松永久秀実力で立身出世を遂げた男

松永久秀

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人物記
名前
松永久秀(1508年〜1577年)
出生地
大阪府
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信貴山城

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多聞城

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戦国時代、多くの武将が様々な能力を活かして活躍しました。三英傑と言われる織田信長・豊臣秀吉・徳川家康以外に、戦国の三大悪人として斎藤道三、松永久秀、宇喜多直家が挙げられます。しかし、本当に悪人だったのでしょうか?後世の印象操作で、イメージはガラッと変わってしまいます。今回は、実は悪人ではなく主君に忠誠を誓う一面があった松永久秀の生涯について見ていきましょう。

出自から世に出るまで

松永久秀は永正5年(1508)生まれとされていますが、どこの出身かについては阿波国・山城国西岡(現在の京都市西京区)・摂津国五百住(現在の高槻市)の土豪出身など諸説がありはっきりしていません。近年の研究では、摂津国五百住であるという説が有力になりつつあります。こうした事情から、幼少期の記録は皆無であると言えます。

天文2年(1533)または天文3年(1534)頃から三好長慶の右筆として仕えたと言われています。史料で確認できる最初の記述は、天文9年(1540)6月9日、長慶が西宮神社千句講用の千句田二段を門前寺院の円福寺・西蓮寺・東禅坊の各講衆に寄進する内容の書状を33歳の久秀が弾正忠の官名で伝達しているものだとされています。
同年12月27日、堺の豪商・正直屋樽井甚左衛門尉の購入地安堵判物にも久秀が副状を発給しており、このころ奉行の職にあったと思われます。

三好長慶が、それまでの三好勢のように畿内の争いで一時敗れても阿波に帰らず、越水城主として摂津下郡半国の守護代になり、初めて畿内での統治を行った際に外様の家臣として取り立てられて活動していたと推測されています。
天文11年(1542)には三好軍の指揮官として、木沢長政の討伐後も蠢動する大和国人の残党を討伐するため、山城南部に在陣した記録があります。この頃には官僚としてだけでなく、武将としての活動も始めていたようです。長慶が細川晴元の部下であった頃から仕えていたと考えられますが、本格的に台頭してくるのは長慶が晴元を放逐して畿内に政権を樹立する頃からとなります。

三好長慶の忠臣時代

天文18年(1549)、三好長慶が細川晴元、室町幕府13代将軍・足利義輝らを近江国へ追放して京都を支配すると、公家や寺社が三好家と折衝する際の仲介役を、三好長逸と共に務めるようになっていきます。
同じく天文18年(1549)、公家の山科言継が今村慶満から所領の利益を押領されたため、これを回復する為に長慶らと交渉を開始した際も、度々交渉先の名前に久秀が登場している記録も残っています。同年12月には久秀は本願寺の証如から贈り物を受けた記録もあります。

久秀は長慶に従って上洛、三好家の重臣として弾正忠に任官し、弾正忠の唐名である「霜台」(そうだい)を称するようになります。
上洛後しばらくは他の有力部将と共に京都防衛と外敵掃討の役目を任され、天文20年(1551)7月14日には等持院に攻め込んできた細川晴元方の三好政勝(宗渭)、香西元成らを弟の長頼と共に攻めて打ち破っています(相国寺の戦い)。

長慶に従い幕政にも関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553)に摂津滝山城主に任ぜられます。同年9月には長頼と共に丹波国の波多野秀親の籠る数掛山城を攻めるも、波多野氏の援軍に訪れた三好政勝、香西元成に背後から奇襲を受け惨敗を喫しました。
この戦いで味方の内藤国貞が戦死を遂げ、内藤家に混乱が生じますが、長頼が国貞の遺子である千勝の後見人をするという形式で内藤家を継承、丹波平定を進めていきます。

畿内を巡る争いと三好長慶との蜜月

永禄元年(1558)5月に足利義輝、細川晴元が近江国から進軍して京都郊外の東山を窺うと、久秀は吉祥院に布陣、弟の長頼、三好一門衆の三好長逸、伊勢貞孝、公家の高倉永相と共に将軍山城と如意ヶ嶽で幕府軍と交戦、11月に和睦が成立すると摂津国へ戻ります(北白川の戦い)。

久秀は永禄2年(1559)5月の河内国遠征に従軍、戦後は長慶の命令を受けて残党狩りを口実に8月6日大和国へ入り、1日で筒井順慶の本拠筒井城を陥落させ追い払いました。
永禄3年(1560)には興福寺を破って大和一国を統一する一方、長慶の嫡男・三好義興と共に将軍・義輝から御供衆に任じられ、1月20日に弾正少弼に任官します。6月から10月までの長慶の再度の河内遠征では大和国に残り、7月から11月にかけて大和北部を平定、三好家中の有力部将として台頭していきました。
そして同年11月に滝山城から大和北西の信貴山城に移って居城とします。後に信貴山城に天守を造営することになります。

