紀州征伐織田信長・豊臣秀吉vs雑賀衆・根来衆

紀州征伐

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事件簿
事件名
紀州征伐(1577年〜1585年)
場所
和歌山県・三重県
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和歌山城

和歌山城

太田城

太田城

岸和田城

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戦国時代の「紀伊国」というと何をイメージしますか?紀伊国は現在の和歌山県と三重県の一部に該当する地域ですが、高野山や熊野三山など有名な観光地が目白押し。戦国最強の鉄砲傭兵集団と名高い「雑賀衆」もここで暮らしていました。そして天下統一を目指す織田信長や豊臣秀吉も、それぞれ天正5年(1577年)と天正13年(1585年)に紀伊国に侵攻する「紀州征伐」を起こしています。雑賀衆の守る紀伊国を信長と秀吉はどのように攻めたのか。今回は2度に渡る「紀州征伐」について、詳しく見て行きます。

紀伊国とはどんな国だったのか?

紀伊国(紀州とも)は現在の和歌山県と三重県南西部にあたる地域です。守護は畠山氏でしたが、畠山氏の独裁ではなく、いくつかの宗教勢力による自治体が集まった「共和国」のような存在でした。具体的には高野山、熊野三山、粉河寺、根来衆(根来寺)、雑賀衆(一向宗、浄土宗、真義真言宗)の5つの勢力が宗教都市を作って各地域を統治しており、ルイス・フロイスも紀伊国を「大いなる共和国的存在」として紹介しています。寺社がそんなに力を持っていたの?と思いますが、当時の寺社は僧兵を有しており、武力行使も可能。紀伊半島はもともと山々が多く、人が住む場所は限定的だったため、余計に共和国的要素が強まったのかもしれません。

このうち紀州征伐に大きくかかわってくるのが雑賀衆と根来衆です。雑賀衆は戦国最強の鉄砲傭兵集団として有名ですが、現在の和歌山市と海南市の一部あたりに広がっていた「雑賀の里」に住んでいました。雑賀の里は紀ノ川の河口部の十ヶ郷と雑賀荘、内陸部の中郷、宮郷、南郷の5つのブロック(惣)に分かれていました。よくまとめて「雑賀衆」と言われますが、十ヶ郷と雑賀荘は川や海を活用した漁業・海運業や商業が中心で、一向宗の信者が多い地域。一方の内陸3ブロックは農業が中心で、根来寺の真義真言宗の影響が強い地域でした。このような違いもあり、雑賀衆は決して1枚岩ではありませんでした。

一方の根来衆は紀伊国北部、現在の岩出市を中心にした新義真言宗の総本山・根来寺の僧兵集団です。高野山の真言宗と争っていたため武装化が進み、雑賀衆と同じく鉄砲を活用しています。

信長による「第一次紀州征伐」はなぜ起きたのか

そんな複雑な情勢の紀州に対し、天正5年(1577年)に大規模侵攻を実施したのが織田信長です。そのきっかけは元亀元年(1570年)9月から天正8年(1580年)8月まで行われた、一向宗・本願寺対信長の「石山合戦」。石山合戦の際、雑賀衆は本願寺につきました。これは雑賀荘・十ヶ郷に一向宗の信者が多かったことが関係しています。

雑賀衆は本願寺の拠点・石山本願寺に助力に駆けつけ、鉄砲を駆使して信長軍を苦しめます。なにしろ雑賀衆は「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」と言われた傭兵集団。信長が苦戦するのも無理はありません。

この時活躍した雑賀衆が、かの有名な通称「雑賀孫市(孫一)」です。本当の名前は「鈴木孫一」で、十ヶ郷の有力者・鈴木家のトップが名乗る名前でした。この時期の「鈴木孫一」は「鈴木重秀」という人物だったと推定されています。孫一は天正4年(1576年)の天王寺合戦で数千の鉄砲で信長を苦しめ、その直後の第一次木津川口の戦いでも毛利・村上水軍とともに活躍。作戦のほとんどは雑賀衆が立てたと伝わっています。

こうした状況に対し、信長がとったのは雑賀衆の切り崩し戦略でした。水運を活用して物資の補給拠点となっていた雑賀を抑え、本願寺の戦力を削ごうと考えたのです。

そして信長は一向宗ではない内陸部の中郷・宮郷・南郷を調略により寝返らせることに成功。そして残る雑賀荘・十ヶ郷に対しては10万(15万とも)の大軍を派遣します。これが第一次紀州征伐です。

第一次紀州征伐①雑賀衆、信長に対し1ヶ月粘る!

