細川幽斎(細川藤孝)古今伝授を後世につないだ文武両道の武将
細川幽斎(細川藤孝)
- 細川幽斎とは
- 細川幽斎とは、室町幕府から織田・豊臣・徳川の時代を生き抜き、近世細川家の礎を築いた武将・文化人である。
- 足利義輝に仕えた後、その弟・足利義昭の将軍就任に奔走し、織田信長との交渉にも重要な役割を果たした。
- 義昭と信長が対立すると義昭と決別して信長に仕え、丹波・丹後攻略などで明智光秀とともに戦った。
- 本能寺の変では、盟友かつ親族だった明智光秀から協力を求められたがこれを拒み、剃髪して「幽斎玄旨」と号した。
- 和歌、連歌、茶道、能楽、書道、蹴鞠、武芸など幅広い分野に通じ、戦国時代を代表する文武両道の文化人として知られた。
- 特に『古今和歌集』の解釈を秘伝として伝える「古今伝授」の継承者となり、その伝統を後世へ伝える重要な役割を担った。
- 関ヶ原の戦いでは徳川家康方につき、田辺城で約1万5000の西軍を相手に約500人で籠城し、長期間その軍勢を引きつけた。
- 田辺城の戦いでは古今伝授の断絶を危惧した朝廷が開城を仲介するほど文化的価値を認められ、戦乱のなかで武家と公家の文化をつないだ人物となった。
戦国時代きっての文化人として知られる細川幽斎(藤孝)。室町幕府に仕え、足利義昭を第15代将軍に擁立するために奔走し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と天下人が移り変わるなかを生き抜いて近世細川家の礎を築きました。歌人としても一流で、「古今伝授」の継承者だった幽斎を救うため、関ヶ原の戦いの直前に起きた「田辺城の戦い」では朝廷が敵味方の間を仲介しています。今回は細川幽斎について詳しく解説します。
細川幽斎とは
細川幽斎の出自については諸説ありますが、天文3年(1534年)、室町幕府に仕えた三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。母は儒学者や歌人を輩出した清原家の出身でした。ただし、江戸時代に編さんされた系図などには、室町幕府第12代将軍・足利義晴の子とする説もあります。
その後、通説では和泉上半国守護を務めた細川元常の養子になったとされてきました。しかし、近年では足利義晴の内談衆を務めた伊豆守の細川隆久の息子・晴広の養子になったとの説が有力視されています。
幽斎は天文15年(1546年)に第13代将軍・足利義藤(のちの足利義輝)から「藤」の一字を与えられ、藤孝と名乗ったとされます。なお、本稿では「幽斎」で統一します。
将軍・足利義輝に仕え、文化を学ぶ
幽斎は足利義輝に御供衆として仕えます。この時代、室町幕府の権威は大きく揺らいでいました。京都では三好長慶や松永久秀らが力を伸ばし、将軍はたびたび京都を追われています。
天文22年(1553年)、幽斎を含む義輝一行は三好長慶に追われる形で近江朽木谷に亡命。同地で5年を過ごしますが、その際幽斎はともに亡命した官僚の細川晴元、前関白の近衛稙家や大覚寺准后義俊、聖護院准后道増など一流の文化人から和歌や連歌をはじめ、さまざまなことを学びました。後に文武両道の才人として知られる幽斎は、こうした環境から生まれたのです。
義輝一行は永禄元年(1558年)11月に京都に戻ります。その後、義輝と敵対していた三好長慶が病死すると、三好氏は衰退していき、義輝の権威は高まります。
義輝は政治を主導し幕府の立て直しを図りましたが、永禄8年(1565年)5月19日、三好義継や三好三人衆、松永久通らの軍勢に御所を襲撃され、殺害されました(永禄の変)。
足利義昭の擁立に奔走
義輝の死後、弟の覚慶(後の足利義昭)は奈良の興福寺一乗院に幽閉されました。幽斎は、兄の三淵藤英や、一色藤長・米田求政など義輝の旧臣とともに覚慶の脱出のために動きます。奈良を脱出した覚慶は還俗して足利義秋と名乗り、若狭などを経て越前の朝倉義景を頼りました。
このころ将軍の跡目争いが発生しており、義秋と従兄弟の足利義栄が争っていました。結局、朝廷への根回しや献金により、足利義栄が第14代将軍につきますが、後ろ盾となっていた三好三人衆や松永久秀の間で不和が生じたことなどから上洛はできませんでした。
