松前藩アイヌとの貿易や林業で国を支えた
松前家の家紋「丸に割り菱」
- 関係する城
松前藩は、北海道松前郡松前町にあった藩です。藩主は江戸時代以前から松前氏が務め、明治維新を迎えるまで幕府の直轄地と松前氏の支配が繰り返された珍しい土地です。
また、米作ができないため藩の財政はアイヌとの交易独占によって支えられていました。
そのため、実質大名や藩でありながら「大名」「藩」と正式に認められないという例外的な藩でもありました。
そんな松前藩の歴史を紐解いていきましょう。
松前氏の蝦夷支配の始まり
江戸時代を通して松前藩の藩主を務めた松前氏は、室町時代の武田信広を始祖とする一族です。
武田信広は、甲斐源氏及び若狭武田氏の子孫を名乗っており、家紋にも「武田菱」とも呼ばれる割り菱が使われていますが、真偽の程は定かではありません。
武田信広は、陸奥、蝦夷地、出羽を支配していた安東政季に仕えた蠣崎季繁という人物の後継者となって蠣崎氏を名乗り、渡島半島の南部に地位を築いた後、代を重ねていきます。
蠣崎季広の代には東地のチコモタイン、西地のハシタインのアイヌと和睦し、蝦夷地支配の基礎を築きます。
そして、蠣崎季広の三男に当たる松前慶広は、豊臣秀吉に謁見を果たすと、所領を安堵と同時に従五位下・民部大輔に任じられました。
これをもって蠣崎氏(松前氏)は安東氏より独立したとみなされています。
また、天正19年(1591年)、南部地方で九戸政実の乱が起こると、豊臣秀吉の命により討伐に参加したこと、その際にアイヌの毒矢が非常に効果的あったことなどが記録に残されています。
豊臣秀吉が死去すると、慶長4年(1599年)、松前慶広は蝦夷地図を献上するなど徳川家康に服して蝦夷地に対する支配権を認められました。
なお、松前慶広が松前に姓を変えたのは正式にはこの時期です。
江戸時代の松前藩
慶長4年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こり、慶長7年(1603年)に徳川幕府が開かれます。
慶長8年(1604年)徳川家康は松前氏に黒印制書を授けてアイヌ交易の独占権を公認しました。
これをもって松前藩が成立したという意見がありますが、正確には松前氏は大名ではなく交代寄合です。
交代寄合とは、旗本の家格の一つで旗本でありながら領地に居住し参勤交代を義務付けられています。
これは、当時の松前は寒冷で稲作をすることができず、松前藩が建前上「無高」だったためです。
そして、享保4年(1719年)から1万石格の柳間詰めの大名格に格上げされました。
松前藩はアイヌとの貿易を独占する権利を認められていたため、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として交通を制限してアイヌと和人が勝手に貿易をすることを禁じました。
また、松前藩は漁場を開拓し、江差に檜山を開き、檜山奉行を置くなどして漁業や林業にも力を入れました。
米作ができなくても、交易・林業・漁業などで財政を支えたのです。
寛文8年(1668年)シャクシャインの戦いが発生します。これは、アイヌの惣大将間の抗争に端を発した争いであり、松前藩は当初中立の立場を貫いて抗争仲裁に入っています。
しかし、シャクシャインに総大将「オニビシ」を殺害されたハニのアイヌが松前藩に武器の提供を依頼する使者を送ったことをきっかけに誤報が広がり、争いはアイヌ同士の争いから松前藩対アイヌの戦いへ変化していきました。
寛文9年(1669年)シャクシャインの呼びかけによって釧路町白樺町から天塩増毛町までの間に済むアイヌが一斉に松前藩への反旗を翻します。
松前藩は幕府に救援を求めると同時に弘前津軽氏・盛岡南部氏・秋田(久保田)佐竹氏の3藩に出兵を要請、銃器を持って弓矢を武器としたアイヌ勢を鎮圧し、結果的にアイヌ交易の絶対的主導権を握ることになりました。
松前藩と京都との関係
政治の中心である江戸とも、天皇が座して文化・文明の中心であり続けている京都とも遠く離れた松前藩ですが、江戸時代初期から京文化が花開いていました。
そのきっかけを作ったのは、花山院忠長という人物です。
花山院忠長は、左大臣・花山院定熙の長男で従四位上・左近衛少将という上級貴族でしたが、慶長14年(1609年)7月、後陽成天皇の女官である広橋局と密通したことが明るみになり、蝦夷に流罪となってしまいます。