天正5年(1577年)2月、織田信長は寝返った雑賀衆の3ブロックに加え、以前から信長に協力していた根来衆の協力のもと、10万の大軍を率いて雑賀の里を攻めます。嫡男の織田信忠や豊臣秀吉、堀秀政、滝川一益、明智光秀、筒井順慶、佐久間信盛なども参加した大掛かりな戦です。対する雑賀衆はわずか2000程度。あっという間に決着がつくかと思いましたが、ここでも鈴木孫一は奮闘。罠を駆使したゲリラ戦で1ヶ月間戦い続けました。

信長軍は信達(大阪府泉南市)に本陣を置き、そこから海沿いに南下する浜手と内陸を行く山手の2つに軍を分けました。浜手軍は孝子峠を通って雑賀方の中野城を包囲し開城させます。

一方の山手軍は風吹峠を通過して紀ノ川を渡り、雑賀衆の本拠地・雑賀城の東側、雑賀川(和歌川)を挟んだところに布陣。その後、先発隊の堀秀政は雑賀城を攻めるために雑賀川を渡りはじめましたが、雑賀衆はあらかじめ川底に逆茂木や槍先、壺や桶などを埋めていました。ただでさえ渡りにくい川に罠があり、信長軍は大苦戦。何とか渡って疲れ切った兵士に雑賀衆の鉄砲や弓が炸裂し、信長軍は大損害を受けました。

その後雑賀衆はゲリラ戦を継続し、なんと1ヶ月も信長軍に対して粘ります。しかし結局は多勢に無勢。孫一は土橋守重など有力者6名と相談し、信長に降伏を誓い、信長はこれを了承しました。信長としては本願寺や毛利と敵に囲まれており、雑賀衆のみに力を注いでいる場合ではなかったのです。

続く雑賀衆の内乱

一度は和睦した信長と雑賀衆でしたが、半年後の天正5年(1577年)7月、孫一らは信長に寝返った3ブロックへの報復を始めます。これに対し信長は佐久間信盛らが率いる7万(8万とも)の軍を再び派遣しましたが制圧に失敗。両者は再び和睦を結びました。

その後孫一は、3ブロックの中心人物・太田左近の太田城を攻撃(第一次太田城の戦い)しましたが1ヶ月の攻防の結果決着がつかず、和睦が結ばれました。その後左近は本願寺に謝罪して赦免されています。雑賀衆が内輪もめをしているうちに信長は天正8年(1580年)8月に本願寺と和睦。こうして雑賀衆も対信長戦を終了したのでした。

その後、孫一は信長に接近。これに対し、土橋守重が反信長の姿勢を貫いたため、雑賀衆内部でまたもや争いが起こり、天正10年(1582年)1月には孫一が守重を暗殺。こうして雑賀衆内の争いは一段落し、雑賀衆は信長の配下についたのですが…。

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が発生。これにより、雑賀衆を中心とした紀州は再び戦に巻き込まれ、徐々に衰退していくことになるのです。

第二次紀州征伐①秀吉との戦いはなぜ起きた?

