織田信雄信長亡き後の織田家当主
織田信雄
室町時代後期、戦国と呼ばれた世界で織田信長は勢力を広めます。ところが信長は本能寺の変で、明智光秀によって自害に追い込まれました。この信長亡き後の織田家当主となったのが織田信雄です。信雄は信長の次男として生まれました。伊勢国を中心に領地を持った信雄は父の信長亡き後、織田家内部の政争に勝ちますが豊臣秀吉によって没落します。今回は信長の子、織田信雄を見ていきます。
織田信雄の名前は?
織田信雄の「信雄」の読みには「のぶを」と「のぶかつ」の2通りの読み方があります。
信雄から「雄」の名を与えられた家臣はいずれも「かつ」と読まれています。また『御湯殿上日記』では「のふかつ」と書かれている事から「のぶかつ」が一般的な読みと考えられています。
その一方で家系図(『寛政重修諸家譜』『織田系図』)では「のぶを」と振り仮名が振られており、子供たちの秀雄や良雄の読みは「を」である事から「のぶを」とも考えられています。
この他に「信雄」を「のぶよし」と読まれていた、とも考えられていました。これらの読みは決定的な根拠がない事から、今日でも「のぶを」「のぶかつ」の二通りで読まれています。ここでは「のぶかつ」で進めていきたいと思います。
織田信長の次男信雄
織田信雄は永禄元年(1558)、織田信長の次男として生まれます、幼名は茶筅(丸)。母は織田家家臣の生駒家宗の娘(「吉乃」或いは「お類」)で同母兄妹に長男の信忠、妹の徳姫(徳川信康室)がおり、信長はこの3人が五徳(火の上に鍋、薬缶などを置く台)のように支え合って織田家の繁栄に尽くすよう願い、徳姫に「五徳」と名付けたと言われています。
この兄妹の他に、信雄と同年同月に生まれた3男の信孝がいました。或いは信孝の方が先に誕生していたが信雄の母が正室的な立場にある事から信孝出生の報告を遅らせ兄弟の順を変えたとも言われています。この事から信孝は弟とされた事を恨んでいた、という俗説もあったほど後々に信雄、信孝の兄弟は大きく対立しました。
伊勢の北畠氏へ養子に
さて織田信雄の父である織田信長。織田信長は尾張国(現在の愛知県西部)の小領主でしかありませんでしたが、永禄10年(1567)には美濃国(現在の岐阜県)を攻め落とし尾張、美濃国2ヶ国の大名となります。更に永禄11年(1568)には足利義昭を奉じて上洛し、畿内(現在の近畿)に影響力を持ちます。
そして永禄12年(1569)8月、信長は伊勢国(現在の三重県)を攻めます。ところが伊勢国大河内城を攻城しましたが、堅城のため攻めあぐねます。攻められた北畠家も耐えていましたが膠着し苦しみます。双方が手詰まりとなり和解する事に成りました。この和解に織田家次男の織田信雄を北畠氏の養子として受けいれる、という条件が入ります。こうして織田信雄は尾張国から伊勢国大河内城へ移りました。
そして元亀3年(1572、或いは元亀4年⦅1573⦆とも)に織田信雄は元服しました。
北畠氏の粛正と伊勢国の掌握
さて畿内を勢力下に置き着々と版図を広げていった父の織田信長。この信長の拡大に周囲の大名は危機感を覚えます。元亀元年(1570)、浅井、朝倉、三好、六角、延暦寺、そして石山本願寺が織田信長に反抗します(第一次信長包囲網)。石山本願寺に呼応した北伊勢の寺や門徒も織田家に抵抗します。特に前々年、北伊勢の一部地域を支配した織田という新しい領主に小領主たちも反抗し、一揆に呼応しました。こうして大規模な勢力となった一揆は「伊勢長島の一向一揆」と呼ばれ天正2年(1574)まで織田家に抵抗します。
この伊勢長島の一向一揆に織田信雄は天正2年(1574)に出征します。これが信雄の初陣でした。
ところで織田信雄は北畠家の養子に入りましたが、伊勢国の支配は旧主北畠家と織田信雄の二元政治の態勢でした。これを織田信長は嫌がり、北畠家の一族を騙し討ちにします。ここに伊勢国は織田信雄の権力基盤となります。この間、織田信雄は伊勢国の安定を図りながら織田家一門として武田家との戦い(長篠の戦い)や北陸の一向一揆征伐(越前一向一揆の征伐)に従軍しています。
天正伊賀の乱
天正7年(1579)9月、伊勢国を統治していた織田信雄は隣国の伊賀国(現在の三重県伊賀市)に目をつけ独断で攻め込みます(天正伊賀の乱)。ところが伊賀国を自治運営していた伊賀十二人衆と呼ばれる国人衆に抵抗され、大敗します。独断で伊賀国へ侵攻し、しかも大敗の知らせを聞いた織田信長は「親子の縁を切る」とまで言い叱責しました。
天正9年(1581)9月、伊賀国人衆内部の切り崩しに成功した織田信長は織田信雄を総大将に信長自身も出陣し再度、伊賀国へ侵攻しました。こうして平定された伊賀国のうち一部を織田信雄が領し、伊勢伊賀と統治する事になります。
