岡山城岡山県岡山市

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岡山城DATA
別称 烏城、金烏城
築城 1346年
住所 岡山県岡山市北区丸の内2丁目3-1
電話番号 086-225-2096
開館時間 9:00〜17:30(入館は17:00まで)
休館日 12月29日から12月31日
登閣料 大人320円/小・中学生130円
岡山城への交通アクセス
JR岡山駅より路面電車「城下」下車、徒歩10分。

HISTORY 名のある戦国武将が城主になった岡山城

岡山城は、岡山県岡山市北区にあった平城です。関ヶ原の戦いで流罪となった宇喜多秀家で有名な宇喜多家が本拠地とし、江戸時代の初期は、やはり関ヶ原の戦いで西軍を裏切った小早川秀明が一時期領主を務めたこともありました。烏城(うじょう)金烏城(きんうじょう)という別名も持ちます。 そんな岡山城の歴史を紐解いていきましょう。

岡山城築城まで
岡山城の始まりは南北朝時代の正平年間に、上神高直という人物が石山台に城を築いたことだといわれています。 なお、上神高直が石山台に城を築いたという記述が江戸時代後期に編纂された「備前軍記」に記されていますが、それ以後、約150年間は岡山城に関する記録はありません。 ただ、当時城が築かれた付近には藤原氏の荘園の1つである鹿田荘の中心部があり、小規模ながら都市が築かれていたため、栄えていたと考えられています。 時代は下り、大永年間(1521年~1528年)になると土着の国人領主である金光氏が居城としていました。
岡山城の築城
元亀元年(1570年)、宇喜多直家が石山台の城の城主であった金光宗高を滅ぼして岡山の地を手に入れました。 宇喜多直家は、備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官でしたが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張し、やがて下剋上で戦国大名になりました。 天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城(沼城)から金光氏が居城にしていた石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行います。 当時の石山城は縄張が東西に走る連郭式でしたが、宇喜多直家は北方の山裾にあった西国街道、城の南に沿うように整備し直し、備前福岡や備前西大寺などから商人を呼び寄せて城下町も整えました。
豊臣政権下で五大老の一員になり、関ヶ原の戦いに負けて八丈島に流された武将、宇喜多秀家は、宇喜多直家の嫡子です。 宇喜多秀家は父直家の死後、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石という巨大な所領をもつ大大名になりました。 家督を継いだ後、秀家は天正18年 から 慶長2年(1590年 ~1597年)、8年の歳月をかけて大改修を行います。 このとき、秀家は現在、城の遺構がのこる「岡山」に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸内郭、二之丸を西の丸としました。そして内堀を挟んで二之丸、三之丸の郭を造ります。天守は金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型でした。 また、天守閣の壁に黒漆塗りの板を取り付けたことから、「烏城」の別名が付きます。 大改修を行った城は、全体的に西向きで東側の守りが極端に薄いという弱点ができました。 そのため、宇喜多秀家は旭川本流を城郭の北から東側に沿うように整備するという、大規模な河川変更工事まで行います。 これにより、旭川は岡山城の天然の堀となりましたが、不自然すぎる工事のためにやがて城下町には水害が頻発するようになり、後年放水路としての百間川が整備されました。
そして、直家時代に整えられた城下町へ領内の有力商人を勧誘し、さらなる経済活動の発展を促します。 この築城には、宇喜多秀家の妻の義理の父である豊臣秀吉の意向が大きく働いているという意見もあります。 この改修は、もはや築城といってもいいため、現在遺構がのこる岡山城の築城者は宇喜多秀家とも言われています。 なお、この城の築城をもってこの地を「岡山」、城の名は岡山城と定められました。
江戸時代の岡山城
慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで、宇喜多秀家は西軍に味方したため、八丈島に流罪となります。彼はこの地で関ヶ原の戦いに参加した武将としては最も長生きし、85歳で没しました。 改易となった宇喜多家に代わり、岡山城を与えられたのは、戦の最中に西軍を裏切って東軍についたことで有名な小早川秀明です。 彼は、城主になると本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町を拡大しました。 この拡張工事は農民はもちろんのこと、武士階級の人間まで動員して行われたのでわずか二十日で完成しました。そのため、この外堀は「二十日堀」と名付けられ、現在は岡山市のメインストリートとなっています。 小早川秀明は、その後も城の改修を続け、中の段南隅に沼城天守を移築させました。 これは、大納戸櫓と呼ばれるようになり、岡山城最大の櫓となります。 しかし、小早川秀明は城主になってわずか2年後の慶長7年(1602年)に急死し、嫡子がいなかったことから、小早川家は断絶となりました。 その後、この地は播磨岡山城主池田輝政の次男忠継に与えられましたが、彼はわずか5歳の幼児だったため、兄の池田利隆が「備前監国」として代政し、「石山」の西端の西之丸を整備します。
慶長18年(1613年)に池田忠継は岡山城に入りましたが、2年後に死去、その後を忠継の弟である池田忠雄が継ぎました。 池田忠雄は、本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿や表書院などを増築します。 また、重要文化財に指定されている月見櫓もこのときに建築されました。このほか、大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川も整備されます。 岡山の地は江戸時代を通して「池田家」によって治められており、歴代城主によって定期的に改築や増築が行われます。 今も岡山の名所として残る後楽園は、寛永9年、(1632年)に因幡鳥取から移封された池田光政の子供、池田綱政です。彼は、百間川の改修整備なども行いました。
明治以降の岡山城
明治時代になると岡山城は、兵部省管轄となり、明治6年に廃城令が発布されると堀は埋め立てられて建物もほとんどが取り壊され、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すだけになりました。 岡山城の城郭だった場所は岡山市街地が改めて整備されます。 昭和6年(1931年)には、旧法に基づいて天守閣が国宝に指定されましたが、昭和20年(1945年)の岡山空襲によって石山門ともに焼失してしまいました。 昭和25年(1950年)空襲を免れた月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定されます。 その後、昭和39年?昭和41年まで3年の月日をかけて、鉄筋コンクリートで天守や、不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部などが再建されました。 平成18年(2006年)には日本百名城の一つに選定されます。
現在の岡山城は岡山を代表する観光名所ですが、令和3年6月1日から大規模改修のため休館中です。リニューアルオープンは令和4年11月の予定となっています。 また、岡山後楽園は日本三大名園の一つとして、国内だけでなく海外からも多くの観光客が訪れています。

