高知城高知県高知市

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高知城DATA
別称 鷹城
築城 1601年
住所 高知県高知市丸ノ内1丁目2-1
電話番号 088-824-5701
開館時間 午前9時~午後5時(最終入館16時30分)
休館日 12月26日~1月1日
登閣料 大人420円/18歳未満無料

高知城は現存する12天守の一つ。天守と本丸御殿が両方現存しているのは高知城のみ。

高知城への交通アクセス
JR四国土讃線「高知」駅からバス約10分。
とさでん交通伊野線「高知城前」停留場下車、徒歩約5分。

HISTORY 山内一豊が築いた日本百名城の一つ、高知城

高知城は、山内一豊が築いた高知県高知市にある平山城です。高知平野のほぼ真ん中にある大高坂山(標高44.4m)の上に建てられています。天守だけでなく江戸時代に築かれた本丸御殿や追手門が現存している日本唯一の城です。そんな高知城の歴史を紐解いていきましょう。

南北朝時代の大高坂山にあった城
大高坂山には、南北朝時代にその地の豪族である大高坂氏が築いた、大高坂山城があったと記録に残されています。どのような城であったかは定かではありませんが、大高坂松王丸という武将が居城し、南朝方に属していました。延元3年(1338年)に後醍醐天皇の第7子である満良親王を城に招き、北朝方の細川禅定、佐伯経定らと戦いましたが敗北し、大高坂山城は落城し、廃城となったようです。満良親王の行方も分からなくなり、その後の記録にも登場していません。
安土桃山時代の高知について
安土桃山時代、高知(土佐)は国人から大名に出世した長宗我部氏が治めていました。長宗我部氏第21代の当主、長宗我部元親は天正15年(1587年)、豊臣秀吉に付き従った九州征伐から帰国した後、大高坂山に再度城を築き居城とします。しかし、この地は水はけが悪く湿地帯が広がっていたため、3年で城を捨てて天正19年(1591年)に浦戸にあった浦戸城を改築し、再度居城としました。なお、この説には異論があります。浦戸城はあくまでも秀吉の朝鮮出兵に合わせて一時的に居城を移しただけであり、大高坂山の築城や改築をすすめていたというものです。現在も、高知城には「長宗我部期石垣」という長宗我部元親が築いた石垣を見ることができます。
江戸時代の高知城
長宗我部氏の第22代目当主長宗我部盛親は、慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦で西軍に味方したために徳川家康によって改易されました。代わって土佐の国を与えられたのが、内助の功の逸話で有名な戦国武将、山内一豊です。
山内一豊は長宗我部元親が捨てた大高坂山の地に城を築くことを決意しましたが、水害対策が自身の技術では心許ないと、西軍に与した武将であり、京都に蟄居していた百々綱家という人物を雇います。
百々綱家は優れた築城技術を持ち、しかも石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持っていました。山内一豊は百々綱家を総奉行に迎えて城の建築に乗り出します。
江戸時代の高知城、続き
同時に、百々綱家は城下町の整備のために鏡川・江ノ口川など川の治水工事にも着手しました。
工事は急ピッチで進められ、月の明るい晩は夜間にも工事が行われたと伝えられています。そのかいあって、慶長8年(1603年)には丸と二ノ丸の石垣が完成し、同年の旧暦8月21日、山内一豊は高知城に入城しました。
この際、真如寺の僧・在川という人物の助言によって城の名前が河中山城(こうちやまじょう)と改名されます。
しかし、度重なる水害に城が見舞われたことから、慶長15年(1610年)に二代目藩主山内忠義が竹林寺の僧・空鏡の助言によって河中山城より、高知山城と改名します。そしてそれが縮められて高知城と呼ばれるようになり、城下町の名も「高知」に改まりました。この地名が現在の高知市になっています。
享保12年(1727年)、高知の城下町を大火が襲い、高知城も追手門以外のほとんどが消失しました。以降、宝暦3年(1753年)までかけて城は再建されていきます。なお、現在現存している天守を初めとする多くの建物は、このときに再建されたものです。
明治以降の高知城
明治6年(1873年)に発布された廃城令により、高知城は現存する建物以外、あらかた壊されます。
その後、明治43年(1910年)日本初の庭園デザイナーである長岡安平の手により敷地の大部分が公園になり、市民に公開されました。
昭和9年(1934年)、天守など15棟の建造物が旧国宝保存法に基づき国宝に指定されます。しかし、昭和20年(1945年)に高知大空襲が起き、高知城も被害を受けました。
昭和昭和25年(1950年)に天守等15棟が国の重要文化財に改めて指定され、昭和34年(1959年)に国の史跡になります。平成18年(2006年)4月6日、日本100名城に指定されました。
令和2年(2020年には)大改修工事の一部として天守高欄の改修工事が始まり、令和3年度に終了しました。
現在の高知城は高知の観光の目玉であると同時に、季節ごとに各種イベントが行われ、観光客だけでなく地元の人も楽しませています。また、高知城の周囲には幕末に活躍した坂本龍馬生誕の地を始め、福岡孝弟や板垣退助に関わる石碑なども多く、幕末ファンの聖地にもなっています。見所が多い城なので、たっぷりと時間を取ってまわるのがおすすめです。

