吉田松陰黒船密航に松下村塾、維新の原動力となった29年の生涯と最期の辞世の句
吉田松陰
幕末の思想家として知られる吉田松陰。わずか29年という短い生涯のなかで、松下村塾を通じて久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文など多くの志士を育て、明治維新の原動力を生み出しました。今回はそんな吉田松陰の生涯について、分かりやすく紹介します。
吉田松陰とはどんな人物か 生い立ちと兵学者としての歩み
吉田松陰は文政13年8月4日(1830年9月20日)、長州藩の城下町・萩の松本村(現山口県萩市)に下級藩士・杉百合之助の次男として生まれました。幼名は寅次郎です。天保5年(1834年)、幼くして山鹿流兵学師範を務めていた叔父の吉田大助の養子になりましたが、翌天保6年(1835年)に養父の大助が亡くなったため、わずか6歳で吉田家の家督を継ぎました。この際名前を「吉田大次郎」と改めています。なお、松陰は何度か改名をしていますが、ここでは「松陰」で統一します。
その後、松陰は叔父の玉木文之進から「立派な兵学師範になるために」と厳しい教育を受けます。松陰のエピソードとして知られているのが、勉強中に松陰の顔に蚊が止まったので手で追い払ったところ、文之進が拳骨を振り下ろした、というもの。「虫に刺されてかゆいというのは私事であり、学問は藩に仕えるための公的なもの。私事で気を散らしてはならない」という理由だったと伝えられています。
指導のかいあってか、松陰は秀才として評価されていきます。天保10年(1839年)、10歳で藩校明倫館に出仕し、天保11年(1840年)、11歳の時には長州藩主・毛利敬親の前で『武教全書』の講義を行って絶賛されました。その後、長沼流兵学や西洋陣法を学び、嘉永元年(1848年)に19歳で兵学師範として明倫館に正式に務め始めました。
日本各地を巡った松陰の遊学
松陰の生きた時代、日本は外国への対応に頭を悩ませていました。天保8年(1837年)には米国商船モリソン号を砲撃で追い払う事件が起き、日本は外国勢力への警戒を強めていました。さらに天保12年(1842年)、2年にわたるアヘン戦争の結果、清がイギリスに敗北したことは、日本に大きな衝撃を与えました。
松陰もこうした事件から外国勢力の脅威を強く意識するようになります。嘉永2年(1849年)には長州藩の求めを受けて意見書『水陸戦略』を提出。攘夷を訴え、外国の脅威に備えるべく海防に努める必要があること、海陸の戦法などを提言しました。
その後、松陰は知識を広げるため、日本各地を遊学します。嘉永3年(1850年)には平戸・長崎に兵学留学を実施。陽明学者で海防論者として知られる葉山左内に師事し、陽明学を学びます。さらに、松陰は左内からさまざまな書物を借りて読み、大きな影響を受けました。このとき清の魏源が著した『聖武記附録』などを読んだことで、西洋の軍事技術の重要性や国防強化の必要性に気づきます。
長崎を訪れた後は天草や島原、熊本を訪れ、肥後藩士で尊皇攘夷派の宮部鼎蔵と出会って親友となります。その後、佐賀などを経て年末に萩に戻りました。
江戸留学で佐久間象山に師事
嘉永4年(1851年)、松陰は藩命で江戸に遊学します。目的は山鹿流兵学の修行のためで、松陰は山鹿流宗家の山鹿素水に師事しました。また、このとき江戸に出てきた宮部鼎蔵と共に学んでいます。
しかし、松陰の興味は山鹿流よりも西洋砲術にありました。このため松陰は西洋兵法者として有名だった洋学者の佐久間象山、朱子学者の安積艮斎、洋学研究教育機関「蕃書調所」のトップを務めた古賀謹一郎に師事しました。松陰が最も心酔したのが佐久間象山で、西洋技術を取り入れる重要性を学んでいます。
その後、松陰は脱藩して宮部鼎蔵らと東北を遊学し、水戸や会津、津軽、盛岡、仙台などをめぐりました。実は松陰は長州藩に許可を得ようと働きかけていましたが、出発日に通行手形が間に合わなかったことから、友との約束を重視して藩の許可なく出発したのです。このため松陰は東北から戻ると藩に自首しています。藩は松陰の士籍剥奪・世禄没収を決定しました。甘い処分ですが、自首したことや宮部鼎蔵のとりなしがあったようです。
ペリー来航で密航を計画 「下田踏海事件」
しばらく謹慎生活を送っていた松陰でしたが、嘉永6年(1853年)正月、長州藩から10年間の遊学許可が出されたことを受けて再び江戸に遊学します。松陰が江戸に到着したのは5月24日ですが、その直後の6月3日、ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に来航します。松陰は黒船を観察して大きな衝撃を受け、8月に藩主に対して意見書『将及私言』を提出します。意見書を提出できるのは藩士だけで、松陰は当時浪人中でしたから、命がけの行為でした。
内容としてはペリーが再来日した際に戦闘が起こる可能性を示唆するとともに、外国に対抗するため洋式兵学を取り入れること、長州藩のみならず各藩における海軍の創設の提案、国防のための人材登用、内憂外患のなかで「君臣上下一体となりて」対処すべき、などというものでした。