岡山城と関連する人物記を読む

池田忠継若くして逝った惜しまれる死
戦国時代から江戸時代にかけて、多くの有能な武将が現れ、消えていきました。その中でも、池田家は織田信長に仕えた池田恒興、豊臣秀吉と徳川家康に仕えた池田輝政と続いてきました。その後、今回紹介する池田忠継に
池田忠継
宇喜多直家戦国三大梟雄の1人
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宇喜多直家

岡山城を藩庁とする、岡山藩の歴史

岡山藩宇喜多秀家が基礎を作り池田氏が治める
岡山藩は、備前全体と備中の一部を領有した外様の大藩です。関ヶ原の戦いで西軍につき、のちに八丈島に流刑になった宇喜多秀家が整え、小早川秀明を経て姫路城を現在の形に整えた、池田輝政の次男、池田忠継をはじめ
岡山藩
岡山藩DATA
藩庁 岡山城
旧地域 備前国御野郡岡山
石高 31万5000石
譜代・外様 外様
主な藩主 宇喜多氏、小早川氏、池田氏
推定人口 35万人(明治元年)

関ヶ原の戦いで寝返った小早川秀秋に代わって徳川家康の孫・池田忠継が入封。光政の代に全国に先駆けて藩校・岡山学校を開校。その子、綱政も偕楽園を造営するなど藩政の確立に努めた。9代茂正は将軍慶喜の弟。

岡山城 金と黒のコントラストが美しい「金烏城」

岡山県岡山市にある岡山城は、五大老の一人・宇喜多直家とその息子の秀家が丘の上に築いた城です。岡山三名城の一つとしても知られており、黒い外観から「烏城(うじょう)」、金箔の瓦が使われたことから「金烏城(きんうじょう)」と呼ばれています。