天正10年(1582年)、「本能寺の変で織田信長が倒れた」との知らせを受け、鈴木孫一はすぐさま雑賀から逃亡。一方で力を取り戻したのが反信長派の土橋氏でした。土橋氏はもともと根来寺と関係が深かったこともあり、根来衆との関係を強化。さらに宮郷ら内陸部の雑賀衆とも関係を修復します。

一方、尾張国(愛知県)では清須会議が行われ、信長の後継者争いが加速していきました。天正12年(1584年)には豊臣秀吉対徳川家康・織田信雄が争った「小牧・長久手の戦い」が発生。この際、雑賀衆や根来衆、粉河衆は徳川家康につき、秀吉の留守の間に大坂方面に攻め込み、大坂の城下町を焼き払い、秀吉軍に大きな損害を与えました。一方、鈴木孫一は秀吉に仕え、鉄砲頭として小牧・長久手の戦いに参戦しています。なお、このころの「鈴木孫一」は鈴木重秀ではなく、息子の鈴木重朝と推察されています。

小牧・長久手の戦いは結局両者の和睦で落ち着きましたが、事実上秀吉の天下が決定。そして秀吉は小牧・長久手の戦いで敵対し、今だ宗教勢力が強い力を持つ紀伊国を平定しようと、大軍を派遣することを決定したのです。

第二次紀州征伐②和泉国・千石堀城の戦い

天正13年(1585年)2月、豊臣秀吉は紀州征伐をスタートします。まずは3月20日に秀吉の甥の豊臣秀次が3万の兵と出陣。翌日21日には秀吉自ら指揮を執り10万人の兵士とともに出発します。陸は浦手・山手の2方面から進軍し、小西行長率いる水軍も出撃して海陸両面で紀州の根来衆・雑賀衆を滅ぼそうという作戦でした。21日、秀吉は岸和田城(大阪府岸和田市)に入城しました。

一方の根来衆と雑賀衆たちは岸和田城の南に築いた畠中城、沢城、積善寺城、高井城、千石堀城(すべて現大阪府貝塚市内)といった支城を防衛線と位置づけ、約9000の兵と鉄砲で秀吉軍を迎え撃ちます。

いくつかの支城のうちもっとも激戦となったのが3月21日の初戦・千石堀城の戦いです。豊臣秀次に堀秀政、筒井定次などの秀吉軍に対し、根来衆の大谷左大仁らが率いる約1500の兵が迎え撃ちます。ちなみに城には非戦闘員が4000人から5000人程度いたそうです。

攻める秀吉軍に対し、根来衆たちは城内から火縄銃や弓を活用して次々と秀吉軍の兵を討ち取ります。なんと秀吉軍は1000人以上の死者を出したそうです。戦いは長期化しそうでしたが、筒井勢の放った火矢が城内の火薬庫に火をつけて大爆発が発生。それをきっかけに城は落城しました。千石堀城をきっかけに他の城も次々と落城・開城し、和泉国南部を制した秀吉軍はさらに南下。いよいよ紀伊国に侵入します。

第二次紀州征伐③根来寺・粉河寺・雑賀の里が炎上

続いて秀吉軍が向かったのは根来衆の本拠地・根来寺でした。根来衆たちは戦のために支城に移動しており根来寺にほとんど戦力を残していなかったため、根来寺は3月23日、あっさり制圧されてしまいます。さらにその夜、根来寺で火事が発生。3日間燃え続け、根来寺は本堂や大塔など一部の建物を残し焼失してしまいました。火事の原因は秀吉軍にあったとも根来衆にあったとも言われており、はっきりわかっていません。なお、粉河寺も3月23日(または24日)に炎上しています。

秀吉軍は雑賀の里にも迫っていました。これを受けて3月22日、雑賀衆の中でまたも裏切りが発生します。岡衆が秀吉軍に寝返り、同じ雑賀衆の湊衆を銃撃したのです。これにより雑賀の里は大混乱に陥ります。雑賀衆のリーダーを務めていた土橋重治は同盟相手だった長曾我部元親を頼り逃走しました。こうして雑賀衆は散り散りになってしまったのです。

そして3月23日に秀吉軍の先発隊が、24日に秀吉率いる本隊がそれぞれ雑賀に到着。秀吉軍は雑賀衆を掃討し、湊など雑賀の里の各地に火を放ちました。こうして雑賀の里は滅びましたが、雑賀衆の残党は各地で抵抗を続けました。

