永禄の変「剣豪将軍」足利義輝、三好三人衆らに討たれる
永禄の変
永禄8年(1565年)5月19日、三好三人衆と松永久通(松永久秀の息子)が室町幕府13代将軍の足利義輝を殺害したのが「永禄の変」です。この事件は大変衝撃的なもので、日本中に激震が走りました。応仁の乱や明応の政変により室町幕府の力は衰えつつあったとはいえ、家臣によって将軍が殺されることは前代未聞のことだったからです。いったいなぜこんな事件が起きたのか。詳しく見ていきたいと思います。
三好氏VS細川氏VS将軍家 長年にわたる権力闘争
永禄の変の首謀者となった三好三人衆こと三好長逸・三好宗渭・岩成友通。彼らは阿波国(現徳島県)を本拠地にしていた三好氏の重臣でした。三好長逸は三好一族の長老的存在で、松永久秀とともに三好師を支えてきた人物。三好宗渭はもともと長慶と敵対していた細川晴元の家臣でしたが、永禄元年(1558年)に長慶の家臣に下りました。岩成友通は出自不明で、畿内で登用された後頭角を現した出世頭の人物です。このほか、松永久通は松永久秀の息子で、永禄6年(1563年)に久秀から家督を譲り受けて三好氏に仕えていました。つまり永禄の変は三好氏が将軍家に反旗を翻した事件でした。
三好氏といえば、永禄の変のメンバーの一世代前に当たる、「戦国初の天下人」こと三好長慶(1522~1564)が有名ですが、そのころから三好氏は権力争いに参加していました。明応2年(1493年)4月に京都で起きた「明応の政変」により、首謀者の細川政元が政権を奪取し、将軍家は義稙流(10代将軍)と義澄流(11代将軍)に分かれて敵対することになります。政権を握った政元が後継者問題のせいで永正4年(1507年)6月に暗殺されると、細川氏は内部分裂し、数十年に渡って家督を巡って争い続けることになります(両細川の乱)。これに2派に分裂した足利家の将軍位争いも絡み、非常に複雑な対立構造が生まれるのです。
三好氏はこの細川氏に応仁の乱のころから仕えており、内乱時は三好氏のトップ・三好之長が細川澄元に付き従いました。之長の死後は孫の(息子説も)三好元長が澄元の息子である細川晴元を主君に仰ぎ、細川氏内の掌握のため晴元を支えます。
細川氏の内乱は晴元が政権を奪取して終了。元長は晴元の政敵・細川高国を討ち取るなど活躍を見せましたが、その後の方針を巡って晴元と対立してしまいます。加えて元長の躍進を妬み失脚させようとする、同族の三好政長をはじめとした家臣たちの動きもあり、関係は徐々に悪化の一途をたどることに。結局晴元は元長を排除しようと暗躍し、本願寺の一向一揆を動かしました。その結果、享禄5年(1532年)には元長は一向一揆に攻め込まれて自害に追い込まれました。
その跡を継いだのがわずか10歳だった三好長慶です。晴元の予想よりも力をつけた一向一揆と晴元の和睦を仲介し、一向一揆の拠点をつぶすなど大活躍を見せます。その後は晴元に仕えつつも虎視眈々と下極上を狙って力を貯えました。天文17年(1548年)、晴元に三好政長討伐を願い出ますが、晴元は許可しませんでした。このため長慶は以前敵対していた細川氏綱らと手を結んで晴元に反旗を翻します。そして天文18年(1549年)6月の江口の戦いで勝利し、細川晴元と、晴元と手を組んでいた足利義晴・義輝親子を京から追い出すことに成功。そのまま畿内を制圧し、三好政権を樹立したのです。
権力争いのさなか、足利義輝は?
