長曾我部元親土佐の出来人
長曾我部元親
戦国時代、各地で新興勢力が台頭します。中国地方では毛利家が、近畿、東海地方では織田家が、関東では北条家が覇を唱えます。そして四国では長曾我部家が台頭しました。土佐国(現在の高知県)では、騒乱が絶えませんでした。その中で長曾我部元親が家を継ぐと土佐国を統一し、次第に四国を支配下に置いていきます。今回はそんな「四国の出来人」長曾我部元親を見ていきたいと思います。
土佐国の長曾我部家
長曾我部氏は平安時代末期から鎌倉時代の間、信濃国(現在の長野県)から土佐国へ移って来た侍が興した家と言われています。戦国時代に入ると土佐国は、地域の国人衆(土着の小領主)が小競り合いを繰り返す不安定な国となり長曾我部家もおおいに争いました。
そんな土佐国で長曾我部元親は長曾我部国親の長男として天文8年(1539)に生まれます。幼少の頃は長身だが色白で大人しく、ぼんやりとした子供であった事から「姫若子」(ひめわこ)と周りから揶揄され、父の国親も跡継ぎとして悩みました。
永禄3年(1560)5月、武士として成長した元親は数え年23歳という遅い年齢で初陣を迎えます。土佐国の国人であった本山家と争い、長浜の戦いに参加します。この時、元親は大いに槍を振るい奮迅の働きを見せ、本山家を切り崩した事から「鬼若子」と称賛されました。
元親の家督相続から土佐国統一へ
ところが初陣を終えた翌6月、父の国親が急死し元親は長曾我部家を継ぎます。
父の国親が当主であった時代から子供達(元親の弟たち)を周囲の国人衆に養子として送り込んでおり、元親も自らの子供を養子として送り込むことで地域を取り込んでいきました。また精悍な土着の武士をまとめ「一領具足」として率います。彼ら一領具足は普段、田を耕したりして過ごしていますが、いざ戦いという時には一領の鎧(具足)を持って戦いに参戦し、命知らずに戦ったそうです。
こうして体制を整えた元親は天正2年(1574)に土佐国を統一します。土佐国を統一すると元親は「土佐の出来人」と呼ばれ称賛されました。
土佐を統一した後の話です。阿波の寺を訪れ住職と話していました。元親は自らの夢として四国統一を熱く語ります。
ところが住職は「薬缶(やかん)の蓋で水瓶の蓋をする様なものである」と説き、不相応な夢だと述べました。それに対して元親は「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう」と答えたそうです。
この四国で争っていた当時、元親は大きな気概を持って戦乱の世を生きていました。
長曾我部元親とその夫人
長曾我部元親が家督を継いだ後、永禄6年(1563)に元親は正室を迎えました。
元親の正室は室町幕府13代将軍足利義輝に仕えていた幕臣、石谷光政の娘です。石谷光政には娘たちがいましたが男子に恵まれませんでした。その為、美濃国(現在の岐阜県)の守護代斎藤氏(斎藤道三の斎藤家とは別)の流れを汲み関係の深かった斎藤利賢の子を婿養子として迎えます、石谷頼辰です。この婿養子に来た頼辰には弟がいました。後に明智光秀の家臣となる斎藤利三です。
つまり、長曾我部元親の妻は実家に婿養子としてやってきた頼辰(義理の兄)がいて、その頼辰には斎藤利三という弟がいたことから長曾我部元親の妻と斎藤利三とは親戚関係にありました。
そして永禄8年(1565)、将軍足利義輝は三好家により京の二条御所武衛陣の館で殺されます(永禄の変)。義輝に仕えていた石谷光政は娘の嫁ぎ先である長曾我部家を頼り以降、元親に仕えます。
一方で婿養子として入った石谷頼辰は明智光秀に仕えたので、長曾我部家は石谷光政を窓口として、織田家の側は明智光秀の家臣、斎藤利三や石谷頼辰を窓口として、双方が連絡を取り合いました。こうして長曾我部家と織田家とは接点を持つようになります。
阿波、讃岐、伊予への侵攻
土佐国を統一した長曾我部元親は、中央に勃興した織田信長と話し合い、四国は元親の攻め取り次第(攻め取った土地は長曾我部家のものにして良い)という事で話が決まりました。
四国は元親が平定した土佐国の他、阿波国、讃岐国(現在の徳島県、香川県)、伊予国(現在の愛媛県)の四つ国からなります。
阿波国、讃岐国は三好家が勢力を誇っていましたが、三好長治が当主として実権を握り始めると強権的な統治体制に領民や国人の反抗に遭い長曾我部家の進出を許すようになりました。三好長治は国人衆の反乱の中で亡くなりますが、長治の大叔父である三好康長が抵抗します。しかし元親は天正8年(1580)までにはほぼ二国を制圧します。
伊予国は、西園寺家や河野家が統治しており激しく抵抗し又、中国地方の毛利家の後押しもあって伊予国の平定には時間が掛かる見込みとなりました。
織田信長との対立
四国の征服を着々と進めていた長曾我部元親でしたが天正8年(1580)、突如として織田信長から臣従を迫られます。そして臣従の証として土佐国と阿波半国を残して割譲するよう迫られました。元親は拒否します。
