滝川一益東国支配を任された信長の重臣はなぜ清洲会議に出席できなかったのか
滝川一益
- 滝川一益とは
- 滝川一益とは、織田信長に仕え、伊勢攻略や甲州征伐で活躍し、武田氏滅亡後には東国支配を任された重臣である。
- 出自には不明な点が多いが、近江国甲賀郡の出身とされ、弘治年間にはすでに信長に仕えていたと考えられている。
- 伊勢攻略では国人領主の調略や長島一向一揆との戦いで功績を重ね、北伊勢5郡を与えられて同地域の支配を担った。
- 長篠の戦い、有岡城の戦い、伊賀侵攻など各地を転戦し、信長軍の遊撃的な武将として存在感を高めた。
- 天正10年(1582年)の甲州征伐では軍監として武田勝頼を追い詰め、武田氏滅亡後に上野一国と信濃国小県・佐久郡を与えられた。
- 信長から「関八州の御警護」と「東国の儀御取次」を命じられ、関東や東北の諸大名との外交を担った。
- 本能寺の変後は北条氏との神流川の戦いに敗れて関東から撤退し、清洲会議にも参加できなかったことで織田家中の主導権争いから後れを取った。
- その後は柴田勝家方として羽柴秀吉と戦い、小牧・長久手の戦いでは秀吉方に加わったものの勢力を回復できず、晩年は表舞台から退いた。
織田信長の重臣として伊勢攻略や武田氏攻略で活躍した滝川一益。武田氏滅亡後には上野一国を与えられて東国支配を担いますが、本能寺の変で状況は一変します。北条氏との戦いに敗れて関東から撤退し、清洲会議にも出席できず、その後急速に力を失っていきました。今回はそんな滝川一益の生涯について詳しく解説します。
滝川一益の出生の謎
滝川一益は大永5年(1525年)ごろに生まれたとされています。ただし、その前半生については不明な点が多く、出自についてもはっきりしたことは分かっていません。
一般的には近江国甲賀郡(現滋賀県甲賀市周辺)の出身とされ、豊後守の滝川一勝の長男だったと伝わっています。甲賀出身だったことから「忍者だった」と紹介されることもあります。
幼いころから鉄砲を学んだ名手で、その腕前を信長に認められて家臣になったとの逸話もあります。博打で身を崩して村を追い出され、諸国を流浪した後に信長に仕えたと伝わっています。
信長の伝記『信長公記』で弘治年間(1555年〜1558年)と推察される盆踊りの記事に一益が登場することから、そのころには信長に仕えていたと考えられています。
伊勢攻略で活躍
一益は永禄年間(1558年〜1570年)には織田家の武将となり、永禄10年(1567年)以降に伊勢討伐に起用され、頭角を現していくことになります。
当時の伊勢では、北部は多くの国人領主が割拠し、南部は名門・北畠氏が大きな勢力を誇っていました。
永禄11年(1568年)の信長の伊勢攻めの際、一益は北伊勢の国人領主たちの調略に努めていたことが当時の書状などから分かります。
その後、信長は北伊勢を平定。残る南伊勢の北畠氏に対しては、永禄12年(1569年)の大河内城の戦いにより和睦が成立しました。
和睦の条件は、信長に大河内城を明け渡し、信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を北畠具房の養子にすることなど。これにより北畠氏は実質的に信長の支配下に入りました。
伊勢攻略後、一益は伊勢北部を中心に勢力を築き、信長軍の「伊勢の抑え」として活躍します。
長島一向一揆との激戦
一益の伊勢での活動で避けて通れないのが、長島一向一揆との戦いです。伊勢国長島は木曽川、長良川、揖斐川が流れる水郷地帯で、一向宗が大きな勢力を持っていました。