三好氏と細川氏の争いのなか、天文5年(1536年)に生まれたのが13代将軍の足利義輝。12代将軍の足利義晴の嫡男として誕生した義澄流の人物で将軍です。義輝が誕生した当時、細川晴元と義晴の間で権力争いのための戦が盛んにおこなわれており、義晴は京と拠点の近江国(滋賀県)を行ったり来たりする日々を過ごしました。
そんななか、天文15年(1546年)に義晴は将軍位をまだ11歳だった義輝に譲ります。義晴の計画としては、自分が健在のうちに将軍位を息子に譲り、義輝の後見につく計画だったようです。ちなみに義晴自身も11歳の時に将軍位を継いでおり、自らの先例にならったとも考えられています。
義晴は江口の戦いで近江国に落ちのびた後、京を奪還しようと活動を続けますが、天文19年(1550年)5月に近江国で病没してしまいます。跡を継いだ義輝は細川晴元とともに何度も京を奪還しようと攻めのぼりますが、結局失敗。数度の戦の後、天文21年(1552年)には六角定頼・義賢のとりなしにより、三好長慶と晴元・義輝は和睦します。晴元は氏綱に家督を譲って出家し、その代わりに息子の聡明丸(細川昭元)を取り立てること、義輝が上洛することが和議の条件でした。これにより1月末に、義輝はついに京を訪れることになります。
これで万事解決、と思いきや、晴元は和睦に納得していなかったようでその後も長慶と争い続けます。義輝も晴元と通じ、天文22年(1553年)には戦を仕掛けますが結局ぼろ負け。義輝は近江国に逃走し、再び京奪還に向けて動き出します。そして永禄元年(1558年)11月にようやく両者は和睦。この時とりなしたのは六角義賢で、三好氏有利の戦いに義輝を援助しきれないと考えたことから和睦をはかったといわれています。こうして義輝は5年ぶりに京に戻ることになりました。
義輝、京で幕府の権威を高める
足利義輝を受け入れた三好長慶は、形式上は13代将軍である義輝に仕えます。義輝は長慶に御供衆の格式を与え、将軍の直臣としました。とはいえ幕政の実権を握っているのは長慶です。
その後、義輝はこうした状態から脱却するため、戦国大名たちの紛争を調停し、幕府の要職を与えるなどして幕府の権威の回復に努めていきます。実権は長慶にあったものの、幕府は一定以上の存在感を示していました。また、このころ織田信長や上杉謙信が上洛して義輝と謁見しています。
さらに幕府の訴訟裁判や財政を担当する政所のトップ・執事の座を伊勢貞孝から奪い、永禄7年(1564年)に義理の伯父である摂津晴門に与えます。伊勢氏は以前より政所執事を歴任してきた由緒正しい家柄で、貞孝も本来であれば義輝に従うべき存在した。ところが義輝が三好長慶と敵対して都落ちしている最中、三好方に通じて生き延びます。さらに、六角氏の反乱の際に義輝と長慶が戦っている間、六角氏が占領した京にとどまり続け、勝手に裁判をおこなったり徳政免除をおこなったりと問題行動を起こし続けたため、永禄5年(1562年)に更迭されました。伊勢貞孝はその後京都の船岡山で挙兵しますが、敗れて戦死しています。
この伯父に政所執事を任せるということは、将軍権力の回復にとって大きな意味がありました。室町幕府第3代将軍の足利義満以降、長きにわたって政所執事を世襲してきた伊勢氏の力は大きく、政所は将軍といえども支配が及ばない場所だったからです。ところがこうした義輝の行動は三好氏の警戒を招くことになります。将軍はあくまでも傀儡的存在であり、実権は自ら握る、これが三好氏の考えだったからです。
将軍家と三好氏の関係がきな臭くなってくるなか、永禄7年(1564年)に長慶が病死。実はこの数年前から三好氏のキーパーソンたちが次々と死んでおり、前年の永禄6年(1563年)には息子の三好義興も急病で死亡しています。
三好長慶の後を継いだのは長慶の甥にあたる義継でした。わずか14歳の義継の後見となったのが三好三人衆と、三好氏の重臣・松永久秀です。彼らにとって、三好家の主柱だった長慶の死をチャンスと見て、政治活動を活発化させて権力を得ようと動く足利義輝は邪魔な存在でした。このため、彼らはついに実力行使に出るのです。
永禄の変勃発、三好三人衆らが御所襲撃
永禄8年(1565年)5月19日、三好義継と三好三人衆、松永久通は京都二条御所を約8000(1万とも)の兵士で取り囲みます。永禄の変の勃発です。三好方は当初、「将軍に訴訟(要求)がある」と訴状を出して取次を求めていますが、取次を担当した進士晴舎を待たず御所に侵入し、戦が始まります。このため進士晴舎は敵の侵入を許してしまった責を自ら負い、足利義輝の前で切腹しています。また、ルイス・フロイスの『日本史』によれば、進士晴舎は取次の書状に自らの娘(=義輝の側室・小侍従局)の殺害を要求する内容が書かれていたため激怒して切腹したそうです。
なお、この訴訟ですが、単なる方便とも、当初は本当に訴え、つまり、臣下が将軍の御所を軍事的に包囲して要求や異議を申し立てる「御所巻」のつもりだったのか、はっきりとわかっていません。
もともと、当時の史料から三好義継は5月19日、清水寺に参詣する予定だったものの、急遽変更して御所を包囲しています。参詣はカモフラージュだったのか何か突発的な事態が起きたのか。なぜこのタイミングで変を起こしたのか、はっきりとわかっていないのが現状です。
さて、当日御所内では激戦が繰り広げられましたが、とくに義輝側は大奮戦。十数名で数十人を討ち取っています。一方義輝は約30名残っていた近臣たちと最期の盃を交わした後、三好軍に討って出ました。近臣たちが次々と討死・自害するなか、義輝も自ら薙刀や刀をふるって奮戦しましたが多勢に無勢。結局討死しました。享年30歳。辞世の句として「五月雨は 霧か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」が伝わっています。
このほか、義輝の正室で近衛稙家の娘でもある大陽院は近衛家に送り届けられて無事でしたが、義輝の母・慶寿院(近衛稙家の妹)は自害に追い込まれます。小侍従局は身を隠していたところを捉えられ斬首されました。
なお、将軍側は三好氏を警戒し、数年前から御所周辺の堀や土塁の補強工事をおこなうなどしていましたが、永禄の変はそんな工事の終了する前に起こりました。また、『日本史』によれば、義輝は前日に御所を脱出しようとしていますが、近臣たちは「将軍が逃げるとは権威が失墜する!」と反対。こうした近臣たちの説得により、義輝は御所に戻っています。三好氏の襲撃を予感していたのでしょうか。
『剣豪将軍』の伝説的な立ち回りは創作?