永禄4年(1561)2月4日に従四位下に昇叙されると、それまで称していた藤原氏から源氏を称するように。また2月1日には義輝から桐紋と塗輿の使用を許されますが、これは長慶父子と同等の待遇であり、既にこの頃には幕府から主君・長慶と拮抗する程の勢力を有する存在として見られていたようです。この頃、久秀は長慶の側近として特に重用されています。

畿内の権力掌握を目指す

松永久秀が勢力を増す一方で、主君・三好長慶は弟の十河一存、三好実休、嫡男・三好義興の相次ぐ死去などの不幸が重なります。
永禄7年(1564)5月9日、三好長慶の弟である安宅冬康の死去により、三好家では久秀に並ぶ実力者は、阿波で国主を補佐していた篠原長房のみとなります。7月4日に長慶が死没すると、しばらくは三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らと共に長慶の甥・三好義継を担いで三好家を支えました。

永禄8年(1565)5月19日、息子の久通と三好義継、三好三人衆が軍勢を率いて上洛し、室町御所の足利義輝を襲撃して殺害(永禄の変)。この事件は久秀が首謀者のように言われるも、この時期久秀は京への出仕は久通に任せ大和国にいることが多く、事件当日も大和国におり参加していません。
久秀は直後、キリシタン宣教師を追放しますが、同年8月2日に弟・長頼が丹波国で敗死して三好家は丹波国を喪失します。やがて久秀は畿内の主導権をめぐり三人衆と対立するようになり、11月16日に義継を担いだ三人衆が久秀と断交。両者は三好家中を二分して争うようになっていきました。

永禄9年(1566)には三好康長や安宅信康ら一門衆も三人衆側に加担し、三人衆が新たに担いだ14代将軍・足利義栄からも討伐令を出されるなど、久秀は三好家中で孤立。2月に畠山高政・安見宗房と同盟を結び、根来衆と連携して義継の居城高屋城を攻撃するなど挽回を図ろうとしますが、三人衆は和泉国堺を襲撃します。
2月17日、久秀は畠山軍とともに三人衆と同盟者の大和国人・筒井順慶と堺近郊の上芝で戦うも(上芝の戦い)、両者の挟撃を受け松永・畠山軍は敗退。久秀は一旦多聞山城に退却して5月に再度出陣、かつての領国摂津で味方を募り堺で畠山軍と合流しました。

高屋城では三好義継の被官である金山信貞が久秀へ内応を図るも、高屋衆に阻止され失敗、高屋城から出撃した三人衆に堺も包囲されたため久秀は5月30日に堺から逃亡、数ヶ月間行方不明となりました。
高政は三人衆と和睦し、摂津・山城の松永方の諸城は篠原長房・池田勝正などの援軍を加えた三人衆に次々に落とされます。留守中の多聞山城は久通が城代を務めるも、筒井順慶が大和を荒らし回るなど劣勢に立たされています。

永禄10年(1567)2月16日に再び金山信貞の手引きで三人衆のもとから三好義継が久秀を頼って出奔してきたため、これを契機に勢力を盛り返し、4月7日に堺から信貴山城に復帰。久秀は10月10日に三人衆の陣である東大寺の奇襲に成功し、畿内の主導権を得ました(東大寺大仏殿の戦い)。このとき大仏殿が焼失し、大仏の首も落ちます。久秀の命によるとされていますが、大仏殿に火を点けたのは誰か(あるいはそもそも放火なのか失火なのか)については諸説あります。

織田信長の配下に

永禄11年(1568)9月、足利義昭を擁立した信長は上洛に成功、信長の上洛に協力した久秀は、当初は信長の同盟者の立場でした。10月2日には信長に対し、人質と名物といわれる茶器「九十九髪茄子」を差し出します。
久秀は幕府の有力な構成員となり、大和一国の支配を認められました。三人衆は信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され、義昭が15代将軍となり、畿内は信長によって平定されました。

大和の有力国人はほとんどが筒井順慶に従っていましたが、信長が10月に家臣の佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政ら2万の軍勢を久秀の援軍として大和に送ると、協力して次第に大和の平定を進めていく。
一段落した12月24日には岐阜へ赴き、さらに「不動国行の刀」以下の諸名物を献上しました。永禄12年(1569)も大和平定を継続、対する順慶は没落していきます。

