中川秀成豊後岡藩の礎を築いた初代藩主

中川秀成

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人物記
名前
中川秀成(1570年〜1612年)
出生地
大阪府
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岡城

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中川秀成とは
  • 中川秀成とは、豊臣秀吉から豊後国岡を与えられ、岡城と城下町を整備して豊後岡藩の基礎を築いた初代藩主である。
  • 中川清秀の次男として生まれ、父が賤ヶ岳の戦いで戦死し、兄の中川秀政も朝鮮出兵中に亡くなったことで中川家の家督を継いだ。
  • 兄の死をめぐって中川家が存続の危機に陥るなか、父・清秀の功績を評価した豊臣秀吉によって家督相続を認められた。
  • 文禄3年(1594年)に豊後国岡へ移り、岡城を総石垣の城郭へ大改修するとともに、碁盤目状の京風の城下町づくりを進めた。
  • 入部時には大友氏旧臣による抵抗を受けて赤岩谷事件が起こったが、その後は旧志賀氏の家臣を登用するなど融和策を取りながら領国支配を整えた。
  • 関ヶ原の戦いでは家臣の出奔によって西軍への加担を疑われたが、西軍方の太田一吉を攻めて徳川家康の信頼を得た。
  • 慶長6年(1601年)に徳川家から豊後国の所領を安堵され、岡藩の初代藩主として鉱山開発や道路整備などにも取り組んだ。
  • 慶長17年(1612年)に43歳で死去し、その後も中川氏は転封されることなく13代にわたって岡藩を治めた。

豊後国岡藩(現大分県竹田市周辺)の初代藩主となった中川秀成。父の中川清秀は賤ヶ岳の戦いで戦死し、家督を継いだ兄・秀政も朝鮮出兵中に亡くなるなど、中川家はたびたび存亡の危機に直面しました。そんななかで家督を継いだ秀成は、豊臣秀吉から岡を与えられ、岡城を大改修するとともに城下町を整備。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して所領を守り抜き、江戸時代まで続く岡藩の基礎を築きました。今回は中川秀成の生涯について詳しく解説します。

中川秀成とは

中川秀成は元亀元年(1570年)、中川清秀の次男として生まれました。

中川氏についてははっきりとは分かっておらず、もとは摂津国島下郡中河原(大阪府茨木市)の土豪だったとも、大江山酒呑童子のエピソードで知られる源頼光を祖とする多田源氏がルーツだったとも言われています。南北朝時代に南朝方に付いた源清深が摂津国豊嶋郡中川村に居住し、苗字を中川に変えたのが始まりとの説もあるようです。

父・中川清秀は賤ヶ岳の戦いで戦死

中川秀成の父・中川清秀は摂津国の国人だった池田勝正に仕えたのち、織田信長の上洛を受け信長に仕えるようになりました。信長に摂津一国を認められ、荒木村重の配下として茨木城の城主となりました。

清秀は天正6年(1578年)に村重が信長に反旗を翻した「有岡城の戦い」の際、当初は村重側につきました。しかし織田軍に茨木城を包囲されて降伏し、織田方へと転じて有岡城を攻めます。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、清秀は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に味方しました。山崎の戦いでは、キリシタン大名として知られる高山右近らとともに先鋒を務めて大活躍しました。

令和8年(2026年)には新たに確認された秀吉の書状などの分析から、山崎の戦いに秀吉本隊は間に合わず、高山右近や中川清秀、池田恒興ら摂津衆が明智軍と戦ったとする新説が発表されました。この学説の通りであれば、清秀は秀吉にかなりの恩を売ったと言えるでしょう。

翌天正11年(1583年)、清秀は秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」に出陣。大岩山砦を守っていましたが、柴田方の佐久間盛政の急襲により、奮闘の末命を落とします。享年42歳。

なお、NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、清秀は羽柴方から柴田方に寝返っていますが、史実ではありません。ドラマの放送後、大分県竹田市と大阪府茨木市がNHKに連名で文書を送り遺憾の念を表明しており、清秀が多くの人に愛される武将だったことが分かります。

兄・中川秀政が家督を継ぐ

中川清秀の死後、中川家の家督は嫡男で秀成の兄にあたる中川秀政が継ぎ、遺領として摂津茨木5万石を得ました。秀政は豊臣秀吉のもとで各地を転戦しました。

秀政は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、翌天正13年(1585年)には四国攻めに参加し、阿波国木津城の戦いで武功を立て、同年閏8月の国替えの際、播磨国三木13万石に加増移封され、本拠地を三木城へと移しました。

その後も天正15年(1587年)の九州平定、天正18年(1590年)の小田原攻めなど、秀吉による天下統一の戦いに参加しています。

秀政はこうして豊臣政権下の大名として活躍しましたが、その生涯は突然終わりを迎えました。秀政は秀吉が朝鮮半島へ大軍を派遣した文禄の役で、天正20年(1592年)に朝鮮へ渡海。第二軍・八番隊として出陣し、陽智(韓国京畿道龍仁市陽智面)を守備します。