義輝の死については大変ドラマチックなエピソードが残されています。義輝は剣豪・塚原卜伝の直弟子として伝わっており、剣聖・上泉信綱にも師事したことがある人物。塚原卜伝からは奥義「一之太刀」を伝授されたという話まで伝わっており(真偽は定かではない)、「剣豪将軍」の異名を持っています。
義輝の死の様子についてははっきりとはわかっていません。もっとも華々しい書き方をしているのが頼山陽による『日本外史』です。このなかで義輝は自らの周囲の畳に秘蔵の名刀を突き刺しておき、敵を切って血や脂で切れ味が悪くなった名刀を捨てては新しい刀を引き抜いてまた戦うという、すさまじい奮戦ぶりを見せています。『日本外史』は江戸時代後期のものですからこれはさすがに創作でしょう。
『日本史』によれば、義輝は薙刀や刀をふるって奮戦するも、敵の武器で傷つき地面に倒れたところを一度に襲い掛かられて殺害された、とのこと。また、フロイスが事件の直後に書いた書簡によれば、義輝は腹に槍傷、額に矢傷、顔に刀傷を受けた結果亡くなったそうです。このほか、槍で足を払われて倒れたところを上に障子をかぶせられたあげく刺殺された、観念して最終的には切腹した、などの説もあります。
多くの人が非難した義輝殺害
永禄の変は世間にどう受け止められたのでしょうか。将軍が家臣に殺害されるという事件を知った人々は驚くとともに、首謀者の三好三人衆と松永久通を非難しました。上杉謙信(当時は義輝の「輝」の字を貰い輝虎)は大激怒し、「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓いを立てています。朝倉義景も「前代未聞」と憤慨。三好氏と敵対していた畠山氏の重臣・安見宗房は謙信の家臣に弔い合戦を促すほど怒りを表しました。
正親町天皇は3日間政務を停止し、義輝に「従一位左大臣」を追贈。公家で日記『言継卿記』の作者である山科言継は「言葉がない。前代未聞の儀」と書き残しています。天皇・公家側にもかなりの激震が走ったようです。
義輝の死は民衆たちにも悲しまれました。永禄10年(1567年)2月には追善のための六斎念仏がおこなわれ、7.8万人の群衆が義輝の死を悼んでいます。
ちなみに、永禄の変の黒幕は松永久秀という説や、足利義輝を殺したのは久秀だった!という説があります。こちらは江戸時代中期に書かれた軍談書『常山紀談』の内容がもとになった説ですが、永禄の変の発生当時、久秀は大和国(奈良県)におり、永禄の変には参加していません。
永禄の変後の三好三人衆と松永久秀・久通
永禄の変後、三好三人衆と松永久秀・久通との間に対立が起こります。三好三人衆は足利義輝の後釜として、当初の計画通り足利義栄(後の14代将軍)を擁立。一方、松永久秀・久通は足利義輝の弟で出家していた一条院門跡の覚慶(後の15代将軍足利義昭)を幽閉するかたちで押さえていました。殺害しなかった理由としては何らかの手駒として利用できると考えていたからでしょうか。その後、久秀は細川藤孝ら幕臣の調略を受け入れ、覚慶を逃がします。三好三人衆はこれを攻めて久秀を排除しようと動き、両者の間で権力闘争が起こります。
その後、三好三人衆についていた三好義継が久秀に寝返り、永禄10年(1567年)には東大寺が焼失する原因となった「東大寺大仏殿の戦い」が勃発。両者は畿内の各地で衝突を繰り返すことになります。
そんななか、義栄と覚慶の間で将軍跡継ぎ争いが勃発。朝廷は「先に上洛したほうが将軍になる」と宣言しますがごたごたのあまり上洛は果たせません。そこで財政難の朝廷は先に100貫献金したほうを将軍に据えることを決定。結果として義栄が14代目の将軍に就任しました。とはいえ情勢が不安定なままなので、上洛はできていません。
一方、久秀は織田信長に接近。覚慶も庇護を受けていた朝倉義景が動かないことから見限り、信長と手を組みます。そして永禄11年(1568年)、義昭と信長は上洛戦に臨みます。信長は三好氏ら敵対勢力をなぎ倒しつつ京に向かい、見事上洛に成功。義昭は10月18日、15代将軍に就任するのでした。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。