日米修好通商条約安政五カ国条約の締結内容とは実は「不平等」ではなかった?

日米修好通商条約
安政5年(1858年)6月19日、日本とアメリカの間で「日米修好通商条約」が締結されました。さらに江戸幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の修好通商条約を締結しています(安政五カ国条約)。外国との初の本格的な外交・通商関係を認める一連の条約ですが、その内容は治外法権や関税自主権の喪失といった課題を抱えており、明治維新以降は「不平等条約」とみなされ改正に尽力していくことになります。今回はそんな日米修好通商条約について、締結に至る流れや内容を分かりやすく解説していきます。
ペリーと日米和親条約を締結
日本が鎖国から開国へ大きく舵を切ったのは、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)の日米和親条約の締結からでした。横浜で締結された12か条からなる条約の内容は、下田と箱館(函館)の開港と、アメリカへの一方的な最恵国待遇、つまり「今回の条約よりも有利な条件で他国と条約を締結した場合、アメリカにも同じ条件を認める」というものでした。
さらに条約の11条では「領事権」についても触れられていますが、こちらは条約の書かれた言語によって内容が微妙に違っていました。日米和親条約の漢文版・漢文和訳版では「やむを得ない事情があり必要性が認められれば、条約締結から18ヶ月後に下田に領事を駐在させることができる」というもの。一方で英文版とオランダ語和訳版では「日米政府のいずれか一方が必要を認めれば領事を駐在できる」としています。なぜこのような差が生まれたのかははっきりとわかっていませんが、アメリカ側は英文・オランダ語和訳版にのっとり、安政3年(1856年)に下田に領事館を開設しました。
その後、アメリカは嘉永7年5月22日(1854年6月17日)、下田で下田追加条約(日米和親条約付録)を締結し、商船や捕鯨船の上陸場所を決定するなどしています。
米国からハリスが来日、下田に領事館を開設
日米和親条約締結からおよそ2年後の安政3年(1856年)7月21日、初代米国総領事としてタウンゼント・ハリスが下田に来日します。ところが、前述した日米和親条約の問題から江戸幕府はハリスの着任を認めません。
しかしハリスは条約を盾に強硬な主張を繰り返します。結局幕府側も折れ、玉泉寺(静岡県下田市)を仮の宿泊所とすることに同意。このためハリスは玉泉寺を領事館として駐在し、日米間の通商条約締結に向けて奮闘していくことになります。なお、その後領事館は安政6年(1859年)6月に麻生山善福寺(東京都港区元麻布)に移転。ハリスが総領事から弁理公使に昇格したため「アメリカ公使館」となりました。
日米修好通商条約①ハリスが「下田条約」を締結
ハリスは幕府に対し通商条約の締結を求め、直接交渉するために江戸を訪問しようとしましたが、幕府は下田奉行を交渉役にして引き伸ばします。長く続いた議論の結果、安政4年5月26日(1857年6月17日)、ハリスは下田奉行の井上清直(信濃守)、中村時万(出羽守)と全9カ条条の条約「日米約定(下田条約、下田協定)」を締結しました。
内容としては長崎の追加開港、下田と函館における米国人居留の認可、領事の領事の日本国内旅行権、日米貨幣を同種・同重量で交換し、日本は6%の改鋳費を徴収することなどを定めたものです。
加えて、日米約定では片務的領事裁判権も承認されました。こちらはアメリカ人が日本人に対して罪を犯した場合、アメリカの法律に基づいて領事が処罰するというもの。この内容は後に締結した日米修好通商条約にそのまま引き継がれました。
日米修好通商条約②ハリスが条約締結に向けて積極的に活動
日米約定を締結したのち、ハリスは何度も通商条約の締結を求めます。そうこうしているうちにイギリスからも通商要求を求める圧力がかかってきます。
安政4年(1857年)7月20日にアメリカの砲艦が下田に入港すると、幕閣の脳裏にはペリーの黒船来航がよぎりました。ハリスが砲艦とともに江戸に来航し、軍事的なプレッシャーを与え幕府の権威を失墜させることを恐れた幕府は、ついにハリスが江戸に来ることを認めます。こうしてハリス率いる行列は江戸城に向かって出発し、10月21日に江戸城に登城して徳川家定と謁見。大統領の親書を渡して米国との貿易開始を強く訴えました。
