大坂冬の陣家康を苦しめた真田丸
大坂冬の陣
江戸幕府を開いた徳川家康が主君筋の豊臣家を滅ぼした戦いが「大坂の陣」です。戦国最後となる大戦は江戸時代に入ってから行われました。慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」と、翌年の「大坂夏の陣」からなる2度にわたる戦いの結果、豊臣家は滅亡し、その後200年超にわたって徳川家が政権を運営していくことになります。今回はそんな大坂の陣のうち、最初の戦いである大坂冬の陣について解説していきます。
関ヶ原の戦いで家康が天下を取る
慶長5年(1600年)9月15日に起きた、石田三成ら西軍と徳川家康ら東軍による「関ヶ原の戦い」は家康の勝利で終結しました。これにより家康は豊臣家五大老筆頭としてさらに力をつけていくことになります。ただし、この関ヶ原の戦いはあくまでも豊臣家内部での重臣同士の戦いであり、両軍とも主君である豊臣秀頼のために戦っていました。
ところが秀頼は関ヶ原の戦いの戦後処理において、222万石あった領地を摂津・河内・和泉国(現在の大坂府~兵庫県南東部)の計65万石に減らされてしまいます。戦後処理を主導したのは家康。これにより豊臣家は大きく力を削がれましたが、権威は引き続き持ち続けました。朝廷は秀頼の官位を上げるなど秀頼を尊重しており、年始には諸大名や公家が秀頼に挨拶をしに来たことが記録に残っています。
豊臣家が驚愕した「将軍は徳川家の世襲制」
慶長8年(1603年)に家康は征夷大将軍の位につき、江戸幕府を開きます。ただし、豊臣家はこの時点では、家康の次は秀頼が政権を引き継ぐものと考えていたようです。そもそも家康は豊臣秀吉の遺言により、「秀頼が国を治めるのにふさわしくなるまで」限定で国政をゆだねられていました。秀吉はお互いの関係強化のため、家康の孫にあたる千姫を秀頼の婚約者に指名しており、慶長8年7月に2人は結婚しています。
ところが、慶長10年(1605年)4月、家康は征夷大将軍の位を秀頼ではなく嫡男の秀忠に譲り、将軍職を徳川家が世襲することを世間に知らしめました。これに豊臣家は「秀吉の遺言に真っ向に逆らうとは何事だ!」と大激怒。なお、家康は朝廷から与えられた官位である「右大臣」については秀頼に譲っていますが、焼け石に水でした。
その後、家康は秀頼に臣下に下るよう働きかけをおこなっており、豊臣家の中心的存在だった秀頼の母・淀殿は大激怒!こうして徳川家と豊臣家の対立は表面化し、徐々に深まっていくことになるのでした。
大坂冬の陣の原因となった「方広寺の梵鐘」
そんななか、両家の争いが戦いにまで発展する決定的な事件が起きました。それが慶長19年(1614年)8月の「方広寺鐘銘事件」です。きっかけは豊臣家がおこなっていた、秀吉の追善供養のための寺社の修復・造営活動。豊臣家は徳川家康により、現在の京都市東山区にある方広寺の大仏殿の再建を勧められていました。
再建が完了した後、豊臣家は慶長19年8月に大仏殿の開眼供養をおこなおうとしましたが、徳川家はこの供養に待ったをかけました。原因は方広寺の梵鐘に彫られた銘文の「国家安康(こっかあんこう)」と「君臣豊楽 子孫殷昌(くんしんほうらく しそんいんしょう)」という文字。「国家安康」については、家康という諱(いみな。生前は通常呼ばれることはない)が書かれており、しかも国と安の字で分断されていることを非難します。
「君臣豊楽 子孫殷昌」については、「豊臣を君主として、子孫の殷に昌なる(盛んに栄える)を楽しむ」という意味があるとやはり非難し、併せて徳川家に対する呪詛なのでは?との疑いまでかけました。揚げ足取りの難癖のようにも見えますが、当時の常識から考えると責められても仕方がない案件だったようで、京都五山の僧たちという宗教的権威のある人々も家康の意見を後押ししています。
攻められた豊臣家は、慌てて直臣で賤ヶ岳の七本槍として知られる片桐且元を家康のもとに派遣し、弁明を試みますが家康は会いません。続いて淀殿の乳母を務めた大蔵卿局を派遣したところ、家康は穏やかに面会。そして9月6日、家康は2人と再度会い、和睦の策を立てるよう要求します。なお、同日には西国諸大名に幕府へ忠誠を誓うという誓詞を徴収しているので、豊臣家との戦がすでに視野にあったようです。
家康の要求を受けた片桐且元は大坂に戻った後、淀殿たちに「秀頼の江戸参勤」「淀殿を人質として江戸に送る」「秀頼が大坂より退去して国替えに応じる」という3つの選択肢を提案します。これを聞いた淀殿は大激怒。且元は豊臣家で裏切り者扱いされ、暗殺計画まで立てられてしまいます。この結果、且元は大坂から去り、徳川方につくことになるのです。