松前藩初代藩主である松前慶広は、慶長15年(1610年)に北海道上之国町に到着した花山院忠長を丁重に出迎え、北海道福島町にある万福寺に身柄を移します。
そして、彼を厚遇した結果2代目藩主松前公広は、大納言大炊御門資賢の息女と結婚し、8代藩主の松前道広は、花山院家から正妻を迎えるなど、京の公家達と強い絆を結び続けました。
なお、花山院忠長は慶長19年(1614年)に松前から津軽に移り、慶安5年(1652年)に帰京が許されています。それでも、彼が伝えた京文化は松前の地で花開き、松前藩からも京の公家へ子女達が嫁いでいく慣習が生まれました。
さて、このように石高が0でもアイヌとの貿易を独占し、林業を主要産業とした松前藩は代を重ねていきます。
そして6代目藩主松前邦広のときに、税制改正、問屋の株仲間化、それによる沖の口番所業務代行の認可と手数料の徴収などを実行し、商業と交易の結びつきを強くします。
これは、松前藩の家老職を巡る家臣団の対立が起こっており、邦広は権力の均衡を図りたかったため、という意見もあります。
これをきっかけに、藩の主な収入はアイヌとの交易や砂金の採掘、林業から産業を委託した請負商人が支払う手数料へと移行して行きました。
砂金の採掘量減少などから悪化しかけていた藩の財政は、これで一度建て直されたように見えましたが、請負商人と藩の癒着が進み、それが領民との摩擦に発展して農民一揆やアイヌの蜂起が加速するようになったのです。
そして9代藩主松前章広のとき、8代藩主松前道広の代にロシアから通商要請があったことを理由に、幕府が松前藩を直轄地にするという決定がなされ、武蔵国埼玉郡内に5千石を与えられます。
さらに、享和元年(1801年)に幕府は松前藩の土地を永続的に直轄地にすることを決め、武蔵国の領地も取り上げる代わりに年3,500両を支給することにされてしまいます。
しかし、松前章広はこれをよしとせず、将軍・徳川家斉の父・一橋治済に接近して老中水野忠成に莫大な賄賂を送り、領地の返還を11代将軍徳川家斉に懇願しました。
その結果、ロシアの脅威が低くなったことを表向きの理由に、文政4年(1821年)に蝦夷の地が松前藩に返還されました。
その後、松前藩では10代目藩主松前良広が16歳、11代目藩主松前昌広が29歳という若さで早世します。
その後を継いだ12代目藩主松前崇広の時代に江戸時代最後の城郭である松前城が築城されました。
松前崇広は、文武両道に秀でた好奇心旺盛な人物で君主としては有能だったようです。
しかし、安政元年(1854年)幕府は対ロシア政策から松前藩領だった箱館周辺8ヶ村と全蝦夷地を幕府直轄にして、代わりの土地を松前藩に与えます。
これにより石高は上がりましたが、蝦夷地での交易権を喪失したことで財政が悪化、さらにニシン漁の不漁から端を発した場所請負人と中小漁民が衝突する網切騒動が起こりました。
このように家元はごたついていましたが、松前崇広は寺社奉行に起用され、さらに老中にまで出世します。
慶応元年(1865年)には第二次長州征討に13代将軍徳川家茂の供をして京都や大阪まで至っています。
このように将軍から篤い信頼を受けていましたが、同僚の老中の阿部正外が独断で兵庫港を開港したことの連帯責任を取らされ、老中を罷免、38才の若さでなくなってしまいました。
13代目藩主となった松前徳広は、文人で尊王派でしたが藩主に就任する前から結核を患っており、さらに精神病も発病したため満足に政務を執ることができず、藩政は混乱し、ついに尊皇派と攘夷派が対立し、クーデターまで勃発します。
このような混乱の中、世の中は明治を迎えて箱館戦争が起こりました。
最後の藩主である14代目松前修広は、新政府軍について箱館戦争で松前城を奪還し、藩知事になった後廃藩置県で罷免され、後に子爵になります。
松前藩まとめ
松前藩は米作こそできませんでしたが、アイヌとの交易や漁業、林業、砂金の採掘によって藩を運営していた日本でも類を見ない藩です。
領主は2代目以降影が薄く、夭折者も相次ぎました。
なお、松前氏は現在も家が続いており、現在は18代目の当主を松前孝広さんが務めています。
- 関係する城
- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。