さらに、ハリスは老中の堀田正睦などのキーパーソンと会談し、イギリスやフランスのアジアにおける植民地政策を説明し、幕府の危機感をあおります。当時のアジアは欧州列国による植民地獲得合戦が繰り広げられていました。大国・清は天保3年(1842年)のアヘン戦争でイギリスに敗れて以降、不平等条約で苦しめられ、半植民地化が進んでいました。さらに安政3年(1856年)にはイギリス・フランス連合軍と第2次アヘン戦争(アロー戦争)がスタートします。ハリスはこうした背景を説明し、イギリスやフランスといった欧州の国々が日本に侵攻してくる可能性を示唆して幕府を脅したのです。
ハリスの主張を考慮した幕府は、大名たちの意見を聴取したうえで条約締結に向けて動き出します。下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震を全権として、ハリスとの交渉を開始。交渉は15回にも及びました。
日米修好通商条約③勅許を得ないまま条約を締結
交渉の結果、幕府は何とかハリスと合意しました。早速条約締結、といきたいところですが、多くの幕閣や大名達からは「条約調印には天皇の勅許を得るべき」という意見が出されます。日米和親条約の際に朝廷と連携していた過去などもあり、当時の老中・堀田正睦は孝明天皇の勅許を得ることを決意。安政5年(1858年)2月、京に向かい、朝廷との交渉を開始します。
日米和親条約の際に許可を得たので今回も問題なく進む…と思いきや、3月に関白の九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出するやいなや、岩倉具視をはじめとした88人の公家達がこれに猛反発し、座り込みで抗議します(廷臣八十八卿列参事件)。続いて朝廷の役人達からも条約案撤回を求める意見書が出されました。
もともと孝明天皇は異国嫌いとして知られていましたが、実は堀田正睦が上京する前から、九条尚忠に対して条約反対の意を示していました。廷臣八十八卿列参事件の後も孝明天皇は条約締結に反対し続け、幕府に「衆議を尽くして大名たちと議論するように」と要求。結局堀田正睦は勅許を得ることができず京を去ります。
安政5年(1858年)4月、井伊直弼が大老に就任し、病弱な徳川家定に代わって事実上の幕府のトップに躍り出ます。直弼のもと条約締結に向けた天皇との交渉は続きますが、そんななかハリスからさらなる圧力がかかります。
6月13日、下田に入港した米国軍艦のミシシッピ号から、第2次アヘン戦争が天津条約の締結により一時的に停戦状態となったため、イギリスやフランスの艦隊が日本に攻めてくる可能性があるという情報がハリスに伝わります。このためハリスは「イギリスやフランスに不平等条約を結ばれる前に、アメリカと『先例』として条約を結ぶべきだ」と幕府に主張。このため幕府内には「勅許なしでも条約締結はやむなし」という風潮が生まれました。
井伊直弼はこうした流れに反し、「天皇の勅許がなければ条約を結ぶべきでない」と最後まで反対します。交渉担当の井上清直と岩瀬忠震にも可能な限り条約締結を引き延ばすよう命じましたが、一方で「どうしてもやむを得ない場合は条約を締結してもいいか?」という2人の問いに対し「やむを得ない場合は是非に及ばず」と回答しました。そして安政5年6月19日(1858年7月29日)、日米修好通商条約は天皇の勅許なしで締結されることになります。
日米修好通商条約④不平等だった?治外法権と関税自主権
日米修好通商条約は全14条からなる条約で、内容の一部から「不平等条約だった」と言われています。その要因のひとつが第6条のアメリカの治外法権の承認です。
これはアメリカ人が日本人に対して罪を犯した場合、アメリカの領事がアメリカの法律で裁くという「領事裁判権」を持つというもの。ちなみに日本人がアメリカ人に対して罪を犯した場合は日本の法律で裁かれます。判決に不満がある場合は上告も可能とはいえ、日本人にとっては不利でした。