元亀元年(1570)、信長の朝倉義景討伐に義継や池田勝正らと共に参加、信長が妹婿・浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされると、近江国朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救いました(金ヶ崎の戦い)。
以後、事実上の信長の家臣として石山本願寺攻めに参加しますが、次第に久秀と義昭は反目を深め、それと共に義昭を擁する信長との関係が悪化していきます。

元亀3年(1572)に入ると、久秀と義継は細川昭元・畠山秋高・遊佐信教・伊丹親興・和田惟長(惟政の子)らを味方に引き込もうとするも、義昭の働きかけによって誘いには応じず、わずかに三好為三しか味方にできませんでした。
しかし、三好勢力の再結集には成功しつつあった久秀らは朝倉義景や武田信玄、本願寺などの反信長勢力と接近、また義昭と信長の関係悪化に伴って、反信長へと移行していきます(信長包囲網)。翌元亀4年(1573)2月、義昭が信長と決別して挙兵をすると、義昭と久秀・義継は正式に和睦を結びました。

しかし、元亀4年4月、包囲網の有力な一角である信玄が西上作戦中に病死、武田氏は撤退します。 7月に足利義昭が信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、11月に三好義継も信長の部将・佐久間信盛に攻められ敗死(若江城の戦い)と反信長網は敗れ去りました。12月末に余勢を駆った織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏。三人衆も信長に敗れ壊滅し包囲網は瓦解してしまいました。翌天正2年(1574)1月には岐阜にて信長に謁見、筒井順慶も信長に服属しています。

久秀の最期

天正5年(1577)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応し、本願寺攻めから勝手に離脱します。
信長の命令に背き、信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確にしました。信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかったと言われています。

信長は、嫡男の織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲。佐久間信盛は名器・古天明平蜘蛛を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首の2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答したとされています。
織田軍の攻撃により、久秀は10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害。首は安土へ送られ、遺体は筒井順慶が達磨寺へ葬りました。享年68歳(一説には70歳)。
10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と同月同日であったこともあり、兵は春日明神の神罰だと噂したと言われています。

久秀の逸話

茶人としての久秀
武野紹鴎に師事しており、茶人としての交流は広いものがありました。古天明平蜘蛛を所持していたことでも有名ですが、他に九十九髪茄子を一時所持するなど、その他にも名物を多数所持していたことでも有名です。
当時の茶人としての地位は高く、野村美術館には、天正3年(1573)1月22日に、久秀自ら作成した茶杓「玉椿」が所蔵されています。
織田信長とは同じ茶の湯を嗜む同士で、信長に招かれてその点前で茶を頂いた時に「いつまでもお手前の九十九髪の茶入れで数寄をなされよ」と言葉を信長からもらい、久秀もその恩返しのためか数寄屋を新しくしたと言われています。
一方で徳川家康が久秀と面会して丁寧に挨拶を交わしているのを見た信長が「天道に背く行為、さほどに心許せる男にあらず」と述べて礼儀正しくする必要は無いと発言したと伝わっています。
灸をすえる習慣
中風の予防のため、毎日時刻を決めて頭のてっぺんに灸をすえていたと言われています。
自害の直前にも灸の用意を命じ、部下から「この期に及んで養生もないでしょう」と言われたが、久秀は「百会(脳天)の灸を見る人は、いつのための養生だと、さぞおかしく思うであろう。だが我は常に中風を憂う。死に臨んで、俄かに中風を発し、五体が動かなくなれば、きっと死が怖くてだろうと笑われる。そうなれば今までの武勇は悉く無益なことになってしまう。百会は中風の神灸なれば、当分その病を防ぎ、快く自害するためのものである」と語って灸を据えさせた後に自害したと伝わります。
久秀は年老いても自害を見事に果たせる武将でありたいとの思いがあったものと推測されています。

久秀を祭る「へぐり時代祭り」

奈良県の平群町に関わりのある歴史人物偉人たちが町内を練り歩く「時代行列」を中心に、道の駅「くまがしステーション」を舞台とした催しを行う、春の一大イベントがあります。
地域の住民を中心に、企画立案から参加まで楽しむイベントとして親しまれています。平城遷都1300年祭を契機に立ち上げられ、継続的に実施されています。毎年、4月最終週の祝日に開催。

倭建命(やまとたけるのみこと)をはじめ、古い時代から順番に平群木菟(へぐりのずく)、聖徳太子、役行者、長屋王と吉備内親王、平群廣足(長屋王に仕えたとされる倭舞の名人)、行基菩薩と続き、戦国武将の松永久秀、島左近(清興)と華やかに行列が練り歩きます。

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。