戦が膠着状態に陥る中、秀政は10月24日、家臣の制止を振りきって敵地で鷹狩りを始めます。暇つぶしだったのか食糧調達のための行為だったのか、理由ははっきりしませんが、これが秀政の命運を分けました。駐屯地近くの水源で伏兵に襲われ、毒矢を受けて横死したのです。享年25歳でした。

兄の死で存亡の危機も、秀成が家督を相続

中川家は秀政の死を「見回り中に敵の待ち伏せに遭い、討死した」と報告します。ところが、実際は鷹狩り中の失態によるものでした。このため真実を知った秀吉の逆鱗に触れることとなります。

本来であれば家督相続など許されないところで、中川家そのものが存続の危機に陥りかねない出来事でした。しかし秀吉は父・中川清秀の功績を認め、秀政の弟である秀成の家督相続と中川家の存続を認めます。ただし、罰として所領の半減と移封を命じました。

このとき、移封先として提案されたのが伊予の宇和島、淡路の洲本、豊後の岡の3ヶ所でした。

秀成が選んだ新天地・豊後国岡

秀成は各地について調査・検討し、岡を移封先に選びました。選んだ理由としては、太閤検地で豊後国を検地中だった知人の山口玄蕃の助言によると言われています。

天明2年(1782年)から編纂された『中川史料集』によれば、秀吉は「伊予なら10万石、豊後なら7万石を与える」と提案。これに対し山口玄蕃は「伊予は10万石の価値しかないが、豊後の7万石は15万石の価値がある」と説明しました。また、岡に尾平や木浦といった鉱山資源があったことも岡を選択した理由だったようです。

ところが、この決定に家臣たちは猛反発します。京や大坂に近い播磨国三木に比べ、豊後は中央から離れた辺境と考え、脱藩まで検討した者もいたそうです。中でも妻や娘からの反対はひどかったといい、このため秀成は家臣たちに「岡に京風の町を作って、畿内の商家も移す」と約束して説得しました。

また、父がキリシタンで、キリスト教の風土に慣れていたことが、豊後を選んだ一因だったという説もあります。当時の豊後国では、長年にわたって大友氏が大きな勢力を誇っていました。特にキリシタン大名の大友宗麟の時代には、布教を認められたことでキリシタンが増加。ところが息子の大友義統は文禄2年(1593年)の文禄の役の際、消極的だったこと、敵前逃亡のような退却の仕方をしたことを非難され、秀吉から所領の豊後を没収されていました。これに伴い、豊後国は細分化され、大規模な領主の入れ替えが行われていたのです。

秀成は秀吉から豊後国の直入郡2万9038石、大野郡内3万6962石、計6万6000石(※諸説あり)を与えられ、文禄3年(1594年)1月25日、播磨国三木を出発しました。播州坂腰(兵庫県赤穂市)から総勢約4000人とともに50隻の大船で豊後国岡へと移ったのです。

岡城入城を阻んだ「赤岩谷事件」

文禄3年(1594年)2月8日、秀成ら一行は豊後速見郡小浦(大分県日出町豊岡)に到着します。そして岡を目指して移動を開始するのですが、その道のりはけっして平穏なものではありませんでした。

当時の豊後国は、長年にわたって支配してきた大友氏が改易された直後でした。領内には大友氏に仕えていた武士たちが数多く残っており、新たな領主の入部を簡単には受け入れられない者もいました。

2月14日、岡領に差しかかった秀成でしたが、赤岩谷(大分県竹田市)で大友氏の旧臣ら300〜400人が集まり、逆茂木を設けて一行の進路を妨害します。その一部は敵対の様子を見せたため、秀成側は岡城は秀吉から拝領した領地であり、入部を妨げるのであれば「踏み潰して首切りかけて通る」と通告しました。一方、大友氏旧臣側は中川氏に敵対するつもりはないものの、正式な命令がないため通すことはできないと主張したと伝わっています。

その後、豊後の代官から領地を中川氏へ引き渡すよう命令が出たことで、大友氏旧臣の多くは退去しました。しかし、一部の者は山中に残って抵抗を続けたため、中川勢との戦闘に発展します。中川勢は84人を討ち取ってさらし首にし、17人を生け捕って磔にしました。この出来事は「赤岩谷事件」と呼ばれており、大友氏旧勢力との融和の難しさを示す一例とされています。

岡城を大改修し「京風」の城下町を整備

秀成は岡城に入ると、城の大規模な改修や城下町の整備に乗り出します。岡城は現在の大分県竹田市にある山城で、阿蘇火山の火砕流によって形成された台地の上に築かれています。中川氏が入る以前は、大友氏の重臣・志賀氏が支配していました。

秀成は総石垣の城郭へと大改築を実施。改修は文禄3年(1594年)から慶長元年(1596年)にかけて行われ、縄張りを変更し、本丸や二の丸、三の丸御殿、大手門などが作られ、石垣も整備されました。石垣は穴太衆を大坂から呼び寄せて築かせたと伝わっています。

また、城下町については家臣たちや女性陣と約束した「京風の町」をめざし、東西東西・南北に道路を通し、碁盤目状の町割りを整えました。

さらに、三木から豊後に移住した商人や職人たちにより、商業・職人区域も発展していきました。なお、城下町の整備は最終的には約1世紀後の元禄年間までかかったとされています。

