今川義元海道一の弓取り

今川義元

今川義元

記事カテゴリ
人物記
名前
今川義元(1519年〜1560年)
出生地
静岡県
関連する城・寺・神社
駿府城

駿府城

関係する事件

戦国時代の三英傑の一人、織田信長の名を始めて世間に知らしめたのは「桶狭間の戦い」でした。信長は、侵攻してきた今川義元をやぶり討ち取ります。
この今川義元は、海道一の弓取りと言われました。東海地方の統治を安定させることで、武田信玄や北条氏康と対等に渡り合った人物です。では義元という人物は、どのような人であったのか。今回は、今川義元についてご紹介したいと思います。

今川家と義元誕生

今川義元は、永正16年(1519)、駿河国、遠江国の守護大名、今川氏親の三男として生まれます。幼名を芳菊丸と言いました。

今川家は、室町幕府足利将軍家の一門である吉良家の分家でしたが、吉良家は他の足利家の一門と異なり、将軍の継承権を有していました。また室町時代、足利将軍家に対して戦いの戦功もあり、先に話した「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と将軍の地位の継承権もあり、室町時代において今川家は別格の大名家でした。
義元が生まれた時には既に今川家の跡取りとして、母を同じくする兄の氏輝、及び彦五郎がいました。その為、4歳で瀬古善得寺の琴渓承舜に預けられます。

享禄2年(1529)に承舜が没したために、承舜の弟子であった九英承菊(きゅうえいしょうぎく)、後の太原雪斎がその役割を継承します。太原雪斎は、父も母も駿河国を基盤とする一族で、雪斎は今川家の重臣の子でした。早くから、僧侶として京で学び秀才と言われます。父の氏親は、その秀才と言われた雪斎に義元の育成を任せました。
義元は、雪斎と共に建仁寺に入ると常庵龍崇の元で正式に僧となります。僧名を栴岳承芳(せんがくしょうほう)と改めます。さらに雪斎と共に妙心寺で大休宗休に学び学識を深めていきました。

今川家継承と花倉の乱

京都の妙心寺において若き今川義元は、僧として学び、学識を深めていきました。ところが兄の氏輝から駿河国に戻るよう言われます。そして義元が駿河国に戻った直後の天文5年(1536)、今川家当主であった兄の氏輝が急死します。また長兄の氏輝と同じ日に次兄の彦五郎も死亡したため、今川家の相続権が義元に移ります。
兄たちの氏輝・彦五郎と同じように義元も寿桂尼を母としていた為、重臣たちから僧をやめ今川家に戻るよう請われます。義元は、これを受け入れ、征夷大将軍・足利義晴から偏諱を賜り、ここで今川義元と名乗り始めます。

ところが当主継承に関して、今川家の有力な家臣であった福島氏が反対したので混迷します。義元の当主継承に不服に思った福島氏は、自家の血を引く義元の異母兄・玄広恵探を当主として擁立し反旗を翻します。この反乱を「花倉の乱」と言います。

福島氏は、義元が住む今川館に攻め寄せる等攻勢で出ましたが、太原雪斎を始めとする義元側についた今川の家臣団の前に苦戦します。加えて駿河国、遠江国の東隣りに位置する伊豆国、相模国(現在の神奈川県西部)の領主、北条家(後北条氏)から支援を受けることに成功すると、福島家など反義元側は徐々に苦しい立場となり、拠点としていた花倉城に追い詰められます。そして攻撃を受け城は、落ちてしまいました。生き残った福島氏は、北条家を頼って落ち伸びます。

花倉の乱で反対派を鎮め今川家を継いだ義元は、今川家当主となり、義元の当主継承に尽力した家臣を重用して、支配体制を整えました。

甲斐の武田家と相模の北条家

花倉の乱を終え、今川家当主に収まった今川義元は天文6年(1537)、兄の氏輝と争っていた甲斐国(現在の山梨県)の大名、武田信虎の娘を正室に迎え、武田氏と同盟を結びます(甲駿同盟)。ところが、甲駿同盟の成立は、結果的に旧来の盟友であり武田家と緊張状態にあった北条家の怒りを買い今川家と北条家は抗争状態に入りました。花倉の乱の直後で駿河国の統制がとり終わっていなかった今川家は、内部を切り崩され、北条家に太刀打ちできず不利なまま長期化を余儀なくされます。