第二次紀州征伐④太田城、水攻めで陥落

雑賀衆の残党として代表的なのが太田左近です。太田城(和歌山県和歌山市)で5000の兵・民とともに、秀吉軍に対し籠城戦を繰り広げました。太田城は平城ですが、深い堀に囲まれた堅城でした。この城を約6万の秀吉軍が取り囲みます。総大将は豊臣秀吉、副将は弟の豊臣秀長。さらに宇喜多秀家や小西行長などの主力メンバーも参戦しています。

まずは太田城の籠城軍に対し、秀吉方についていた雑賀衆の鈴木孫一らが降伏勧告しますが、左近はこれを拒否して秀吉軍を迎撃。堀秀政らの部隊を鉄砲と弓で翻弄し、53名(51名とも)を討ち取りました。秀吉はこれ以上の被害を防ごう、周囲の川を利用した水攻めを決意します。秀吉の脳裏には1000人規模の犠牲を出した千石堀城の戦いがよぎったに違いありません。

秀吉は明石則実に命じて、紀の川をせき止めて3月25日(26日、28日とも)から堤防工事を開始。計46万9000人を動員し、昼夜問わず工事を進めた結果、わずか6日間で堤防が完成しました。総延長は約6~7km、高さは最大約6m。一週間もしないうちに堤防を作ってしまうあたり、秀吉の力を感じますね。とはいえちょっと盛っている部分もあるようですが…。ちなみに、一度甲賀衆が担当している区画の堤が崩れており、秀吉は関係者を厳しく処分しています。

こうして4月1日には水を入れ始めた豊臣軍。おりしも4月3日から大雨が降り続いたことで水位はあっという間に上がりました。これをチャンスと見た秀吉は安宅船を13隻で城に近づき、鉄砲や矢で攻撃します。一方、籠城軍は鉄砲などで応戦するとともに、泳ぎの上手い兵士が水に潜り、安宅船の底に穴開けて沈没させるというびっくりする作戦を展開し、成功しています。しかも4月9日には堤防の一部を破壊。このため宇喜多秀家の陣営に水が流れ込み、多くの兵士が溺死しました。

秀吉軍に奮戦する左近達でしたが、1ヶ月近く籠城を続ける中で徐々に物資が不足し始めます。そこにきて4月21日、小西行長の水軍が総力戦で城を攻めました。籠城軍は何とか持ちこたえたものの大ダメージを受けます。このタイミングで蜂須賀正勝、前野長康らが使者として太田城を訪れ、開城するよう左近を説得。トップの首を差し出せば残された農民や女子たちは助けるという申し出を受け、4月22日、左近は主だった兵士たち52人と自害し、城は開城しました。

こうして太田城の戦いは終結しました。このとき、左近の妻なども磔処分を受けていますが、関係者以外の雑兵や農民達は助かりました。農民たちを解放する際、秀吉は農具や家財の持ち帰りは認めましたが武器を没収。これが史料上初めての「刀狩」だと言われています。

なお、秀吉が太田城で戦っている間、仙石秀久や小西行長らの別動隊は紀南を制圧。また、高野山については4月10日秀吉が武装解除や多くの寺領の返上など厳しい条件を突きつけ、守らなければ全山焼き討ちすると脅しつつ降伏を進めています。高野山側はこれを受け入れざるを得ませんでした。

太田城の戦い後も、日高や牟婁郡の一部では依然として地元勢力が抵抗しましたが、紀伊国の大半は豊臣秀吉により征服され、秀吉による紀州征伐は成功裏に終了。紀伊国は豊臣秀長が統治することになりました。秀長は藤堂高虎を奉行に据え、拠点として和歌山城(和歌山市)を築城。城代は桑山重晴が就任しました。その後、秀長の死などを経て、紀伊国は秀吉の直轄地となり、完全に豊臣政権の支配下に入ったのです。

関係する人物
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。