上洛は朝廷から示された将軍位に就く条件でした。このため義秋は上洛をめざします。ところが朝倉義景は上洛に消極的でなかなか動きませんでした。
このため、幽斎らは尾張・美濃を支配して勢力を急速に拡大していた織田信長に接近します。幽斎は使者として信長のもとを訪れて交渉。一度は決裂しますが、幽斎は明智光秀などの助力により再び信長方に接近します。
永禄11年(1568年)4月、義秋が元服して「義昭」と改名。7月末には信長と対面し、上洛の準備を進めます。上洛戦を経て信長は9月26日に入京。反対勢力を下し、足利義昭は10月18日、無事に将軍宣下を受けました。ちなみに14代将軍の義栄は味方が信長に追われる中、9月または10月に病死しています(没した月日は諸説あり)。
幽斎はついに足利義昭を将軍にすることに成功します。幽斎は山城国勝龍寺城を与えられ、洛西西岡を得ます。
義昭と決別し、織田信長に仕える
将軍即位当初は協力していた義昭と信長でしたが、やがて政治の主導権をめぐって対立を深めます。義昭はいわゆる「信長包囲網」を張り巡らします。一方で信長は十七ヶ条の意見書を出して義昭を諫めました。幽斎は2人の間を取り持とうとしますが失敗しました。
元亀4年(1573年)2月、義昭は信長に対して挙兵しますが敗北。7月に京都から追放されました。一般に、この出来事をもって室町幕府は滅亡したとされています。
幽斎にとって、義昭は苦難をともにし、将軍就任を実現させた主君でした。しかし幽斎は義昭に従わず、信長の配下となる道を選びます。理由ははっきりとはわかっておらず、同じ御奉公衆との対立、将軍・義昭への失望、自らの領地を守るため、などと諸説あります。
幽斎が幕府の旧臣でありながら信長から信頼されたことは、令和4年(2022年)に見つかった、元亀3年(1572年)の8月15日付の信長が幽斎に宛てた書状からもうかがえます。
書状からは、元亀3年(1572年)初めの時点で、信長と義昭の御奉公衆との対立が激化していたことが分かります。さらに、信長が幽斎に対し、山城・摂津・河内方面の領主たちを味方に引き入れるよう依頼したこと、「あなたの働きこそが重要」と幽斎を重視していたことが読み取れます。
また、信長は幽斎に桂川より西の領地を安堵する朱印状を与えており、これに伴い幽斎は「長岡」と改姓しています。
幽斎は明智光秀と親交が深かったことでも知られています。天正6年(1578年)には、信長の取り持ちにより、嫡男の細川忠興と明智光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚しています。
さらに両者は本願寺との決戦を見据えた信長の命を受け、丹波・丹後方面を攻略します。その際、幽斎は光秀の指揮下で戦いました。
幽斎は信長の命で紀州攻略や松永久秀の反乱などに対応しつつ、丹波・丹後両国の攻略を進めます。天正7年(1579年)10月には攻略を終了。天正8年(1580年)、信長はいったん光秀に丹波・丹後両国を与えましたが、同年末、丹後南半国を幽斎に分与しました。
幽斎は丹後の八幡山城(京都府宮津市)に入りますが、後に信長の許可を経たうえで、宮津(京都府宮津市鶴賀)に宮津城を築いて拠点としました。幽斎は宮津城で何度も茶会や連歌会を開催しており、城は一流文化人のサロンのような場所にもなっていました。
ただし丹後南半国の支配は楽なものではなく、在地勢力の反乱が発生。北半国は旧守護の一色氏の領有が認められている状態でした。
さらに、もともと丹後は光秀に与えられていたものであったためか、光秀が所領を押領するなど干渉されていたようです。
本能寺の変で明智光秀の誘いを拒む
丹後入国からわずか2年後、幽斎は光秀から、人生を左右する選択を迫られます。
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が本能寺に宿泊していた織田信長を襲撃し、自害に追い込みました。本能寺の変です。光秀は畿内の諸将に味方するよう働きかけ、親戚関係にある幽斎・忠興父子にも協力を求めました。