しかし、治外法権については徳川家康の時代から「外国人が法を犯した場合は外国人の方で裁く」というのが祖法だったこと、そもそも外国人を裁くのは手間だったことなどから、当時の人々は「不平等」との認識は持っていなかったようです。実際、条約の議論の際には領事裁判権についてはほぼ議論がされずスルーされました。この辺りは日本人が国際法に無知だったことも一因と言えるでしょう。
もうひとつのポイントが第4条で規定された関税です。日米間の貿易にかかる関税は両国の協定で決まる協定関税制で、日本に関税自主権はありませんでした。関税率については条約の貿易章程で規定されており、主要輸入品目については20%の関税を課しています。酒類に至っては35%の高関税です。
実は関税率については、日本側は主要輸入品目に対し12.5%を主張していましたが、ハリスはさらに高い関税率を提示して日本側に有利な税率を認めています。当時のアジア諸国の税率を見ると、清は5%、インドは2.5%とはるかに高い税率で、ハリスの提案は日本にとってかなり好意的なものでした。これはハリスの日記からもあえてそうしていたことが分かっています。このため「不平等条約とはいえないのでは」という説が出されています。さらに、第4条ではアヘンの禁輸を規定していますが、この申し出はハリスからのものです。
ちなみに実際に不平等になったのは慶応2年(1866年)の改税約書からで、この際関税率は5%まで下がりました。これは文久3年(1863年)、長州藩が英・米・仏・蘭と争った下関戦争の結果結ばれた条約で、下関戦争の償金減免と引き換えに関税を下げるものでした。
日米修好通商条約⑤港の開港や片務的最恵国待遇
日米修好通商条約では第3条で港の開港についても規定されています。これはこれまでの下田と箱館に加え、神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の4港の段階的な開港と、アメリカの居住と自由な貿易を認める内容でした。なお、下田については横浜の6ヶ月後に閉鎖するとしています。また、江戸と大坂については居住は不可ですが、商取引のために滞在できるとしています。
また、第7条では開港地でアメリカ人が外出できる範囲を規定していますが、外国人が自由に国内を移動できない点は外国から見て「不平等」と指摘されています。特に主要な貿易品だった生糸が産地で買い付けできなかったことは、生糸価格の高騰につながりました。
さらに第12条では日米和親条約で規定した「片務的最恵国待遇」、つまり、日本がアメリカ以外の国に許可した内容をアメリカに自動的に適用する、といった内容が引き継がれています。
4ヶ国と条約を締結して「安政五カ国条約」に
日米修好通商条約ののち、幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスともほぼ同様の修好通商条約を締結しました。一連の条約類は日米修好通商条約と合わせて「安政五カ国条約」または「安政の仮条約」と呼ばれています。
条約の内容はほぼ同じものですが、日米修好通商条約の第2条で出された「日本と欧州諸国の間に問題が生じたときはアメリカ大統領が仲裁する」といった内容はほかの4ヶ国の条約には入っていません。また、例えばイギリスとの日英修好通商条約では領事裁判権が精密に規定されているほか、イギリスの重要な輸出品である綿と羊毛製品の関税率が5%と低いものになるなど、イギリスにより有利な内容になり、不平等性が高まっています。
ちなみに全ての条約は勅許なしで調印されており、朝廷側から見ると「違勅」にあたるため、安政五カ国条約、ひいては幕府は公家や尊王攘夷思想を持つ大名などから激しい非難を受けました。
これに対し幕府は井伊直弼を中心に、反幕府勢力を弾圧します。これが安政5年(1858年)から翌6年(1859年)まで続いた「安政の大獄」で、多くの尊攘派志士や公家、さらには皇族まで罰則の対象になりました。こうして幕府の権威は一時的に保たれましたが、万延元年(1860年)3月3日、井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺されると、幕府の権威は失墜。尊王攘夷運動が高まりを見せ、討幕へと突き進んでいくのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。