義元は、北条家から圧迫を受け続ける中、なんとか事態の打開策を模索します。天文14年(1545年)、義元は氏康と敵対する関東の山内上杉家と同盟を結び、北条氏を西の今川家と東の山内上杉家とで両面から侵攻する策を立てました。この山内上杉家に呼応する形で、北条家に苦しめられていた関東の諸大名が連合を組み、北条家の領地を侵攻します。窮地に陥った北条家は甲斐国の武田家に仲介を頼み、義元との交渉で奪った領地の返還を条件に和睦しました。

これにより関東方面に戦力を集中させできるようになった北条家は、河越夜戦において関東の連合軍を大いに撃退します。この後も駿河国の東側の地を巡って今川家と北条家の睨み合いは続きましたが、北条家が関東方面の領国経営に力を入れた事で、徐々に敵対関係を和らげていきます。
天文23年(1554)、義元の嫡子、今川氏真と北条氏康の娘が婚姻を結びます。さらに武田家と北条家とも互いに婚姻関係を結んで、ここに今川家と武田家、北条家の甲相駿三国同盟を結成しました。東海道の今川家と甲信地方の武田家、関東の北条家は、同盟する事で背後の心配をすることなく領国経営を行えるようになりました。

今川家の飛躍

今川義元は、相模国の北条家と駆け引きを行っている頃、西の隣国である三河国(現在の愛知県東部)も、尾張国(現在の愛知県西部)の武将、織田信秀(織田信長の父)と抗争を行っています。

織田信秀が天文9年(1540)に開始した侵攻は当初、織田家優位で進みました。ところが義元は、西三河の有力な領主であった松平広忠(徳川家康の父)の帰順を受けます。
今川家の三河進出に危機感を覚えた織田信秀は軍勢を出して三河国占領を強化しますが、天文17年(1548)義元の軍師である雪斎を中心とした今川軍は織田軍に大勝しました。
天文18年(1549)に松平広忠が死去すると、義元は領主が死去して不在となった松平家に対して支配していた西三河地域を今川家の領土にしようとします。また、織田方の三河安祥城(現在の愛知県安城市)を攻め、織田家の勢力を三河国から駆逐しました。これにより三河国を巡る織田家との争いは今川家勝利の形で決着します。松平広忠の亡くなった松平家は、嫡子竹千代(後の徳川家康)を人質として取る事で支配しました。

こうして駿河国、遠江国、三河国と東海道を押さえた今川義元は大大名へと成長します。三国を領土とした今川家は、検地を行うなど安定した領国経営を着々と行っていきます。
天文22年(1553年)には父の今川氏親が定めた今川仮名目録に追加の条文を加え、現在の今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏そのものであることを理由に、駿河国、遠江国にある室町幕府の荘園の廃止を宣言、守護大名としての今川家から戦国大名の今川家へと移り変わります。

桶狭間の戦いとその最期

永禄元年(1558)、義元は嫡子の氏真に家督を譲り隠居します。これ以後、今川氏の本国である駿河・遠江は息子の氏真が統治し、義元は新領土である三河国の鎮圧および経営に集中することで更なる西への侵略を練っていくことになりました。

永禄3年(1560)には尾張国の名古野城を目指して、今川義元は軍を率いて侵攻を始めました。織田家に圧迫されていた大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救うべく、織田家の砦を先方の三河武士に落とさせます。
幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて、沓掛城で待機していた義元は本体を前進させます。ところがその途中、桶狭間(おけはざま)で休息中に織田信長の攻撃を受け、家臣たちと共に奮戦するも、織田家の家臣により討ちとられました。享年42。
首を打ちとられた遺体は、今川の兵によって駿府まで連れ帰ろうとされましたが、義元の遺体は想像以上に腐敗の進行が早く、三河国宝飯郡に埋葬されました。

織田方に討ち取られた首は、鳴海城に留まり奮戦する義元の重臣と信長との交渉により後に返還され、駿河に戻りました。

今川義元の人物像

今川義元は「海道一の弓取り」と呼ばれていました。海道とは東海道を指します。弓取りとは弓矢で戦うものから「武士」、転じて「国持大名」を指します。室町時代後期、この異名で呼ばれたのは今川義元と徳川家康でした。武家の代表のような異名ですが、義元のイメージは公家のような容姿を連想させます。

義元は、幼い頃より僧として育ち、成長して京にいた事もあるので、都の文化に理解がありました。そのため、都から逃れてきた公卿を保護したり、都の流行を取り入れ統治に生かしたりしました。この傾向は、周防国の大内家や越前国の朝倉家に共通します。
さらには自らも公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていたことから、貴族趣味に溺れた人物とされます。しかしこの話は後世の創作であるという説もあります。また、たとえ事実であったとしてもそれは武家では守護大名以上にのみ許される家格の高さを示す故です。

