大友宗麟(2/2)大友氏で最も名を残した武将

大友宗麟

大友宗麟

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人物記
名前
大友宗麟(1530年〜1587年)
出生地
大分県
関連する城
臼杵城

臼杵城

関係する事件

天正4年(1576年)正月から2月18日以前の時期に、宗麟は家督を長男の義統に譲って隠居したものの、天正5年頃までは宗麟と義統との共同統治が行われていました。

日向国出陣直前の天正6年(1578)7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用います。

改宗の理由として、宗麟の関心は信仰の内容ではなく、信者となることで得られる実収入にあったと考えられています。

天正5年(1577)、薩摩国の島津義久が日向国に侵攻を開始、大友氏はこれを迎え撃ち、宗麟も出陣しますが、天正6年(1578)に耳川の戦いで大友氏は大敗、多くの重臣を失いました。

耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの勢力拡大で、大友氏の領土は侵食されていきます。宗麟は本州で大勢力となっていた織田信長に依頼し、島津氏との和睦を斡旋してもらうだけでなく、信長が中国地方侵攻する際は協力することなどを約束しますが、天正10年(1582)の本能寺の変でこれらは立ち消えになりました。

天正14年(1586)、宗麟は上方へ向かい、中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見。宗麟は大友氏が豊臣傘下になることと引き換えに、軍事的支援を懇願します。

天正15年(1587)、豊前国小倉に先着していた毛利輝元、宇喜多秀家、宮部継潤らの軍勢と豊臣秀長の軍勢が合流し、さらに豊臣秀吉軍の本隊が九州に入り、総勢10万の軍勢が九州に上陸(九州平定)。同年4月17日に日向国根白坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦(根白坂の戦い)で、砦の守将の宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を堅守し、これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥っていたが、豊臣秀長麾下の藤堂高虎の500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢らが宮部を救援に向かい島津軍と衝突。島津軍は島津忠隣や猿渡信光が戦死するなど甚大な損害を出して敗走した。この戦果は、秀吉による九州平定を盤石なものにした上で、窮地に陥っている大友氏を救った戦いとなりました。

九州平定後、秀吉の命令で義統には豊後一国を安堵され、秀吉は宗麟に日向国を与えようとしていたが、統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退した、もしくは直前に死去した、と言われています。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後国津久見で病死。享年58歳。

臼杵城(うすきじょう)

永禄4年(1561)、毛利氏との戦いに敗れた大友宗麟が、翌永禄5年(1562)に臼杵湾に浮かぶ丹生島に新城を築き、大分府内大友館から移ったとされていました。しかし、1557年10月29日に宣教師のガスパル・ヴィレラからイエズス会に送られた書簡には家臣の反乱(小原鑑元らによる「姓氏対立事件」)を避けるために丹生島に移った事が記されており、具体的な時期を断定する史料は存在しないものの、義鎮自身は弘治3年(1557)前後には臼杵へ拠点を移していたと考えられています。

宣教師ルイス・フロイスの記録によると、城下には多くのキリスト教の施設が建立され城内には礼拝堂もあったと記録されています。その後、田原親貫の反乱鎮圧のために天正7年(1579)から2年ほど府内に政庁を戻しているものの一時的な措置であり、大友氏の改易まで臼杵に本拠地が置かれていたと考えられています。
天正14年(1586)の島津軍の侵攻(丹生島城の戦い)に対して「国崩し」と呼ばれたポルトガルから入手の大砲、「フランキ砲」を動員するなどして島津軍を退けたが、城も城下も大きく損失。その翌年、宗麟は死去しています。

1966年(昭和41年)には大分県の史跡に指定され、2001年(平成13年)、二の丸大手門に当たる大門櫓が木造で復元。2017年(平成29年)には続日本100名城(193番)に選定されています。

宗麟公まつり

10月下旬に、郷土の英傑である大友宗麟公とその時代を新たな魅力として全国に情報発信する祭りとして、様々な功績や史実を多くの方々に身近に伝えるイベントが開催されています。
大友宗麟鉄砲隊や演舞や匹田大智&菅野大地ライブ、鶴崎踊披露、ジャズ演奏、神楽、太鼓演奏などのステージイベントのほか、屋台が出るなど、にぎわいます。

大友宗麟墓地公園

津久見市のあたりは戦国時代の一時期、九州を席巻した戦国時代の武将でキリシタン大名として知られる大友宗麟の終焉の地です。公園に隣接した杉木立の中には、宗麟公の墓(市指定史跡)と、建築家・磯崎新氏設計のもと新調されたキリスト教式の墓が建てられ、厳粛な雰囲気をかもし出しています。
春には桜が咲き、秋には紅葉で彩られるなど緑豊かな公園で、宗麟に想いを馳せ散策を楽しめます。市民や歴史ファンにとっては憩いの場として親しまれています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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