天正10年(1582)信長は、息子である神戸信孝を総大将とした長曾我部討伐隊を編成します。元親は斎藤利三に宛てて恭順の意向を示しましたが、信長は受け入れず遠征軍の準備を始めました。
この長曾我部家と織田家との間に立ち板挟みとなったのが、石谷頼辰や斎藤利三の主人、明智光秀です。それまで長曾我部家に対する折衝を行っていた光秀は織田信長に対して不審を抱きました。この不審が本能寺の変を起こした原因と一つとして考えられています。
そして6月2日、明智光秀は信長討伐の軍を起こし、本能寺において織田信長は亡くなりました。 長曾我部元親は織田信長の介入という事態を運よく切り抜けたのです。
四国統一
本能寺の変が起こり、織田信長は自害しました。すると京を中心とした畿内では、織田家内部の対立が起こり、政治的な空白期間が生まれます。
長曾我部元親はこの空白期間を利用して四国の統一に邁進しました。三好康長など三好家が抵抗していた讃岐国、阿波国を堕とし、天正13年(1585)までには伊予国もほぼ手中に収め四国を統一しました。
元親が四国を統一している間。織田家では織田信長の家臣であった羽柴秀吉が、本能寺の変を起こした明智光秀を討ち台頭してきます。そして織田家の有力な家臣であった柴田勝家と秀吉は対立しました。
長曾我部元親は柴田勝家に誘われて手を結びます。結果、羽柴秀吉が権力争いに勝ち柴田勝家は自害しました。次いで羽柴秀吉は織田家の同盟者であった徳川家康と対立します。
長曾我部元親はまたもや徳川家康に誘われて手を結ぶ事にします。羽柴秀吉は徳川家康に戦いで負けましたが、外交力で上回り家康を臣従させる結果になりました。
こうして長曾我部元親は羽柴秀吉と対立していきました。
豊臣(羽柴)秀吉へ臣従
羽柴秀吉は度々敵対関係となった長曾我部元親に対して脅威を覚え、四国侵攻を模索します。そこで元親は領地の割譲を条件に和睦を試みますが物別れとなりました。
秀吉は弟の羽柴秀長を総大将に10万を超える大軍を催します。元親もそれに対して、四国の海岸線の防備を固めました。
天正13年(1585)5月、播磨国(現在の兵庫県)から黒田孝高らを讃岐へ、中国地方から毛利家を伊予国へ、紀伊国(現在の和歌山県)から羽柴秀長が阿波国へ渡海します。元親は家臣の言を受け入れ降伏し、土佐国一国を残して領地を割譲しました。こうして長曾我部元親は四国の覇者から羽柴秀吉の傘下に納まります。
秀吉は、元親が降伏した翌年の天正14年(1586)、九州の島津家を討つために遠征を行います。長曾我部元親は長男の信親を連れて従軍し、九州へ向かいました。ところが秀吉から派遣された軍監(目付け役)の仙石秀久の指示により勝手に戦端を開き島津家の罠に落ちます。戸次川の戦いで長男の信親は討死、元親は四国へ逃れました。
元親の最期
天正16年(1588)、本拠地を岡豊城から大高坂城(現在の高知城の場所)へ移転します。 さらに家督継承に関して長男の信親が亡くなった事から次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親に譲ることを決めます。この決定には家臣が反対、元親は反対した比江山親興や吉良親実などを相次いで切腹させてしまいました。元親は長男の信親が亡くなった事で英雄の気概を失い、意固地な性格へと変わってしまいます。
その後、豊臣秀吉が起こした関東遠征や朝鮮の役にも参加します。慶長3年(1598)8月豊臣秀吉が死去します。秀吉が亡くなると中央政権では政情が不安定になります。元親は年末まで伏見屋敷に滞在し、その年の暮れには土佐国に帰国しました。
翌慶長4年(1599)3月、元親は三男の津野親忠を幽閉した後、4月には病気療養のために上洛します。しかし病状は思わしくなく死期を悟った元親は5月、4男の盛親に遺言を残して5月19日に死去しました、享年61。
高知県高知市長浜天甫山にあった天甫寺(廃寺)に葬られ、現在の墓所は天甫寺山南斜面
にあります。
その後の長曾我部家
長曾我部元親の死後、長曾我部家は迷走します。元親の長男信親は戸次川の戦いで戦死し既になく、次男香川親和も病死していました。
三男の津野親忠は、元親が溺愛していた四男の長曾我部盛親との家督争いに巻き込まれ、関ヶ原の戦いの後に盛親によって殺害されます。
四男の長曾我部盛親が元親亡き後の長曾我部家を継ぎましたが、家督相続直後に起きた関ヶ原の戦いに参加する事になります。事情が分からないまま石田三成が主導する西軍に参加、本戦にも参陣していました。
結果、徳川家康の東軍が勝利し敗れた側に付いた長曾我部家は土佐国を取り上げられ盛親は京都に隠棲します。そして後年起こった大坂の陣に参加しましたが豊臣家は敗北。戦後、盛親は捉えられ処刑されました。ここに長曾我部元親の嫡流は途絶える事になります。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。