HISTORY
名のある戦国武将が城主になった岡山城
岡山城は、岡山県岡山市北区にあった平城です。関ヶ原の戦いで流罪となった宇喜多秀家で有名な宇喜多家が本拠地とし、江戸時代の初期は、やはり関ヶ原の戦いで西軍を裏切った小早川秀明が一時期領主を務めたこともありました。烏城(うじょう)金烏城(きんうじょう)という別名も持ちます。
そんな岡山城の歴史を紐解いていきましょう。
- 岡山城築城まで
- 岡山城の始まりは南北朝時代の正平年間に、上神高直という人物が石山台に城を築いたことだといわれています。
なお、上神高直が石山台に城を築いたという記述が江戸時代後期に編纂された「備前軍記」に記されていますが、それ以後、約150年間は岡山城に関する記録はありません。
ただ、当時城が築かれた付近には藤原氏の荘園の1つである鹿田荘の中心部があり、小規模ながら都市が築かれていたため、栄えていたと考えられています。
時代は下り、大永年間(1521年~1528年)になると土着の国人領主である金光氏が居城としていました。
- 岡山城の築城
- 元亀元年(1570年)、宇喜多直家が石山台の城の城主であった金光宗高を滅ぼして岡山の地を手に入れました。
宇喜多直家は、備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官でしたが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張し、やがて下剋上で戦国大名になりました。
天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城(沼城)から金光氏が居城にしていた石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行います。
当時の石山城は縄張が東西に走る連郭式でしたが、宇喜多直家は北方の山裾にあった西国街道、城の南に沿うように整備し直し、備前福岡や備前西大寺などから商人を呼び寄せて城下町も整えました。
豊臣政権下で五大老の一員になり、関ヶ原の戦いに負けて八丈島に流された武将、宇喜多秀家は、宇喜多直家の嫡子です。
宇喜多秀家は父直家の死後、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承し、57万4,000石という巨大な所領をもつ大大名になりました。
家督を継いだ後、秀家は天正18年 から 慶長2年(1590年 ~1597年)、8年の歳月をかけて大改修を行います。
このとき、秀家は現在、城の遺構がのこる「岡山」に本丸を構え、石山城の本丸を二之丸内郭、二之丸を西の丸としました。そして内堀を挟んで二之丸、三之丸の郭を造ります。天守は金箔瓦を使用した壮麗な4重6階の望楼型でした。
また、天守閣の壁に黒漆塗りの板を取り付けたことから、「烏城」の別名が付きます。
大改修を行った城は、全体的に西向きで東側の守りが極端に薄いという弱点ができました。
そのため、宇喜多秀家は旭川本流を城郭の北から東側に沿うように整備するという、大規模な河川変更工事まで行います。
これにより、旭川は岡山城の天然の堀となりましたが、不自然すぎる工事のためにやがて城下町には水害が頻発するようになり、後年放水路としての百間川が整備されました。
そして、直家時代に整えられた城下町へ領内の有力商人を勧誘し、さらなる経済活動の発展を促します。
この築城には、宇喜多秀家の妻の義理の父である豊臣秀吉の意向が大きく働いているという意見もあります。
この改修は、もはや築城といってもいいため、現在遺構がのこる岡山城の築城者は宇喜多秀家とも言われています。
なお、この城の築城をもってこの地を「岡山」、城の名は岡山城と定められました。
- 江戸時代の岡山城
- 慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで、宇喜多秀家は西軍に味方したため、八丈島に流罪となります。彼はこの地で関ヶ原の戦いに参加した武将としては最も長生きし、85歳で没しました。
改易となった宇喜多家に代わり、岡山城を与えられたのは、戦の最中に西軍を裏切って東軍についたことで有名な小早川秀明です。
彼は、城主になると本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町を拡大しました。
この拡張工事は農民はもちろんのこと、武士階級の人間まで動員して行われたのでわずか二十日で完成しました。そのため、この外堀は「二十日堀」と名付けられ、現在は岡山市のメインストリートとなっています。
小早川秀明は、その後も城の改修を続け、中の段南隅に沼城天守を移築させました。
これは、大納戸櫓と呼ばれるようになり、岡山城最大の櫓となります。
しかし、小早川秀明は城主になってわずか2年後の慶長7年(1602年)に急死し、嫡子がいなかったことから、小早川家は断絶となりました。
その後、この地は播磨姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられましたが、彼はわずか5歳の幼児だったため、兄の池田利隆が「備前監国」として代政し、「石山」の西端の西之丸を整備します。
慶長18年(1613年)に池田忠継は岡山城に入りましたが、2年後に死去、その後を忠継の弟である池田忠雄が継ぎました。
池田忠雄は、本丸中の段を大幅に北側に拡張し、本段の御殿や表書院などを増築します。
また、重要文化財に指定されている月見櫓もこのときに建築されました。このほか、大手の南門を造り替え、城下の西端を限る用水路の西川も整備されます。
岡山の地は江戸時代を通して「池田家」によって治められており、歴代城主によって定期的に改築や増築が行われます。
今も岡山の名所として残る後楽園は、寛永9年、(1632年)に因幡鳥取から移封された池田光政の子供、池田綱政です。彼は、百間川の改修整備なども行いました。
- 明治以降の岡山城
- 明治時代になると岡山城は、兵部省管轄となり、明治6年に廃城令が発布されると堀は埋め立てられて建物もほとんどが取り壊され、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すだけになりました。
岡山城の城郭だった場所は岡山市街地が改めて整備されます。
昭和6年(1931年)には、旧法に基づいて天守閣が国宝に指定されましたが、昭和20年(1945年)の岡山空襲によって石山門ともに焼失してしまいました。
昭和25年(1950年)空襲を免れた月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定されます。
その後、昭和39年?昭和41年まで3年の月日をかけて、鉄筋コンクリートで天守や、不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部などが再建されました。
平成18年(2006年)には日本百名城の一つに選定されます。
現在の岡山城は岡山を代表する観光名所ですが、令和3年6月1日から大規模改修のため休館中です。リニューアルオープンは令和4年11月の予定となっています。
また、岡山後楽園は日本三大名園の一つとして、国内だけでなく海外からも多くの観光客が訪れています。
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