元亀元年(1570年)、石山本願寺の顕如が信長への抵抗を呼びかけると、願証寺(三重県桑名市)に集った門徒たちも一揆を起こしました。
11月には信長の弟・織田信興の小木江城が尾張・長島一向一揆衆に囲まれ、数日のうちに落城。信興は自害しました。このとき、近隣の桑名城には一益がいましたが、一揆勢の侵攻を受けて籠城の真っ最中。援軍を出すことはかないませんでした。
その後、信長は元亀2年(1571年)5月、天正元年(1573年)9月と長島一向一揆と戦いますが、大苦戦します。
天正2年(1574年)、信長は大軍を率いて三度目の長島攻めを実施します。陸上から包囲するとともに、水軍で海上からも攻撃し、一揆勢を追い詰めました。この水軍に一益は参加して活躍しました。
織田軍は長島城を兵糧攻めにし、降伏を申し出て船で退去しようとした一揆勢にも攻撃を仕掛けました。この際、一揆の中心人物の顕忍や下間頼旦など多数の一揆勢が亡くなったため、怒った一揆勢は最後の反撃に出ます。この戦闘で織田信広や秀成などの織田一族が亡くなり、激怒した信長は残る屋長島・中江の二城を火攻めにして焼き尽くしました。
こうして激戦の末織田軍は勝利し、長島一向一揆は壊滅しました。一益は激闘の中を生き残り、信長から長島城と桑名・員弁・三重郡などの北伊勢5郡が与えられ、北伊勢支配の中心人物となっていきました。
信長の重臣として各地を転戦
伊勢に基盤を築いた一益は、その後も信長の主要な戦いに参加します。
天正3年(1575年)には、織田・徳川連合軍と武田勝頼が戦った長篠の戦いに参戦し、鉄砲隊を率います。また、同年から本格化した加賀一向一揆の討伐にも加わりました。
天正6年(1578年)、荒木村重の謀反に際して起こった有岡城の戦いでは武芸に加え、調略でも活躍して勝利に一役買いました。天正9年(1581年)9月の伊賀侵攻(第二次天正伊賀の乱)の際は出身地を活かしてか甲賀口(滋賀県甲賀市)から攻め入っています。
信長の家臣団では、柴田勝家が北陸方面、羽柴秀吉が中国方面を担当するなど、有力武将たちが各方面の軍事・統治を担うなか、一益は伊勢を基盤に各地を転戦する遊撃軍の武将として存在感を強めました。攻守に巧みだったことから「進むも滝川、退くも滝川」と称賛された、と伝わっています。
甲州征伐で武田勝頼を追い詰める
天正10年(1582年)2月、一益の立場を大きく変える戦いが始まりました。それが信長が武田勝頼を攻めた「甲州征伐」です。
総大将は信長の嫡男・織田信忠。一益は軍監として、河尻秀隆や森長可らとともに主軍に参加しました。一益ら織田軍は武田勝頼の拠点である新府城(山梨県韮崎市中田町)に向かって進軍しました。対する武田方では寝返りが相次ぎ、組織的な抵抗ができないままでした。
勝頼は新府城から小山田信茂を頼って岩殿城(山梨県大月市)に移動しますが、この小山田信茂にも裏切られ、武田氏の祖先の墓がある天目山棲雲寺(山梨県甲州市大和町)に向かいました。
そんな武田勝頼を追いかけたのが一益率いる軍勢でした。勝頼を追い詰め、天目山付近で自害に追い込んだのです。こうして戦国大名としての武田氏は滅亡しました。勝頼の首は信忠が実検したうえで、一益が信長に進上したと伝わっています。
甲州征伐後、信長は旧武田領を家臣たちに分配しました。一益は上野一国(群馬県)と信濃国小県・佐久郡が与えられました。信長は一益に「関八州の御警護」と「東国の儀御取次」を命じるとともに、秘蔵の名馬と脇差を一益に下賜しています。
以後、一益は領国の統治に加え、北条氏や関東・東北諸大名との外交担当として、関東や東北の諸大名を外交交渉などにより織田の勢力下に収めていきます。
領地より茶器が欲しかった?