順調に兵が集まる徳川家、浪人をかき集める豊臣家
徳川家康は豊臣家の片桐且元への対応を非難し、それを大義名分として諸大名に大坂への出兵を命じており、結果として約20万の兵が集まりました。家康自身は10月11日に駿府(静岡県静岡市)を出発し、23日に京都の二条城に入ります。この時家康は73歳(72歳とも)と高齢でしたが、大御所として精力的に活躍していました。
他の大名たちといえば、井伊直孝や上杉景勝、伊達政宗、佐竹義宣、藤堂高虎、本田忠政、松平忠直、毛利秀就などそうそうたるメンバーが参加しています。なお、福島正則や黒田長政など、豊臣家との関係が深かった武将たちについては、家康は裏切りを恐れてか江戸城留守居を申しつけています(息子などは参加)。
家康の命を受けた大名たちは江戸から国元に帰って兵を整え、瀬田や大津、京都郊外など指定された集結場所に集まり、戦の準備を進めます。そして11月15日、家康は二条城を出発し、11月18日に先についていた秀忠と茶臼山(大坂府大坂市)の陣城で軍議をおこないました。
一方の豊臣家も戦の準備を進めます。中心となるのは22歳の若き武将・豊臣秀頼と淀殿(46~48歳前後とされている)。淀殿は織田信長の妹・お市と浅井長政の間に生まれた浅井三姉妹の長女で、秀頼を溺愛していました。この淀殿が反徳川家の姿勢を貫いたことで大坂の陣が起きたとも言われています。
豊臣軍は兵糧を買い入れつつも協力者を集めようとしましたが、豊臣家につく大名はいません。徳川家の世襲制による幕府が確立し、所領が安堵されているなかわざわざ徳川家に逆らう理由はなかったからです。関ヶ原の戦いで東軍についた大名たちは家康に従っていたため、仲間に引き込めそうなのは西軍についた改易などにより浪人中の武将たちでした。こうして豊臣家は浪人たちを中心に約10万の兵をまとめ上げました。豊臣家に味方した武将としては「真田丸」で有名な真田幸村に加え、明石全登、後藤又兵衛、長曾我部盛親、毛利勝永などがいます。
数的には徳川家の半分と圧倒的に不利な豊臣軍は徳川軍と戦うのか。難攻不落の堅城として名高い大坂城への籠城を主張する豊臣家直臣の大野治長ら籠城派と、真田幸村率いる畿内を制圧して関東と関西の徳川軍を分断し、長期戦に持ちこんで関西の大名を味方につけるべしという積極派が争いました。そして豊臣軍が選択したのは大坂城での籠城でした。
大坂冬の陣が開戦
そして迎えた慶長19年(1614年)11月19日。「木津川口の戦い」で徳川軍と豊臣軍が激突します。徳川軍は蜂須賀至鎮、浅野長晟、池田忠雄らが参加し、豊臣軍の木津川口の砦を攻めました。本来は3名が協力して攻めるはずが、至鎮が功を焦り抜け駆けした結果、豊臣軍の砦は落ちたものの、焦った浅野軍が川を急いで渡ったために多数の溺死者を出す結果となりました。
その後、大坂城の東北で鴫野の戦いと今福の戦いが発生。博労淵の戦い、野田・福島の戦いと続き、徳川軍が豊臣軍を撃破し次々に砦を奪っていくことになりました。豊臣軍は砦を放棄して大坂城に集合。一方徳川軍は20万の大軍で大坂城を完全に包囲しました。そんな徳川軍の前に立ちふさがったのが、真田幸村です。
徳川軍を退けた真田幸村の「真田丸」
もともと大坂城は守りやすい堅城として知られていました。豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に約15年かけて作り上げた城の築城奉行は「築城名人」こと黒田官兵衛。城は内堀と外堀に囲まれており、5重6階の天守閣は巨大なものでした。さらに北・東・西を川に囲まれているためとても攻めにくい立地です。そんな大坂城の唯一の弱点と言えるのが、地続きの南。真田幸村はここに独立した出城・曲輪の「真田丸」を築いて5000の兵で徳川軍を迎え撃ちました。
この真田丸、冬の陣の後に破壊されてしまうので実際はどういうものだったのか完全に明らかにはなっていません。大坂城の南東にあり、近年の研究によれば定説だった堀に密着した馬出し曲輪ではなく、独立した出城だったようです。背後には200mの深さの谷があり、規模感は最大南北270m、東西280mで東京ドームより少し大きめくらい。本郭に加えて小曲輪があったようです(※研究者により諸説あり)
