安政の大獄(1/2)井伊直弼による大規模弾圧

安政の大獄

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
安政の大獄(1858年〜1859年)
場所
東京都
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江戸城

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江戸幕府が開国と攘夷に揺れる幕末の動乱期、安政5年(1858年)から翌6年(1859年)まで、江戸幕府の大老・井伊直弼が反幕府勢力を弾圧したのが「安政の大獄」です。攘夷派といて知られる水戸藩主の徳川斉昭やその息子の一橋慶喜(徳川慶喜)、吉田松陰をはじめとした志士たちに加え、皇族や公家まで対象になったこの事件ではなんと100人以上の人々が弾圧されました。苛烈ともいえる直弼の弾圧は、明治維新への大きなターニングポイントとなった桜田門外の変で直弼が殺害されるまで続きました。今回はそんな安政の大獄について、分かりやすく解説します。

安政の大獄の背景①:将軍継嗣問題

嘉永6年(1853年)6月3日のペリーの黒船来航以来、日本には外国からさまざまな使節団が訪れました。長きにわたり鎖国を続けてきた江戸幕府ですが、各国の開国を迫る動きに翻弄されていきます。こうした中で幕府をけん引するべき将軍はどうしていたかというと、12代将軍の徳川家慶はペリー来航の直後、嘉永6年6月22日に61歳でこの世を去っていました。

跡を継いで13代将軍に就任したのは徳川家定。病弱で脳性麻痺だったという説もある、「天璋院篤姫」こと藤原敬子の夫です。家定は敬子の前に2人の女性と結婚していますが実子はいませんでした。このため将軍就任中から跡継ぎ問題で派閥争いが起こります。

家定の次の将軍候補は2人。13代将軍候補でもあった一橋慶喜と、最も将軍家に近い血筋を持つ紀伊藩主の徳川慶福です。英明な人物として知られる一橋慶喜を推したのは実父で水戸藩主の徳川斉昭、薩摩藩主の島津斉彬や越前藩主の松平慶永、土佐藩主の山内豊信などで、「一橋派」と呼ばれました。どちらかと言えば外様大名がメインです。そんな彼らの動きを老中の阿部正弘も後押しします。

一方で徳川慶福を推したのは彦根藩主の井伊直弼ら譜代大名と大奥の面々で、こちらは「南紀(紀州を指す)派」と呼ばれました。各派閥は諸外国に対するスタンスも異なっており、一橋派は開国派や攘夷派、南紀派は外国に対し保守的態度を取る穏健派がメインでした。南紀派は200年以上続いた徳川幕府の体制を重視し、政治の主導権を握っていました。

安政5年(1858年)、家定の体調がいよいよ悪化すると、跡継ぎは慶福に決定されました。これは直弼ら南紀派の働きかけの勝利!と思われがちですが、家定自身が慶喜ではなく慶福を跡継ぎに選んでおり、それに老中たちが同意した形だったようです。

もともと家定と慶喜は13代目の将軍を争った仲。また、家定は幼少の頃に痘瘡(天然痘)にかかったため目の辺りに痣がありました。一方の慶喜は美青年で大奥から人気が高かったのだとか。当時の武士の回想録には家定は「自分より慶喜の方がイケメンで腹立たしい」と思っていた、という記述まであります。

安政の大獄の背景②:対外関係をどうするか

将軍の跡継ぎ問題と同時期にあった問題が、外国との関係をどうするかでした。嘉永7年3月(1854年3月)には幕府は米国と日米和親条約を締結し開国。その後英国やロシア帝国、オランダと似たような内容の条約を結びました。この段階では外国勢が利用できる港は限定的でしたし、港は開いたものの貿易(=通商)は許可していませんでした。

その通商に踏み込んだ要求をしたのが米国総領事のタウンゼント・ハリスです。ハリスは安政4年(1857年)10月に江戸城を訪問し、家定に国書を渡し、米国との貿易開始を強く訴えました。ハリスの強硬な姿勢をみた幕府は下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震を全権として交渉を開始。15回の交渉の結果合意がなされたのち、当時の老中・堀田正睦が孝明天皇の勅許を得ようと朝廷に伺いを立てます。