そんな一益には、甲州征伐後の恩賞をめぐる有名なエピソードがあります。
一益は上野などを与えられたものの、当時は50代後半の老将でした。このため北伊勢から上野国という遠国に行くのは気が進まなかったようです。
当時、茶人に宛てた書状には、信長に名物茶器の「珠光小茄子」を希望したものの果たされなかったことが書かれています。そのうえで遠国に派遣されたことを「茶の湯の冥加は尽きた」と大いに嘆いています。
信長は茶の湯を政治に取り入れ、特定の重臣に名物茶器を下賜し、茶会の開催を許可していました。名物茶器の所有は織田家中での地位や名誉を示し、一国一城に匹敵する価値があるとされていたのです。
信長は嫡男の織田信忠以外には、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、羽柴秀吉といった特定の重臣にのみ名物茶器を下賜して茶の湯を許可しており、一益は重臣の仲間入りを狙っていたのです。もともと一益は茶の湯への造詣が深かったこともあり、本人にとってはさぞショックだったのでしょう。
上野国で統治に励む
天正10年(1582年)3月末から4月上旬ころにかけて、一益は箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)に入り、その後は厩橋城(群馬県前橋市)を拠点に東国の支配体制の確立に取り組みます。国衆たちから人質を取り織田氏に従属させるとともに、伊達氏や佐竹氏、芦名氏などにも働きかけ、取次などを行いました。
織田家の懸案事項だった北条氏についても、北条氏と同盟を結んでいた里見氏に働きかけて関係を結ぶなど、さまざまな外交策をとっています。また、上杉氏とは小競り合いもあったようです。
ところが、一益が東国に赴任してからわずか数カ月で、彼の運命を一変させる大事件が起こります。
本能寺の変で状況が一変
天正10年(1582年)6月2日、京都の本能寺に滞在していた信長が明智光秀の軍勢に襲撃され、自害しました。「本能寺の変」です。
このとき一益は遠く上野にいました。一益がいつ本能寺の変を知ったのかは諸説ありますが、早ければ6月7日、遅くとも9日には知っていたようです。
信長の死は、ようやく織田政権の支配下に入ったばかりの旧武田領に大きな動揺をもたらしました。一益の上洛を阻む脅威となったのが北条氏でした。信長が死んだことを好機ととらえた北条氏が挙兵したのです。
北条氏は徳川家康からの連絡で、少なくとも6月11日までには本能寺の変について知っており、同日付で一益に対し「北条氏に対しては全く疑念を抱く必要はありません」と訴えています。
神流川の戦いで北条氏に敗北
信長の死により、織田氏と北条氏の関係は一変します。敵対する意思はないと手紙で示していた北条氏でしたが、6月16日に北条氏直ら北条一族が総勢5万6000人の軍を率いて上野国に侵攻しました。一益との手切を宣言して倉賀野(群馬県高崎市)に向かって進軍しました。
一方の一益は周辺の国衆らを集め、1万8000人の軍で北条軍に対抗しようとします。こうして6月18日、国境にあたる神流川流域で両軍が激突する「神流川の戦い」が起こります。
6月18日の初戦では一益軍が勝利します。翌6月19日も一益軍は北条軍を切り崩しますが、反撃にあい、最終的には北条軍が勝利しました。戦の詳細については文献により異なりますが、どうやら一益率いる関東衆が積極的ではなかったようです。
これ以上上野にとどまることは困難と判断した一益は撤退を決断します。一益は箕輪城、または厩橋城に後退し、6月20日には北条方に人質を返還。その後信濃方面へ移動し、6月21日に小諸城に入城しました。木曽を通って7月1日に本拠地の伊勢へと帰還しました。なお、移動の際、一益は真田昌幸に沼田城を返還しています。
神流川の戦いの後、北条氏政・氏直、上杉景勝、徳川家康、そして武田氏の部下だった真田氏が旧武田領で国を奪い合う「天正壬午の乱」が発生しています。
清洲会議に間に合わなかった一益
一益が関東から撤退している間、中央では織田家の主導権をめぐる動きが進んでいました。
本能寺の変を知った羽柴秀吉は毛利氏と和睦し、中国地方から京へと引き返します(中国大返し)。そして6月13日の山崎の戦いで明智光秀を破りました。
その後、6月27日には、信長の後継者や遺領の配分を決めるための清洲会議が開かれます。
会議に出席したのは織田家の宿老である柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興。一益は出席していません。一益は関東から撤退中で、6月27日には信濃国下諏訪あたりにおり、会議に参加できなかったのです。なお、北条氏対策中だと考えられていた一益は、そもそも会議に呼ばれていなかったという説もあります。