そして松陰は外国の脅威を恐れるだけでなく、西洋の技術や制度を学ぶ必要があると考えていました。このためより深い知識を得るため、佐久間象山のサポートのもと、海外渡航を企てます。
ペリーが日本を離れた直後の7月には、ロシア使節のプチャーチン提督が長崎に来航して開国交渉に入ります。これを知った松陰は長崎に向かいますが、長崎に到着した時船はすでに出港した後でした。
翌嘉永7年(1854年)、ペリーは再び日本を訪れて日米和親条約を締結しました。その後、ペリー一行は下田に船を移しますが、松陰は長州藩士の金子重之輔と2人で下田を追いかけ、小舟を盗み、旗艦船のポーハタン号に乗船して米国に密航しようとしました。しかし、2人はペリーから「連れてきたいのはやまやまだが、条約の精神に違反して連れていくことはできない」と乗船を拒否されてしまいます。
密航に失敗した松陰は、密航が露見する前に下田奉行所に自首し、伝馬町の牢獄に投獄されました。なお、この際佐久間象山も連座で投獄されています。幕府の禁令を破って密航しようとしたため松陰は死刑にされかけましたが、ペリーが幕府に寛大な処置を求めたこともあり、国元蟄居となりました。
その後、松陰は長州へ送還され、士分を収監する野山獄(山口県萩市)に入りました。一方、金子重之輔は士分と認められなかったため庶民用の岩倉獄に入れられ、過酷な生活がたたって病死しています。
野山獄から「松陰の松下村塾」へ〜松陰の教育思想
松陰は野山獄の中である程度悠々自適な生活を送っていました。読書にいそしんでおり、読書記録『野山獄読書記』によれば、獄中の1年2か月の間で492冊の本を読んだことが分かっています。
また、安政2年(1855年)6月から獄中で囚人たちに『孟子』『論語』の講義を行います。この経験をもとに、松陰は後に学問観や人生観、政治思想などをまとめた『講孟余話』を記しました。加えて世界情勢を踏まえた国家戦略や、海防論、今後の日本の方向性などを論じた『幽囚録』も執筆しており、ともに幕末の志士たちに大きな影響を与えました。
安政2年(1855年)12月15日、松陰は赦免され、実家の杉家で軟禁状態となります。松陰は家族などを相手に『孟子』の講義を続けますが、やがて近隣の師弟たちが密かに学びに来るようになりました。
この講義を聞いていたうちの一人が、2代目の松下村塾の主宰者・久保五郎左衛門でした。ちなみに創設者は松陰の叔父の玉木文之進です。五郎左衛門は松陰の講義を聞いて「松下村塾」の名を松陰に譲ることを決意し、安政3年(1856年)から安政4年(1857年)頃に松陰へと主宰が引き継がれました。こうして「松陰の松下村塾」がスタートしたのです。
安政4年(1857年)11月、松陰は松下村塾の八畳一間の建物で本格的に教育を開始します。その教育は非常に独特なもので、塾生が主体的に学べるものでした。時間割などは特になく、取り上げる書物は塾生たちが選択でき、議論の場も設けるなど、塾生の個性が活かせる場となっていました。また、身分を問わず受け入れたため、多様な人材が集まりました。
松陰は塾生に「学問とは人がいかにあるべきか、いかに生きるべきかを学ぶもの」と説きました。松陰にとって学問とは、知識を得るためではなく学んで実践するためのものだったのです。その実践は、国のためにどのように動くか、ということでした。塾内では「飛耳長目帳」という情報ノートが置かれ、国内外の最新情報を書き込み共有していました。その内容をもとに塾生同士で積極的な議論が交わされたこともあったようです。
松下村塾からは、幕末から明治にかけて活躍する多くの人物が生まれました。特に有名なのが「松下村塾の双璧」と呼ばれた高杉晋作と久坂玄瑞です。この2人に吉田稔麿を加えると松下村塾の「三秀」に、入江九一を加えると「松下村塾四天王」となります。このほか、明治政府の中心人物となる伊藤博文や山縣有朋なども門下生として知られています。
日米修好通商条約と松陰の幕府批判
これまでの松陰は、幕府を批判するものの、一定の敬意を抱いていました。ところが安政5年(1858年)、幕府が孝明天皇の勅許なしに日米修好通商条約を締結したことで、松陰は激怒し幕府を強く批判します。松陰としては、富国強兵のためには開国は必要だが、あくまでも「朝廷の許可」あってこそのものだったのです。このため幕府を「違勅の国賊」と激しく非難しました。
さらに、松陰は通商条約を米国と結んだことで、他国と同様の条約を結ばざるを得なくなったことを懸念します。「外国人はアヘンやキリスト教を日本に持ち込む。日本は清のようになってしまうのでは…」と危惧したのです。
松陰の行動は徐々に過激化し、長州藩に老中・間部詮勝の暗殺計画を訴えるまでに至りました。松陰は情報収集に余念がなく、孝明天皇が水戸藩に出した、外国人を打払い幕政を改革するよう命じる「戊午の密勅」や、薩摩藩や水戸藩などによる大老・井伊直弼暗殺計画の情報もつかんでいました。このため、長州藩としても幕府に一矢報いるべきと主張したのです。