本能寺の変と安土城放火の嫌疑
着々と版図を広げ天下人の座に手が届こうか、としていた織田信長。
ところが天正10年(1582)6月2日、信長は本能寺で、嫡男の信忠は二条新御所で明智光秀によって討たれました(本能寺の変)。
本能寺の変の知らせを聞いた時、織田信雄は伊勢国に居ました。父である信長危機の話を受けると信雄は鈴鹿峠を越え近江国(現在の滋賀県)甲賀郡土山まで軍勢を連れます。ところが本領である伊賀国の国人衆が反乱を起こす様子を見せたのでそれ以上は進めず、安土城(信長の居)を脱出した織田家の子女を救出するのが精一杯でした。
そして織田信長を討った明智光秀は羽柴(豊臣)秀吉によって討たれました(山崎の戦い)。
さて織田信長が建てた安土城。安土城は明智光秀が討たれた山崎の戦いの後に焼失しています。『太閤記』では明智光秀の重臣明智秀満が放火したと、『耶蘇年報』では暗愚を理由に織田信雄が放火したと、或いは近隣の一揆や盗賊による略奪で焼失されたと言われています。織田信雄はキリスト教に冷淡であった事から信雄を辛辣に書いていたようであり、現在でも焼失の原因は分かっていません。
織田家内紛と弟信孝の殺害
明智光秀が討たれると織田家の中で話し合いが持たれます(清須会議)。織田信長が討たれたので織田家の家督を誰が継承するか議論があり、次男の信雄と三男の信孝が激しく争います。最終的に羽柴秀吉が織田信忠の子(織田信長の孫)三法師(織田秀信)を連れてきて織田家の当主と定め、幼い三法師を家臣達が盛り立てて行く事を決めました。同時に領地の配分が行われ、信雄は尾張一国を加えられ尾張、伊賀、伊勢となります。
ところが清州会議の後、織田信孝が宿老であった柴田勝家に近づいた事から、信雄は羽柴秀吉を頼るようになります。秀吉も信雄を織田家当主として盛り立てる事を約束しました。そして天正10年(1582)12月、織田信雄と羽柴秀吉は三法師の奪還を名目に織田信孝のいる岐阜城を攻めます。信孝側についていた柴田勝家は雪で助けに行けない事から、信孝は三法師を引き渡し降伏しました。
翌天正11年(1583)には羽柴秀吉と柴田勝家との衝突が激しくなります。そして4月、賤ケ岳の戦いが起こりました。この戦いに乗じて織田信孝も岐阜城で柴田側として蜂起します。ところが戦いは柴田勝家の敗北に終わりました。自らの不利を悟った信孝は信雄からの和平の言葉を信じて城を出ましたが、信雄の家臣によって切腹を強要され亡くなりました。こうして織田信雄は織田信長の亡くなった後、織田家当主の座を手中に収めます。
羽柴秀吉との対立と小牧長久手の戦い
織田信雄は織田家当主となりましたが羽柴秀吉に運営を任せ、周囲も信雄は羽柴秀吉の傀儡と見ていました。
天正11年(1583)9月、羽柴秀吉は大坂城を築城し諸大名に号令する根拠地とします。この頃から織田信雄の扱いも軽くなり、羽柴秀吉と織田信雄の関係は悪化しました。秀吉は信雄の家臣の切り崩しを謀り、信雄も東海道の徳川家康と同盟を結びます。天正12年(1584)3月、羽柴秀吉と徳川家康が戦闘に入ります(小牧・長久手の戦い)。戦いは徳川家有利に進みましたが秋の終わりまで断続的に続きます。秀吉は不利を悟り自らに有利な条件で講和を結ぼうと考えましたが不調に終わります。それでも諦めきれない秀吉は織田信雄に絞って講和を進め、戦いに疲れていた信雄も応じました。この後も羽柴秀吉と徳川家康の睨み合いは続きましたが、最終的に家康も秀吉政権の下に入りました。
豊臣政権下での処遇と追放
豊臣秀吉と和睦した織田信雄。織田家の当主という立場には収まりましたが、豊臣政権の下に入る事になります。しかし秀吉も粗略には扱わなかったようで、天正15年(1587)11月には内大臣に推されます。これは関白である秀吉に次いで武家の序列2位、秀吉の弟秀長や実力者であった徳川家康より上位に位置します。以降内大臣の地位にある間は「尾張内大臣」「尾張内府」と呼ばれました。
こうして豊臣政権の下にあり領地は尾張国を中心に100万石近く、官位は内大臣にあった織田信雄。この織田信雄が没落します。
天正18年(1590)関東の北条家を討伐した豊臣秀吉は(小田原征討)、関東の地を徳川家康に与えました。そして旧徳川家の領地を織田信雄に与え、それまでの尾張国の旧領を取り上げる事に決めます。ところが先祖伝来の地である尾張国に執着した信雄は固辞します。すると秀吉は激怒し織田信雄を追放しました。一時、東北や四国に幽閉された信雄は最終的に剃髪し(このころより常真 ⦅じょうしん⦆という号を使用します)豊臣秀吉の御伽衆となりました。こうして秀吉の御伽衆として豊臣政権を過ごします。