前には空堀があり、乱杭や逆茂木が進軍の邪魔をします。さらに真田幸村は強力な火縄銃を用意。「狭間筒」という3人がかりで担いで撃つ大型の火縄銃まで用意しています。徳川軍を攻めるための攻撃的な位置づけの出城だったわけです。徳川軍としては真田丸を通過して大坂城を攻めようとすると、横から真田丸の兵に攻められる可能性があります。しかも大きな出城ですから無視しにくいのが現状です。
家康は真田丸を攻めることを決意。前田利家の後を継いだ四男の前田利常ら1万2000が真田丸と対峙しました。この自軍よりはるかに多い敵軍に対して幸村が取った戦略が、真田丸の前にある篠山に前衛を置き、前田勢を挑発しつつ敵を引きつけて一気に叩く作戦でした。
12月4日の夜明け前、篠山から真田軍が銃撃を浴びせたのを受け、前田軍の先発隊は篠山に向かって攻め込みますが、真田軍は撤退した後でした。そのまま真田丸に向かってそのまま進軍すると、真田軍がさらに罵声を浴びせるなどして先発隊を挑発します。その結果、戦わないようにという家康の命令に背き、前田軍の一部は堀に乱入して戦い始めてしまいます。
幸村にとってはまさに作戦通り。十分敵を引きつけたところで真田丸から火縄銃による一斉射撃がスタートされます。さらに大坂城からも銃撃が浴びせられ、現場はパニック状態に。当時の史料によれば、前田軍の本隊が深追いしないようにと使者を10回余りにわたって送るも、前線部隊は戦功を立てようと上級武将が突っ走っており、歯止めがきかない状態だったようです。
しかも、前田軍につられた徳川軍の井伊直孝ら4000と松平忠直ら1万なども、功を焦り攻撃禁止の命令に背いて真田丸近くの八丁目口・谷間地口攻め込みます。実は、たまたま大坂城で火薬庫が爆発する事故が発生しており、徳川軍は、これを味方に引き込んでいた南条元忠のたくらみと誤認していました。実際は元忠は裏切りがばれてすでに処刑されていましたが、そうとは知らない徳川軍は全力で大坂城を攻め、手痛い反撃にあいます。家康による退却の命令で何とか退却しましたが、徳川軍は大損害を受けてしまいました。
これを知った家康は大激怒。各部隊の将を叱責するとともに、大坂城を攻める際は盾となる竹束や鉄盾といった防具を必ず持って攻めるようにと強く命じました。
大坂城への砲撃が情勢を変える
真田丸でぼろ負けした徳川軍でしたが、もともと豊臣軍の買い占めによる兵量不足に悩まされていました。実は真田丸の戦いの前の12月3日から、豊臣軍に対し秘かに和平交渉を試みていますが、うまくいっていませんでした。
真田丸の戦い後は夜間の攻撃で敵の不眠をまねくなどの対策を取り、12月16日から大坂城の一斉砲撃を開始して心理的に豊臣軍を揺さぶります。これに対して火縄銃で対抗する豊臣軍ですが、彼らは兵糧と弾薬不足、連日のように続く砲撃で次第に精神的に追い詰められていきました。しかも、豊臣軍のキーパーソンである淀殿の侍女8名が砲撃により死亡。淀殿は大きな衝撃を受けます。この結果、両者は和平交渉をすすめ、12月18日に和平が成立しました。
和平交渉の結果、大坂城は丸裸に
和平交渉の結果、豊臣家・徳川家双方の申し出により、以下の通りの内容が決定しました。
- 大坂城の外堀を埋め、総構(城の周囲の囲い)と「二の丸」と「三の丸」を撤去。真田丸も破却する
- 淀殿の代わりに豊臣家家臣の大野治長と茶人の織田長益を人質に出す
- 豊臣秀頼の身の安全の保証と本領安堵
- 豊臣家に味方した浪人たちの罪は問わない
大坂城の防備の要である堀を埋めること、攻撃の要だった真田丸を破却することを豊臣家が承諾してしまったのが、豊臣家にとって後々まで響く大きな失策となりました。二の丸関連の埋め立ては豊臣軍、三の丸と外堀関連の埋め立ては徳川軍が担当することになりましたが、徳川軍は速攻かつ容赦なく作業を進めます。しかも豊臣家はわざとゆっくり工事を進めていたため、徳川軍が二の丸の破壊と埋め立てまで実施。結果、大坂城は丸裸になってしまいました。なお、「徳川軍が勝手に内堀の二の丸や三の丸まで埋め立ててしまった」という説もありますが、現在の学説ではほぼ否定されています。
そして大坂夏の陣へ
大坂城が丸裸になった豊臣家ですが、以前として浪人たちを城内に留めていました。そして家康が駿府に戻った後、埋められた掘を掘り戻し、城壁を修理するなど城を整え始めます。こうした動きや慶長20年(1615年)に浪人たちが町で事件を起こしたことなどから、徳川家康は豊臣秀頼に対し、浪人の解雇と、大和(奈良県)から伊勢(三重県)への国替を求めました。豊臣家はこの要求を拒否。そして再び豊臣家と徳川家は対立し、4月に大坂で再び争いが始まるのでした。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。