しかし、松陰は久坂玄瑞や高杉晋作、桂小五郎など弟子や友人たちから「時期尚早」と止められました。加えて長州藩はこうした松陰の動きに危機感を抱き、松陰を再び野山獄に入れました。ところが松陰はこれに懲りず、獄中から倒幕の計画を立て、塾生などに協力するよう呼びかけ続けます。
さらに「草莽崛起」、つまり在野の人々へ日本を変革するために立ち上がるよう呼びかけました。加えて、長州藩主の毛利敬親と朝廷の尊王攘夷強硬派の大原重徳を会談させ、長州藩の尊皇の意志を内外に示す計画も立てましたが、長州藩が止めに入ったことで断念しました。
安政の大獄と松陰の最期
このころは井伊直弼による政治弾圧「安政の大獄」の真っ最中でした。尊王攘夷の志士としても知られる儒学者の梅田雲浜が安政の大獄で捕らわれると、親交があった松陰も「江戸に護送するように」と幕府から命令されました。
安政6年(1859年)5月、長州藩は松陰を江戸に移送しました。7月9日、伝馬町の牢獄に入牢した松陰は評定の際に、幕府が掴んでいなかった間部詮勝暗殺計画や、大原重徳との会談を計画したことを説明してしまいます。
死を覚悟したうえでの諫言でしたが、これにより松陰の有罪は確定してしまいます。暗殺計画を自白したことで、本来であれば軽い罰で済んだはずの松陰は死罪となってしまったのです。
松陰が処刑の直前に書き上げた『留魂録』や獄中からの弟子たちへの書簡によれば、松陰は自身の罰を遠島ではないかと考えていたようです。松陰は「至誠にして動かざるはいまだこれ有らざるなり」(誠意を尽くせば相手の心は動く)という孟子の言葉を信条としていました。取調官は自白を引き出すために松陰の主張に同意したふりをしたのですが、松陰としては「取調官が理解してくれたので、死罪にはならないだろう」と考えていたのです。
こうして安政6年(1859年)10月27日、松陰は伝馬町牢屋敷で斬首刑に処され、この世を去りました。享年29歳。辞世の句は、『留魂録』に残された「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし日本魂」でした。
松陰の遺体は小塚原回向院(東京都荒川区南千住)に埋葬されましたが、文久3年(1863年)に高杉晋作や伊藤博文らによって世田谷若林へ改葬されました。
松下村塾が世界遺産へ
明治維新後、吉田松陰の評価は急速に高まりました。松陰の門下生である伊藤博文や山県有朋らが明治政府の中心人物となったこともあり、松陰は「維新の精神的指導者」として語られるようになります。
明治15年(1882年)には、世田谷の墓所の近くに松陰神社が創建され、松陰を顕彰する動きが広がりました。また萩では松陰が教育を行った松下村塾の塾舎が保存され、平成27年(2015年)には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されました。幕末の小さな私塾から生まれた思想と人材が、日本の近代化を支える大きな流れにつながったことが評価されたものです。
吉田松陰の生涯はわずか29年でした。しかし、松下村塾で育った志士たちはその後の日本を大きく変えていったのです。
吉田松陰の年表
| 西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 1830年 | 文政13年 | 0歳 | 長州藩士・杉百合之助の次男として萩に生まれる |
| 1834年 | 天保5年 | 4歳 | 吉田家の養子となる |
| 1842年 | 天保13年 | 12歳 | 藩校明倫館で兵学を教授 |
| 1851年 | 嘉永4年 | 21歳 | 東北地方などを遊学 |
| 1853年 | 嘉永6年 | 23歳 | ペリー来航 |
| 1854年 | 安政元年 | 24歳 | 黒船への密航を企て失敗、捕らえられる |
| 1855年 | 安政2年 | 25歳 | 松下村塾を主宰し教育活動を開始 |
| 1858年 | 安政5年 | 28歳 | 安政の大獄で捕らえられる |
| 1859年 | 安政6年 | 29歳 | 江戸伝馬町牢屋敷で処刑 |
- 【参考文献】
- 萩市観光協会公式サイト
- 松陰神社公式サイト
- ペリーの旗艦に登った松陰の「時間」に迫る―ポウハタン号の航海日誌に見た下田密航関連記事について(陶徳民)
- 『海国図志』と吉田松陰−幕末における西洋事情の受容について(阿川修三)
- 幕末から維新へ 岩波新書 新赤版 1526 シリーズ日本近世史 5 藤田 覚/著 岩波書店
- 一番詳しい吉田松陰と松下村塾のすべて 奈良本 辰也/編 KADOKAWA
- 吉田松陰と松下村塾の志士100話 山村 竜也/著 PHPエディターズ・グループ
- 吉田松陰 松下村塾と尊王攘夷思想、維新を動かした29年の生涯
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。