江戸幕府での扱いと晩年
慶長3年(1598)豊臣秀吉名が亡くなります。秀吉が亡くなると武家の筆頭であった徳川家康と豊臣政権の奉行石田三成が対立。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起こりました、織田信雄は石田三成の側に付きました。結果、徳川家康が勝利し信雄は隠居領を取り上げられ大坂で隠遁生活を送ります。
さて徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利すると天下人となり征夷大将軍となります。しかし織田信雄が隠遁している大坂には、豊臣秀吉の跡継ぎである豊臣秀頼がいます。秀頼の母親淀君は信雄の従妹に当り、豊臣家は織田家の当主であった織田信雄を自陣営に引き込もうとします。徳川家康も織田家当主であった信雄が豊臣家に入ると、過去の影響力を行使されて豊臣家の力が大きくなると恐れます。そこで家康は信雄に領地を与える事を約束して、大坂城入城を妨げました。
元和元年(1615)大坂の陣が起こると豊臣家は徳川家に滅ぼされます。織田信雄は大和国(現在の奈良県)宇陀郡と上野国(現在の群馬県)甘楽郡など領地を与えられました。しかし世を捨て趣味に生きていた信雄は京に住み続け、領地には息子や家臣を派遣し管理させました。
こうして織田、豊臣、徳川と時代に翻弄された織田信雄は京において自適な隠居生活を送り晩年を過ごします。
寛永7年(1630)4月30日、織田信雄は京都北野邸で死去、享年73。遺体は織田家の菩提寺のある京の大徳寺総見院に葬られます。また上野国甘楽郡小幡の崇福寺、伊勢国北畠家の廟があった奈良県室生寺にも分骨され、滋賀県摠見寺にも供養塔があります。
寛永9年(1632)、信雄の4男織田高長は僧を招いて徳源寺(奈良県宇陀市)を創建し信雄の菩提寺としました。
南伊勢の田丸城
織田信雄は北畠家に養子として入り、伊勢国を統治します。最初は大河内城に入りましたが天正3年(1575)に廃城とし、田丸城へ移ります。
田丸城は伊勢国の戦略的要衝として南北朝時代に築かれたと言われます。この城に織田信雄が入ると、三層の天守を備えた近世城郭として生まれ変わりました。
ところが天正8年(1580)、信雄の同朋衆(主人に僧体として仕え雑務や芸事を行う)の玄智が金を盗もうと火薬庫に放火し、捕らえられ処刑されました。しかし田丸城は焼失、信雄は松ヶ島城(松島城)を築き移ります。
この後、江戸時代に入ると田丸城は紀州徳川家の支配下に入り家老の久野宗成に与えられ田丸藩6万石の城として明治まで続きました。
明治時代に入ると田丸城の建造物はほとんど破却されましたが、天守台と石垣、内堀、外堀、空堀が遺構として残っています。平成29年(2017)には続日本100名城に認定されました。現在ではかつての城内に玉城町役場や町立玉城中学校があり、桜が多く植えられ花見客で賑わう場所となっています。
小幡藩と楽山園
元和元年(1615)7月、徳川家康は大和国宇陀郡に3万石、上野国甘楽郡などの2万石、併せて5万石を織田信雄に与えました。信雄はすでに世を棄てて京で自適な生活を送っていた為、3男信良を名代として上野国に派遣し、ここから織田家7代続いた小幡藩となります。
ところが京で生活を送っていた織田信雄は風光明媚な庭園を築く計画を思いつき、前田、池田、浅野など諸大名から莫大な寄付を集め、京から茶人を派遣して造園させます。面積1200坪(3960平方メートル)の敷地に樹木や名石を並べ、池泉回遊式の茶室を4つ設け、周囲の山々を借景とした贅沢な庭でした。信雄はこの庭に論語「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」から「楽山園」と名付けましたが、造園に7年を擁し自身が見る事はありませんでした。楽山園は現在、群馬県唯一の大名庭園として県内初の名勝指定庭園に国から指定されています。
群馬県甘楽町の小幡さくら祭り
小幡さくら祭りは昭和60年から毎年、3月下旬の日曜日に開かれる甘楽町最大のお祭りです。織田信雄より7代統治されてきた事を由来とし行われています。当日は馬上の大将を先頭に槍隊、侍女、鎧武者などに扮した町民300人が楽山園で出陣式を行い、そこから八幡神社で祈願式、織田宗家の墓がある崇福寺で戦勝報告、甘楽総合公園多目的広場で凱旋式を行います。
凱旋式の行われる甘楽総合公園多目的広場では火縄銃の実演やアトラクションなども行われ桜の下、春の訪れを感じながら人々は楽しみます。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。