光秀にとって長年の盟友であり親族でもある幽斎・忠興父子は真っ先に味方してくれると期待する存在でした。ところが、2人は本能寺の変の当日には情報を得ており、光秀の誘いの前に信長の死を悼んで剃髪します。幽斎は「幽斎玄旨」と号し、田辺城(現京都府舞鶴市西舞鶴)に隠居し、忠興に家督を譲りました。
なお、息子の忠興も剃髪し、光秀の娘である妻の玉を味土野(京都府京丹後市)に幽閉しています。
光秀は幽斎に対し「摂津国を与えようと上洛を待っていた。希望するなら但馬国、若狭国を与えても差し支えない」と味方に付くよう呼びかけますが、幽斎たちが味方することはありませんでした。
なぜ幽斎が光秀に味方しなかったのか、本人の真意は明らかではありません。信長への恩義に加え、光秀の謀反が諸勢力の支持を得られないと見抜いたとも、丹後支配における光秀の干渉をよく思っていなかったとも言われています。
頼りにしていた細川父子の不参加は光秀にとって大きな痛手となり、光秀は6月13日の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れました。
羽柴秀吉に仕えた幽斎・忠興父子
本能寺の変の後、幽斎・忠興父子は羽柴秀吉に従いました。秀吉は親子が光秀につかなかったことを高く評価し、7月11日付でその行動を「比類なき御覚悟」と称賛。今後とも信頼し、裏表のない態度で接するという内容の起請文を出しています。
加えて、秀吉は細川氏の丹後国支配を認めるとともに、光秀の遺領分を新しい領地として認め、忠興と部下の松井康之に与えました。
以後、丹後国の領国経営は忠興が担い、幽斎は隠居の立場ながら秀吉に仕えていくことになります。
和歌から武芸まで、文武両道の文化人
このころの幽斎は、武将としてだけでなく、和歌や古典に通じた文化人として重んじられました。和歌、連歌、茶道、能楽、太鼓、蹴鞠、書道、料理、有職故実など幅広い分野に詳しく、秀吉や公家、諸大名の文化的な交流を支えています。
もともと幽斎は剣術は塚原卜伝に学んだほか、弓術や弓馬故実(武田流)を武田信豊から相伝されるなど武芸にも造詣が深い人物。文武両道の才人として知られていましたが、この頃和歌の会、茶会、能の興行などさまざまな文化的活動を実施しています。このころの幽斎は隠居したこともあり、秀吉に重用されつつも表だっての政治活動はあまりしていません。
関ヶ原の戦いで徳川家康方につく
幽斎は徳川家康と交流を深めていきます。文禄4年(1595年)7月の豊臣秀次の失脚・切腹事件の際は、息子の忠興が秀次から金100枚を受け取ったことから連座させられそうになりますが、金を返上することで難を逃れました。この返済金を徳川家康が用立てたと伝わっています(諸説あり)。
それを機に幽斎と家康は接近していった、という説もありますが、当時の日記などによれば、すでに文禄2年(1593年)ころから交流は頻繁にあり、囲碁や将棋などで遊んでいたようです。
慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が亡くなると、徳川家康と石田三成らの対立が激しくなっていきます。細川家は家康方につくこととし、慶長5年(1600年)には忠興の三男・光千代(後の細川忠利)を人質として江戸に送ることにしました。
これに対し、家康は忠興に豊後速水郡・由布院計6万石を加増しました。後にこれが西軍の怒りを買ったともいわれています。
田辺城の戦い、「古今伝授」が朝廷を動かす
慶長5年(1600年)6月、忠興は家康に従って会津征伐に出陣します。このため幽斎は丹後の宮津城で留守を守ることとなりました。
ところが、家康の不在を見た石田三成が挙兵し、大坂にいた忠興の妻・玉は人質になることを恐れ、家老の介錯を受けて壮絶な最期を遂げます。
玉の死を知った幽斎は宮津城などを焼き、田辺城に兵力を集中させて籠城します。田辺城に籠城した細川方は約500人。一方、城を包囲した西軍は小野木重勝ら約1万5000人と伝わります。
圧倒的に不利な状況のなか、幽斎は約2か月にわたって抵抗しました。攻め手のなかには幽斎から和歌を学んだ者もおり、積極的な攻撃をためらったという逸話もあります。