例えば、義元は塗輿に乗っていたとされますが、室町幕府において塗輿は、幕府の一番高い格式、相伴衆にのみ許されていた乗り物です。馬上の武士は、路上で会うと必ず下馬しなければない決まりがある為、権威の象徴とされました。
義元は、家督相続における花倉の乱、その後の北条家や織田家との確執を通して、東海道の国人衆を統治し安定化につなげる為、これらの文化や格式を利用しようとした、したたかな人物であったのかもしれません。

今川義元と所縁の地

今川義元銅像
令和2年、今川義元の生誕500年を記念して、JR静岡駅北側に建てられました。
分国法や金山開発、街道整備など現在の東海道の発展に尽力した甲冑姿の今川義元は、ありし日の栄華を思い起こさせます。
臨済寺
静岡県葵区にある臨済寺。今川義元の軍師であった太原雪斎が、義元の兄である8代目当主今川氏輝の菩提寺として建立した寺です。氏輝は今川家の組織を整備して馬廻り衆を創設します。また商業振興などに力を注ぎ、今川家の興隆と東海道の整備に尽力しました。
清水寺
静岡市葵区にあるお寺です。もともとは義元の父である今川氏親の時代に開かれた真言密教の学問所のある場所でした。そこへ兄・氏輝の遺命により、義元が朝比奈元長に命じて永禄2年(1559)建立、京都東山の清水寺の景色に似ていたことから、音羽山清水寺と名付けられたとされています。
桶狭間古戦場
愛知県名古屋市緑区にある桶狭間古戦場。今川義元の最後の地とされる桶狭間の古戦場は整備されて桶狭間古戦場公園として市民の憩いの場所となっています。
義元公墓
桶狭間古戦場公園内にある義元公墓は、1934年(昭和9年)に建立された今川義元の墓碑です。
桶狭間古戦場の碑
桶狭間古戦場の碑(おけはざまこせんじょうのひ)は、昭和時代初期に鞍流瀬川の川底から引き上げられました。制昨年は文化13年(1816)で石板の正面には「桶狭間古戦場」、背面には「文化十三年丙子五月建」とあります。

今川館と駿府城

14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏は、この地に今川館を築き領国支配の中心地としました。 天文5年(1536年)、花蔵の乱が起こると、今川義元が駿河国の領主となり今川館の主となります。しかし、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、今川家と武田家との同盟関係が解消され、永禄11年(1568年)武田信玄の駿河侵攻で、今川氏真が城主を務めていた今川館は消失してしまいます。

後に駿河国を治めるようになった徳川家康は、今川館の跡地に駿府城を建築します。駿府城は近世城郭とし建てられ、天守が築造されました。
江戸時代初期、隠居した徳川家康により隠居地とされた駿府城は、全国から集められた大名による天下普請によって大修築されます。それにより現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成しました。ところが完成直後の慶長12年(1607)、家康が移住した年に、駿府城は失火により、本丸御殿を焼失してしまいます。しかし、翌年から再建工事は開始され、慶長15年(1610)完成しました。家康の死後は、江戸幕府の直轄地として駿河国の中心地として機能しました。

現在の駿府城は、三重の堀のうち外堀の三分の一は埋め立てられて現存せず、三ノ丸があった場所には公館庁や学校などの公共施設が立地し市街地化しています。中堀は現存しますが、一部の石垣は過去の地震によって崩落したままになっており土塁のようになっています。また二ノ丸・本丸があった場所には、「駿府城公園」として市民に開放されています。

1989年に市制100周年の記念事業とし巽櫓(たつみやぐら)が、1996年には東御門と続多聞櫓が伝統的工法によって復元されました。内部は資料館となっており見学することができます。また、2014年(平成26年)3月末には坤櫓(ひつじさるやぐら)も復元されています。
駿府城は現在、市民の憩いの場所として存在し、その姿は長い駿河国の歴史を人々に感じさせてくれます。

今川義元の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1519年 永正16年 0歳 駿河国の戦国大名・今川氏親の子として生まれる
1536年 天文5年 17歳 家督争い(花倉の乱)に勝利し、今川家の当主となる
1540年代 天文年間 20代 駿河・遠江・三河に勢力を拡大
1549年 天文18年 30歳 三河の松平元康(後の徳川家康)を人質として保護
1554年 天文23年 35歳 武田信玄・北条氏康と甲相駿三国同盟を結ぶ
1558年 永禄元年 39歳 三河方面へ進出し勢力を拡張
1560年6月 永禄3年 41歳 尾張侵攻中、桶狭間の戦いで織田信長に討たれる
関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。