清洲会議に参加できなかった一益は本能寺の変後の主導権争いでは大きく出遅れることになりました。
柴田勝家に味方して秀吉と対立
清洲会議後、織田家中では羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まっていきます。一益は勝家や信長の三男・織田信孝側につき、秀吉と敵対しました。
天正11年(1583年)1月、柴田勝家方についた一益は伊勢で挙兵し、亀山城や峯城などの周囲の城を攻略して長島城に籠城し、秀吉軍をひきつけます。秀吉は大軍で北伊勢に侵攻して城を次々と下し、一益は次第に追い詰められていきます。
そうしているうちに柴田勝家が同年4月の「賤ヶ岳の戦い」で敗れて自害。勝家が支持していた織田信孝も後に切腹しています。後ろ盾を失った一益も籠城の末降伏し、戦いは秀吉方の勝利となりました。一益は所領をすべて没収され、出家して丹羽長秀のもと、越前大野に蟄居します。なお、伊勢は織田信雄が領有しました。
小牧・長久手の戦いでまさかの復活
これで一益の武将人生は終わりと思いきや、天正12年(1584年)3月、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が対立し「小牧・長久手の戦い」が起こります。
前年まで秀吉と敵対していた一益でしたが、この戦いでは秀吉方として参戦しました。実は蟄居しながらも一益は秀吉と茶会を行い、秀吉の東国外交に協力するなど、秀吉方の武将として活躍していたのです。
一益は嫡男の滝川一忠とともに、蟹江城(愛知県蟹江町)を巡る戦いで活躍します。蟹江城は伊勢湾に近い水上交通の要衝でした。一益は九鬼嘉隆の水軍とともに海上から蟹江城を急襲します。当時、城主の佐久間正勝は留守にしており、一益は留守を預かっていた前田氏を調略したのです。
しかし、織田信雄と徳川家康連合軍はただちに反撃。激しい戦いの末、2週間に及ぶ籠城戦の結果、一益は城を明け渡して撤退しました(蟹江城合戦)。
晩年の滝川一益
蟹江城合戦後、秀吉は一益に激怒して逼塞を命じ、一忠については追放します。しかし、一益の次男・一時については、小牧・長久手の戦いに参戦する際に1万5000石を与えると約束していたこと、蟹江城合戦にはかかわらず別行動していたことから、秀吉から約束通り褒美を与えられます。その際、越前国内の3000石は隠居料として一益に与えられました。
その後、一益は表舞台から姿を消します。天正14年(1586年)9月9日、一益は亡くなりました。享年62歳とされています。最期の地は越前大野(福井県大野市)とされていますが諸説があります。
本能寺の変を契機に立場が大きく変わった一益。本能寺の変がなければ、一益は信長の東国支配を担う重臣として、さらに大きな役割を果たしていたかもしれません。一益の生涯は、本能寺の変が戦国武将たちの運命をいかに大きく変えたのかを物語っているといえるでしょう。
滝川一益の年表
| 西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 1525年 | 大永5年 | 0歳 | 近江国に生まれるとされる |
| 1567年 | 永禄10年 | 42歳 | 織田信長の北伊勢攻略で中心的な役割を担う |
| 1574年 | 天正2年 | 49歳 | 長島一向一揆の平定後、伊勢長島城主となる |
| 1582年 | 天正10年 | 57歳 | 甲州征伐で先鋒を務め、武田氏滅亡後に上野国などを与えられ厩橋城主となる |
| 1582年 | 天正10年 | 57歳 | 本能寺の変後、神流川の戦いで北条氏直に敗れ、上野から伊勢へ退く |
| 1583年 | 天正11年 | 58歳 | 柴田勝家・織田信孝と結んで羽柴秀吉に対抗するが、敗れて降伏する |
| 1584年 | 天正12年 | 59歳 | 小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉方として参戦するが敗れ、その後出家する |
| 1586年 | 天正14年 | 61歳 | 越前国大野で死去 |
- 【参考文献など】
- 「織田家臣団の系図」菊地浩之/著(KADOKAWA)
- 「戦国武将列伝 別巻1 織田編」柴裕之/編(戎光祥出版)
- 「信長と消えた家臣たち-失脚・粛清・謀反」谷口克広/著(中央公論新社)
- 「信長軍の司令官-部将たちの出世競争」谷口克広/著(中央公論新社)
- 「敗者の日本史 10 小田原合戦と北条氏」黒田基樹(吉川弘文館)
- 蟹江城址(愛知県蟹江町)
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。