高知城と関連する人物記を読む

山内一豊戦国の出世と内助の功
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山内一豊
長曾我部元親土佐の出来人
戦国時代、各地で新興勢力が台頭します。中国地方では毛利家が、近畿、東海地方では織田家が、関東では北条家が覇を唱えます。そして四国では長曾我部家が台頭しました。土佐国(現在の高知県)では、騒乱が絶えませ
長曾我部元親

高知城を藩庁とする、土佐藩の歴史

土佐藩幕末に活躍した偉人をたくさん輩出
土佐藩は山内一豊を始祖とする山内家が代々治めてきた藩です。幕末は板垣退助や坂本龍馬など、現在も人気がある幕末の偉人が多く誕生しました。そんな土佐藩の歴史を紐解いていきましょう。 山内一豊が支配する前の
土佐藩
土佐藩DATA
藩庁 高知城
旧地域 土佐国土佐郡高知
石高 20万2600石
譜代・外様 外様
主な藩主 山内家
推定人口 51万人(明治元年)

南海の名城・高知城 現存する本丸御殿にも注目

高知県高知市にある平山城・高知城。天守は現存12天守のひとつで、天守をはじめ15棟が重要文化財に指定されています。日本で唯一本丸がほぼ完全な形で現存している貴重な城で、瓦や壁の色が鷹に似ていることから「鷹城」とも呼ばれています。