また、秀成はキリスト教の布教に比較的寛容でした。すでに豊臣秀吉が天正15年(1587年)に「伴天連追放令」を出していましたが、慶長9年(1604年)にはイエズス会が岡領内に聖堂を建て、宣教師が布教することを黙認しています。なお、秀成については洗礼の記録が残っていないことから、キリシタンだったかどうかははっきりしていません。

こうして形成された竹田の城下町は、江戸時代を通じて奥豊後の政治・経済・文化の中心として発展しました。

父の仇・佐久間盛政の娘「虎姫」を妻に

秀成の生涯を語るうえで欠かせない人物が、正室の虎姫です。虎姫は、賤ヶ岳の戦いで秀成の父・清秀を討った佐久間盛政の娘でした。賤ヶ岳の戦いで盛政は秀吉に敗れ捕らえられます。秀吉は盛政を高く評価しており、味方にしようとしましたが、盛政はこれを拒否。結局処刑されますが、娘の虎姫は秀吉の勧めで新庄直頼の養女となったうえで秀成と結婚しています。

一方で、虎姫は父・盛政が中川家にとって仇敵だったことなどから家中に配慮したようで、秀成の領国である豊後へは下向せず京都や大坂で暮らしたと伝わっています。とはいえ夫婦仲はよく、2人の間には嫡子の久盛(2代藩主)をはじめ7人の子が生まれました。

関ヶ原の戦いで家康から疑われる

慶長3年(1598年)8月18日、慶長の役で秀成が朝鮮にいるなか、豊臣秀吉が亡くなります。秀吉の死後、豊臣政権内部では徳川家康と石田三成らの対立が深まり、慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いへと発展しました。

豊後国でも東軍と西軍の争いが起こります。大友氏の旧当主・大友義統は西軍に加わり、旧領の豊後国を取り戻そうとしました。義統は豊後へ上陸し、東軍側の黒田官兵衛らと対立します。

同年9月には石垣原の戦いが起こり、大友軍と黒田軍が激突。戦いは黒田方の勝利に終わり、大友義統は降伏しました。この戦いの際、秀成の家臣でありながら大友勢につくために出奔したのが、田原親賢と宗像鎮続でした。

二人は出奔の際に中川家の旗印を盗み、大友軍でこれを掲げ、中川家が西軍についたかのように見せかけます。このため秀成は家康から疑われる羽目になります。

秀成は弁明の使者を送りましたが、家康は疑い続けます。このため秀成は疑いを晴らすため、豊後国臼杵城を本拠とする西軍方の太田一吉を攻めます。

両軍は10月3日に佐賀関で激突。2日間にわたる戦いで、中川軍は230名あまりの死者、200人余りの負傷者を出します。一方、太田軍は700名あまりの犠牲者を出しました。

結局、関ヶ原本戦での西軍の敗北を知った一吉は臼杵城を捨てて高野山に落ちのび、城は開城。この功績を家康は評価し、秀成に対する疑いは解かれました。

徳川家康から所領を安堵される

関ヶ原の戦い後、西軍についた大名の多くが改易や減封となり、全国規模で大名の配置が大きく変わります。そんななか、慶長6年(1601年)4月16日、秀成は徳川家から豊後国の所領を認められました。

これにより岡藩が成立し、秀成は初代藩主となりました。秀成は城と城下町を整えつつ、支配体制づくりを進めていきます。旧志賀氏の家臣たちを役職につける懐柔策で領国をうまく統治するとともに、鉱山の開発にも取り組みました。

さらに、岡城を中心に幹線道路を整備し、内陸部の交通の要衝とすることで、城下町は商業の集積地として発展していきます。

発展を続ける岡藩を見届けつつ、慶長17年(1612年)8月14日、秀成は亡くなりました。享年43歳。息子の中川久盛が2代藩主として跡を継ぎました。

その後も中川氏は転封されることなく岡藩を治め続け、幕末までに13代の藩主が続き、明治4年(1871年)の廃藩置県を迎えました。

秀成は派手な武功で知られる武将ではありませんが、豊臣政権から徳川政権へと移り変わる激動の時代を生き抜き、中川氏約280年の岡藩支配につながる礎を築いた人物だったのです。

中川秀成の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1570年 元亀元年 0歳 中川清秀の次男として生まれる
1583年 天正11年 13歳 父・中川清秀が賤ヶ岳の戦いで戦死する
1593年 文禄2年 23歳 兄・中川秀政が朝鮮出兵中に死去し、家督を継いで播磨三木城主となる
1594年 文禄3年 24歳 豊後国岡へ移封され岡城に入城。岡城の大規模な改修と城下町の建設を進める
1600年 慶長5年 30歳 関ヶ原の戦いでは徳川方に属し、戦後も豊後岡の所領を安堵される
1612年 慶長17年 42歳 死去
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執筆者 (日本の旅侍) 日本の旅侍は全国の城情報を中心に発信するWebメディア。旅侍は日本人による日本の情報を世界に発信することを目指して運営している媒体です。