼びかけ続けます。また、同時に書簡を通じて塾生たちの教育も継続しました。
当時は大老・井伊直弼による「安政の大獄」の真っ最中で、水戸藩を中心に天皇よりの関係者が次々と捕らえられていました。尊王攘夷の志士としても知られる儒学者の梅田雲浜もその一人でしたが、雲浜が松陰と親交があったことなどにより、松陰は江戸に護送されてしまいます。そして江戸での尋問の結果、幕府がつかんでいなかった間部詮勝暗殺計画のたくらみをばらしてしまい、松陰は安政6年(1859年)に斬首刑に処されてこの世を去りました。享年29歳でした。
松陰の遺体は小塚原回向院(東京都荒川区南千住)に葬られたのち、文久3年(1863年)、高杉晋作や伊藤博文などにより世田谷若林の地に改葬され、明治15年(1882年)に墓のそばに松陰神社が創建されました。こうして吉田松陰がなくなったことで、松下村塾はその役割を終えたのでした。
松下村塾の志士たち①「双璧」こと高杉晋作と久坂玄瑞
松下村塾には幕末から明治にかけて活躍したさまざまな人物が塾生としていましたが、なかでも有名だったのが「松下村塾の双璧」と呼ばれた高杉晋作と久坂玄瑞です。2人は良いライバル同士で、玄瑞が「晋作の見識にはとても及ばない」と語ると、晋作が「玄瑞の才能は当世無比だ」と返したのだとか。このため「識の高杉、才の久坂」と称されました。
このうち高杉晋作は上級武士の家の生まれで安政4年(1857年)9月ごろに19歳で入門。松陰の最期まで教えを受けた人物で、長州藩で討幕派として頭角を表し、文久2年(1862年)には英国公使館を焼き討ち。尊攘倒幕を主張し、奇兵隊を率いて幕府の長州征伐軍と戦を繰り広げています。慶応3年(1867年)4月、持病の肺結核が悪化したことで病没しました。
一方の久坂玄瑞は藩医子として生まれたのちに士分となり、安政3年(1856年)に入門し、松陰からは「防長年少第一流の才気ある男」と高い評価を受けました。翌年には松陰の妹・文と結婚しています。松陰の死後は高杉晋作とともにその遺志を継ぎ、尊攘倒幕を主張。英国公使館の焼き討ちなどにも参加しました。元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)で幕府軍と戦って討ち死にしています。
松下村塾の志士たち②吉田稔麿と入江久一
松下村塾の「三秀」と呼ばれたのが高杉晋作、久坂玄瑞、そして吉田稔麿。さらに入江久一を加えると「松下村塾の四天王」になります。
吉田稔麿は才能のある人物として吉田松陰が高く評価した人物です。ちなみに同じ苗字ですが両者の間に血縁関係はありません。久保五郎左衛門のころから松下村塾に通っており、安政3年(1856年)頃加わったようです。もともとは武芸に興味を持ちましたが、松陰のもとで学問にはげむようになりました。松陰の死後は奇兵隊に加わり活躍し、元治元年(1864年)6月5日に起きた、新選組が池田屋を襲撃した「池田谷事件」の際に討ち死にしています。
また、入江九一は安政5年(1858年)に松下村塾に入門。松陰がすぐに投獄されていることから1か月程度しか松陰には教わっていませんが、松陰から「彼には自分も及ばないところがある」と高い評価を得た人物です。松陰が老中の間部詮勝暗殺をたくらんだ際は、他の四天王が反対するなかで唯一賛成したことで「君だけが国のために死ねる男だ」と松陰から称賛されました。久坂玄瑞と同じく禁門の変で討ち死にしています。
松下村塾の志士たち③伊藤博文をはじめとした「維新の元勲」
これまで紹介した松下村塾の門下生たちは幕末の動乱の中命を落としていますが、明治維新を成功させ、明治政府で高い地位を築いた人々ももちろんいます。その一人が初代内閣総理大臣をはじめ、明治政府の要職を兼任した伊藤博文です。
また、第一次伊藤博文内閣などで司法相を務め、日本法律学校(現日本大学)設立にかかわった山田顕義なども門下生として知られています。
このほか、門下生ではありませんが、松陰の明倫館時代の弟子としては桂小五郎や山形有朋もおり、松陰が松下村塾を主宰してからも交流はありました。
そして世界遺産・松下村塾へ
幕末の動乱が落ち着いた明治13年(1880年)、吉田松陰の実兄にあたる杉民治は官職を辞したのち、松下村塾を再開させます。漢学を中心とした教育を塾生たちにおこないましたが、その後民治は萩の私立学校(現萩光塩学院中学校・高等学校)の校長に就任。このため塾は閉鎖されました。
その後、塾舎だった木造瓦葺き平屋建ての建物はそのまま残り、明治23年(1890年)に塾生たちが寄付金を募り、補修を実施。現在は松陰神社の境内にその姿をとどめています。平成27年(2015年)には日本の近代化の思想的な原点になった遺産として評価され、「明治日本の産業革命遺産」の一部として世界文化遺産になり、多くの人々が訪れています。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。