高知城
高知城の歴史
高知城のもとは南北朝時代に築かれた大高坂城だと言われています。戦国時代には長宗我部氏が統治していましたが、関ヶ原の戦いにより山内一豊が土佐藩24万石を拝領。一豊は浦戸城に入城後、大高坂山に新城を建築することを幕府に報告します。
慶長6年(1601年)から築城を開始した高知城でしたが、慶長8年(1603年)には本丸と二の丸が完成しました。一豊亡き後の慶長16年(1611年)、跡を継いだ養嗣子の山内忠義の時代に三の丸の工事が終了し、高知城が完成しました。
ところが享保12年(1727年)、城下町の大火で追手門以外のほとんどの建物が焼失。享保14年(1729年)から再建を開始しますが、財政難などもあり、天守閣が復興したのは寛延2年(1749年)、ほぼすべての建物の復興が完了したのが宝暦3年(1753年)でした。現在の天守などはこのときに建てられたものです。
明治時代の廃城令の際は一部の城郭や建造物が破却されたものの、本丸周辺の建造物と追手門は残ります。1945年7月の高知大空襲では市街地は一面焼け野原になり大きな被害を受けましたが、高知城は奇跡的に難を免れました。
高知城の見どころ①工夫がこらされた天守
高知城の天守は3層6階で、母屋造りの屋根の上に望楼が載った望楼型天守です。二の丸側から見ると4層のように見えるのが特徴。天守台はなく、高い石垣の上に直接天守が建っています。
最上階には黒漆で塗られた廻縁(天守を一周できる縁側)と高欄(手すり)がついており、実際に外に出て歩けます。歩ける廻縁は他には犬山城の天守だけで、貴重な存在です。また、高欄に擬宝珠がついているのは高知城だけです。
天守の屋根に飾られているのは青銅製の鯱で、こちらも高知城と宇和島城でしか見ることができません。天守の1階の外壁下、北面の石垣の上には全国で唯一現存する「忍び返し」があります。鉄串をびっしりと並べたもので、侵入者を防ぐ工夫の一つです。
高知城の見どころ1 高知城の見どころ2 高知城の見どころ3
高知城の見どころ②全国でここだけ!天守直結の本丸御殿「懐徳館」
高知城は本丸がほとんどそのまま残されています。特に現存する本丸御殿は川越城と高知城の2城のみ。天守と本丸が揃って現存しているのは高知城だけで、重要文化財に指定されています。
高知城の本丸御殿は「懐徳館」と名付けられており、天守と直結で一体化しています。本丸御殿の書院は正殿、玉利の間、玄関からなり、正殿には藩主の御座所上段の間や武者隠しなどがあります。内部は見学OKです。
創建当初は金箔張りの襖などがあり華やかなものでしたが、再建時は予算の関係もあり、全体的に質素な造りになったそうです。
高知城の見どころ4 高知城の見どころ5 高知城の見どころ6
高知城の見どころ③追手門と詰門
高知城は堅固な守りの城としても有名です。城の正面にある「追手門」は享和元年(1801年)に建て替えられ、空襲で半壊したものの昭和の解体修理で修復されました。桝形になっており石垣の上の挟間塀や門の上から敵を攻撃できます。門の2階には石落としもありますよ。追手門をくぐると続く石段は広さや段差に工夫をつけ、登りにくく降りやすいようになっています。
二の丸と本丸の間には堀切を設けており、真ん中には黒塗りの「詰門」の姿。入口と出口の扉の位置が筋違いになっており、通り抜けにくいのが特徴です。2階は家老や中老などの詰め所で、籠城用の塩も備蓄していました。
このほか、敵を確認しやすいよう横長の「物見窓」をつけた土塀が現存しており、こちらも高知城だけでしか見れません。攻めにくく守りやすい工夫が随所にされているので、城攻めのつもりで見て回ると面白いですよ。
高知城の見どころ7 高知城の見どころ8 高知城の見どころ9
高知城の見どころ④石垣
高知城の石垣は近江出身の石工集団「穴太衆」が築いたもので、ほとんどが自然石をそのまま使った野面積です。これは高知が雨の多い土地であることが関係しており、崩れにくく排水能力が高い野面積は高知城にぴったりでした。
また、雨対策のために城内には多くの水路が設けられており、水による石垣の崩落を防ぐため、石垣から石樋を飛び出させています。石樋は城内に16ヶ所あり、本丸の石樋は現在も現役です。
このほか、追手門の石垣には巨石が多く見ごたえがあります。工事の際に石に記された刻印もいくつかあるので探してみましょう。鉄門には打込ハギの美しい石垣があるほか、三の丸では発掘調査によって見つかった長宗我部氏時代の古い石垣が見学できます。
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高知城のフォトスポット
高知城の一番のフォトスポットは追手門前です。追手門と天守を1枚の写真におさめることができるのは高知城だけですよ。
本丸御殿と高知城を1枚でとるなら本丸御殿前がおすすめ。天守のみを撮影する場合は、二ノ丸御殿跡地へと登る階段の途中がベストスポットです。
このほか、天守閣をはじめとした夜のライトアップも美しいので写真撮影におすすめ。高知城は夜景観光コンベンション・ビューローから「日本三大夜城」に選ばれており、城から眺める夜景は絶景です。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。

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