岡山城
岡山城の歴史
岡山城は元亀元年(1570年)、宇喜多直家が部下の金光宗高を謀殺して石山の城を手に入れたのが始まりとされています。もともと岡山城の周辺には岡山・石山・天神山という3つの丘があり、直家はまず石山の城を改修して本拠地化しました。
岡山に本丸が移ったのは息子・宇喜多秀家の時代のこと。天正18年(1590年)に本丸を石山から岡山に移し、石山城を取り込む形で岡山城を築城するとともに、城下町の整備を進めました。天守が完成したのは慶長2年(1597年)。このころ近世城郭としての形が整ったとされています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は西軍方につきましたが敗戦し、八丈島に流されます。代わって岡山に入ったのが小早川秀秋で、備前・美作52万石の領主として岡山城に入城。その後、秀秋の急死により小早川家が断絶し、代わって池田輝政の息子の忠継が岡山城主に就任しました。
とはいえ忠継は5歳と幼少だったことから異母兄の利隆が国政を代行しました。忠継の跡を継いだのは弟の池田忠雄で、忠雄の時代に城の拡張整備を実施しています。その後、明治に至るまで池田家が岡山城を治めます。6代城主の池田綱政のときには、日本三名園として知られる「岡山後楽園」(当時は御後園)が造営されました。
明治維新後は兵部省の管轄に入った岡山城ですが、廃城令により徐々に取り壊されることに。残された天守も第二次世界大戦下の岡山大空襲で焼失しました。現在の天守は昭和41年(1966年)に鉄筋コンクリート製で建てた再建した外観復元天守です。
岡山城の見どころ①黒塗りの天守
岡山城といえば黒塗りの天守。豊臣秀吉の影響を大きく受けた天守には、発掘調査などから金箔瓦が使われていたことが分かっており、昭和41年(1966年)に再建された天守にも金箔瓦が使われています。金の鯱もありますよ。
また、天守は丘の地盤に合わせ、石垣や1階の平面が不等辺五角形担っているのが特徴。宇喜多秀家が築いたという、高さ14.9mの天守下の石垣にも注目です。
地下1階地上5階の天守の内部はミュージアムになっており、耐震化のため令和の大改修を実施し、令和4年(2022年)11月にリニューアルオープンしました。岡山市出身の歴史学者・磯田道史氏の監修のもと、「歴史を伝える城、集う城」をテーマに生まれ変わり、リアルな史料とバーチャルな展示を組み合わせて分かりやすく歴史を伝えています。
さらに江戸・戦国時代の衣装を着て写真撮影ができるスポットや、刀や鉄砲を手に取れる体験コーナー、岡山の果物をたくさん使ったお城パフェが食べられる「城カフェ」などがあり、歴史が苦手な人でも気軽に楽しめるような工夫がされています。このほか、天守の夜間貸切も可能です。
岡山城の見どころ1 岡山城の見どころ2 岡山城の見どころ3
岡山城の見どころ②月見櫓と西手櫓
岡山城にはもとは天守を含め34基の櫓がありましたが、現存するのは月見櫓と西手櫓のみ。ともに重要文化財に指定されています。
月見櫓は本丸の裏・北西方向を守る櫓で、4代藩主・池田忠雄の時代に整備されたといわれています。3階建ての櫓で一番下は土蔵です。城の外側からみると2階建てで石落としの出窓がある軍事施設ですが、城の内側から見ると最上階に高欄と廻縁がある優美な姿を見せてくれる、特徴的な櫓です。
西の丸にある西手櫓は旧内山下小学校に残された、月見櫓より古い池田利隆の代政時代のもの。慶長8年(1603年)頃に建てられたことから実践的な作りで、石落としに格子窓付きの出窓等が特徴です。後世の改築により、内部には座敷に床の間などがあります。
岡山城の見どころ4 岡山城の見どころ5 岡山城の見どころ6
岡山城の見どころ③石垣
岡山城には宇喜多家・小早川家・池田家時代の石垣がそれぞれ残っています。宇喜多時代は野面積みで、本丸の中の段には平成5年(1993年)の発掘で発見された石垣が露出展示されています。段南東の石垣も宇喜多時代のもので、関ヶ原以前の石垣としては全国屈指の高さを誇るもの。西寄りでは基底が3m近く埋まっているものの、本来は15.6mの高さなのだそうです。
小早川時代は打ち込みハギで、月見櫓の石垣に特徴がみられます。池田時代の石垣で有名なのが本丸入り口、大手口門跡付近にある巨石「鏡石」。城主の威厳を示すための巨石は最大で高さ4.1m、幅3.4mに及びます。このほか、二之丸の西側には近年発掘調査で発見され、令和5年(2023年)に公開された石垣もあり、ひそかな注目スポットです。
岡山城の見どころ7 岡山城の見どころ8 岡山城の見どころ9
岡山城の見どころ④後楽園
日本三大名園のひとつとして知られる後楽園は、天守のある烏城公園から旭川を挟んで北にあり、月見橋でつながっています。後楽園は6代藩主・池田綱政が作らせたもので、貞享4年(1687年)に着工、元禄13年(1700年)に一応の完成を見ています。
その後も藩主たちによりさまざまな手が加えられ、現在に至ります。14万4000平方メートルの広さの庭園には芝生に池、築山などがあり、全長約640mの川が園内を巡ります。中央に水路が通った「流店」は必須のスポットで休憩にもおすすめです。
後楽園では春や秋に夜間特別開園「幻想庭園」を開催。和傘をはじめとした和の飾りを効果的に配した美しいライトアップは人々を魅了しています。
岡山城の見どころ10 岡山城の見どころ11 岡山城の見どころ12
おすすめ撮影スポット
岡山城の天守の撮影は天守前広場からがおすすめ。どっしりとした外観が楽しめます。天守の6階からの金の鯱と旭川、後楽園を撮影するのも素敵ですよ。
また、天守はが不等辺五角形になっているため、角度が違うと異なった姿を見せてくれます。後楽園外苑内の荒手茶寮付近から見るとかなりしゅっとしたスマートな姿です。
岡山城の見どころ13 岡山城の見どころ14 岡山城の見どころ15
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。

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