そのタイミングで、朝廷から助けの手が差し伸べられました。実は幽斎は信長の家臣時代、三条西家に代々伝わる古今伝授(「古今和歌集」の解釈などを秘伝として口伝で伝えたもの)の継承者でした。本来であれば三条西家内で引き継ぐべきですが、当時の継承者・三条西実枝の息子の公国がまだ幼かったことから、後に公国に伝え還すことを前提に、幽斎が伝授されていたのです。
幽斎が討死すれば、彼が継承する古今伝授が失われかねません。しかも、幽斎は慶長5年(1600年)3月から、後陽成天皇の兄弟にあたる八条宮智仁親王に対して古今伝授の継承を始めていました。継承には約1年必要ですが、伝授はまだ完了していませんでした。
このため、古今伝授が失われることを惜しんだ朝廷は、7月27日に使者を田辺城へ送り、幽斎に開城するよう勧めますが、幽斎はこれを拒否。7月29日に古今伝授の箱と相伝証明状を親王宛に、『二十一代集』などを天皇に献上するなどしています。その際に詠んだ歌が「古へ(いにしへ)も今もかはらぬ世の中に 心のたねをのこすことの葉」です。
結局幽斎は9月12日に田辺城を開城。その3日後の9月15日、関ヶ原の戦いで東軍が勝利しました。
田辺城が西軍の大軍を丹後に引きつけたため、その兵は関ヶ原本戦に参加できませんでした。この働きも細川家の功績とみなされ、戦後、忠興は丹後から豊前国、豊後国の国東郡・速水郡の一部を拝領し、39万石と大幅に加増・移封されます。のちに細川家は小倉藩主を経て、肥後熊本藩54万石を治める大大名へと発展しました。
京都で迎えた最期
関ヶ原の戦い後、幽斎は京都に住み、時に中津や小倉を訪れつつ、歌学や古典研究を続けました。晩年は病がちで、次第に病が重くなり、慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の邸宅で死去しました。享年77でした。
幽斎は室町幕府の衰退から織田・羽柴政権、そして江戸幕府の成立までを生き抜きました。その生涯では、義昭と信長の対立、本能寺の変、関ヶ原の戦いと、主家や一族の存亡にかかわる決断を何度も迫られ、そのたびに巧みに情勢を見極めて細川家を存続させてきました。
一方で、武将でありながらも一流の文化人として世に名を馳せ、戦乱のなかでも和歌や古典の伝統を受け継いで多くの弟子たちに伝えました。古今伝授はのちに「御所伝授」と呼ばれるようになり史料として残され、現在まで伝わっているのです。
細川幽斎の年表
| 西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 1534年 | 天文3年 | 0歳 | 京都に生まれる(名は細川藤孝) |
| 1568年 | 永禄11年 | 34歳 | 足利義昭を奉じて織田信長とともに上洛する |
| 1573年 | 天正元年 | 39歳 | 足利義昭と織田信長が対立すると信長に従う |
| 1580年 | 天正8年 | 46歳 | 明智光秀とともに丹後を平定し、丹後国を与えられる |
| 1582年 | 天正10年 | 48歳 | 本能寺の変後、明智光秀からの協力要請を断り、剃髪して幽斎と号する |
| 1580年代 | 天正年間 | 50歳前後 | 田辺城を築き、隠居後の居城とする |
| 1600年 | 慶長5年 | 66歳 | 関ヶ原の戦いの前哨戦で田辺城に籠城し、西軍約1万5千の兵を相手に抗戦する |
| 1600年 | 慶長5年 | 66歳 | 古今伝授の継承者であったことから朝廷の仲介を受け、約2か月の籠城の末に田辺城を開城する |
| 1610年 | 慶長15年 | 76歳 | 京都で死去 |
- 【参考文献など】
- 「細川幽斎-戦塵の中の学芸」森正人・鈴木元/編(笠間書院)
- 「細川三代-幽斎・三斎・忠利」春名徹/著(藤原書店)
- 「細川三斎 茶人叢書 「天下一みぢかき人」の実像」福原透/著(宮帯出版社)
- 「明智光秀-織田政権の司令塔」福島克彦/著(中央公論新社)
- 熊本大学「室町幕府滅亡約1年前の織田信長書状を発見」
- 宮津市「細川幽斎と明智光秀が築城!幻の海城『宮津城』」
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。