幕府内には「天皇の勅許は必要ない」との意見もあったようですが、日米和親条約の時も朝廷と連携していたこと、幕府内には徳川斉昭を中心に攘夷論を唱える大名もおり、大名たちの意見をまとめきる決め手が欲しかったことなどから勅許を求めたようです。幕府としては日米和親条約の時のように勅許をもらえるだろうとの考えでした。

ところが安政5年(1858年)3月、関白の九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したところ、岩倉具視をはじめとした88人の公家達が猛反発。座り込んで抗議しました(廷臣八十八卿列参事件)。

また、異国嫌いとして知られる孝明天皇も「和親」は時代の流れとして許したものの「通商」は許可しませんでした。裏では攘夷論者の徳川斉昭の猛プッシュがあったとも言われています。天皇はその後も反対し、幕府に再び衆議を尽くして大名たちと議論するよう求めます。結局堀田正睦は勅許を得ることができず、最終的には通商条約の調印後に責任を取って老中を辞職することになりました。

ここで面白いのは、堀田正睦は実は一橋派だったということ。「徳川斉昭と攘夷の件で対立していたはずでは?」と思いますが、正睦は勅許を得るためには朝廷に人気のある慶喜を推すべしと判断し、南紀派から一橋派に鞍替えしていました。一方の一橋派としても、正睦を助けて天皇家と接近し、「通商条約を結ぶからには英明な人物に将軍家を継がせるべき=一橋慶喜が次の将軍になるべきでは」と訴えようとしていました。ところが天皇が反対したことで全て水の泡になったわけです。

「勅許なしの通商条約締結」の裏側

一橋派がダメージを受ける一方、安政5年(1858年)4月には南紀派の井伊直弼が大老に就任します。大老は幕府の臨時職で老中の上におかれた最高職。特に家定が体調不良等でほぼ活動できない状況下では実質の幕府のトップでした。

直弼がしたことで有名なのが「天皇の勅許なしで日米修好通商条約を締結」したこと。しかし、実は直弼は勅許なしでの条約締結に反対でした。しかし時代がそれを許しません。ハリスが当時の世界情勢を背景に幕府に圧力をかけてきたのです。

実はこのころ、中国では英国・フランスと清が第2次アヘン戦争(アロー戦争、1856年~1860年)の真っ最中。いわば清の植民地化推進戦争だった第2次アヘン戦争を例に、ハリスは英国やフランスに攻め入られないためには米国と結ぶべし、と説いたのです。

そうこうしているうちにアロー戦争が一時的に停戦状態になります。ここでハリスは追い打ちをかけるように「英国やフランスが日本に侵略する前に我々米国と通商条約を結ぶべきだ」と強調。開国派の老中・松平忠固を筆頭に、多くの幕閣は「とにかく早く通商条約を結ばなければ」と焦ります。

ところが直弼は「天皇の許可がなければ条約を結ぶべきでない」と勅許の必要性を盾に最後の最後まで反対します。交渉担当の井上清直と岩瀬忠震にも可能な限り条約締結を引き延ばすよう命じましたが、一方で「どうしてもやむを得ない場合は条約を締結してもいいか?」という2人の問いに対し「やむを得ない場合は是非に及ばず」とも回答しています。

そして安政5年(1858年)6月19日、2人の交渉役はハリスと対面し、日米修好通商条約は天皇の勅許なしで締結されることになるのです。ハリスのブラフを交えた脅しに屈したとも、確信犯的に条約を結んだとも言われていますが、いずれにせよこの知らせを聞いた直弼は衝撃を受けたに違いありません。直弼が主導したわけではありませんが、責任者は直弼。このため直弼は大老を辞任しようとまで考えますが、一橋派が盛り返すのを恐れた周囲に止められています。

安政の大獄①:大名の謹慎が全ての始まり

辞職を思い止まった井伊直弼は自らの政策に反対する一橋派などの弾圧に乗り出します。これが「安政の大獄」と呼ばれる一連の出来事です。安政5年(1858年)6月24日、松平慶永は直弼の屋敷を訪れて勅許なしの条約調印を批判し将軍継嗣問題についても言及。加えて徳川斉昭やその長男の徳川慶篤、尾張藩主の徳川慶勝達と江戸城に登城し、直弼や老中たちを批判・詰問しました。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03