本能寺の変(2/2)明智光秀が謀反?謎に包まれた織田信長の死

本能寺の変

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事件簿
事件名
本能寺の変(1582年)
場所
京都府
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二条城

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勝竜寺城

勝竜寺城

関係する人物
【怨恨説】
古くから唱えられている説。家康の安土城訪問の饗応の際、魚が腐っていたことに信長が激怒して光秀を饗応役から外したこと、饗応に手抜かりがあったとして信長が光秀を折檻したこと(いくつかの文献にはほかにも宴席での折檻エピソードがあります)などで光秀が信長を恨んでいたというものです。
また、光秀が丹波国八上城(兵庫県丹波篠山市)を攻めたとき、せめあぐねた光秀は敵方の波多野氏に自分の母親を人質として預け、波多野秀治などの身の安全を保証したうえで降伏させました。ところが信長は波多野一党を処刑してしまい、光秀の母は殺されてしまったというエピソードが残っています。これを怨恨説の根拠に挙げる歴史家がいますが、こちらは後世の創作という説が有力のようです。
【野望説】
こちらも古くから唱えられている説で、太田牛一も光秀は天下が欲しくて信長を討ったと主張しています。野望説によれば、そもそも光秀は武田勝頼と内通して信長を倒そうとしていたとのこと。また、『愛宕百韻』のエピソードも野望説の根拠として挙がっています。
【政策上の対立説】
政策上の対立説としては、信長が光秀の領地である近江国坂本と丹波国を召し上げ、出雲国・石見国を与えるという国替えを命じたことに不満を持った(江戸中期成立の『明智軍記』より)といった説もありますが、最近注目されているのが信長の四国への方針転換での対立が原因という説です。
もともと信長は四国で土佐国(高知県)を治める長宗我部元親とは友好関係を築いており、信長は四国統一を目指す元親に対し「四国は切り取り次第領土に加えてよい」と許可していました。ところが天正9年(1581年)、信長が阿波国の三好氏よりに政策を転換。秀吉経由で三好氏が信長に下ったことで、中国の毛利攻めに三好氏の水軍が活用できるようになったことなどがその理由です。
信長は元親に対し、伊予と讃岐を信長に返し、土佐と阿波南半分は元親に与えるという通達を出しましたが、以前切り取り次第の許可を得ていた元親は当然納得しませんでした。こうして両者の中は悪化し、信長は四国征伐を計画することになるのです。これにダメージを受けたのが信長と元親の取次役をしていた光秀でした。光秀は元親と縁戚関係になり、家臣たちの間でも交流がありました。光秀の重臣・斎藤利三は義妹を元親に嫁がせています。光秀としては長曾我部家を攻めるわけにはいかなかったのです。
【精神的な理由説】
こちらは、信長と光秀の性格の不一致や、周囲が粛清されていくことへの不安、さらにストレスからノイローゼになって冷静な判断ができなかったという説です。四国征伐による信長と元親との間で板挟み状態にあったことや、究極のパワハラ上司ともいえる信長からの折檻などにより精神的に追い詰められたというのは、ある意味ありそうですね。
【暴君討伐説】
こちらも精神的な理由と少し似ていますが、とにかく信長は傲慢かつ短気、激情家で残忍かつ冷酷な決定をすることのあった人物。比叡山の焼き討ちや一向一揆の農民惨殺などのエピソードなどから、義に反した信長に光秀が不信感を持ち、正義のために信長を討ったというのです。割と好まれる説ですが、どうも感情論的過ぎてそれだけではないのでは?と思わされる説です。

主犯存在・黒幕存在説

実行犯は光秀以外にいたという話や光秀の背後には黒幕がいた、という説です。

【主犯存在説】
羽柴秀吉、斎藤利三、徳川家康&伊賀忍者実行犯説などがあります。秀吉が偽の明智軍をしつらえて信長を討ったという説もありますね。
【黒幕存在説】
羽柴秀吉、徳川家康に加え、足利義昭、朝廷、イエズス会、毛利輝元などたくさんの人々(組織)の名前が黒幕として挙がっています。

2つの説のうち主だったものについて解説すると、羽柴秀吉説は本能寺の変発生後、備中高松城攻めから京都に戻る、「中国大返し」の反応速度のあまりの速さから「本能寺の変は秀吉のマッチポンプなのでは」というもの。徳川家康については、天正7年(1579年)に長男の信康を信長により自害させられたことの恨みや、家康殺害計画に気づいた家康が光秀と共謀した、という説があります。斎藤利三については、四国討伐のところでも述べましたが、縁戚関係にある長曾我部家を守るために光秀をそそのかしたという内容です。

また、朝廷黒幕説については、信長が正親町天皇に譲位を強要するなど、朝廷の権威をないがしろにしてきたことを原因とみており、当時の公家たちの日記などがもとになっています。足利義昭黒幕説については、義昭と秀吉が連絡を取り合っていたことが論拠になっています。2017年に見つかった本能寺の変の後、光秀が書いた手紙には「義昭が上洛することは以前から知っています」と書かれており、本能寺の変以前から2人が連絡を取り合っていたと推察できます。

いずれの説もこれが真実だ!といった決め手はありませんが、いろいろな証拠を探して論を展開しており興味深いものばかり。たくさんの本が出ているので、興味がある方は是非読んでみてください。ちなみに、2020年には光秀が築いた福知山城がある京都府福知山市と官民連携組織が「本能寺の変原因説50 総選挙」を開催しており、約1ヶ月の投票期間に3万件超の投票が集まりました。その順位は以下の通りになっています。

  1. 暴君討伐説
  2. 羽柴秀吉黒幕説
  3. 怨恨説
  4. 野望説
  5. 羽柴秀吉実行犯説
  6. 長宗我部元親関与説
  7. 複合説
  8. 朝廷黒幕説
  9. 突発説
  10. ノイローゼ説

秀吉の「中国大返し」に敗れた光秀の「三日天下」

こうして本能寺の変で織田信長を討ち取った明智光秀。安土城も抑えて天下を取ったかに思えますが、そうはうまくいきませんでした。信長を討った後、縁戚や味方に協力を呼びかけますが、娘のたま(細川ガラシャ)が嫁いだ細川忠興は父の藤孝とともに剃髪して信長の死を悼むという形で協力を拒否。光秀は必死に説得しますが協力を得られませんでした。光秀の与力大名で当然味方に付くだろうと思っていた筒井順慶も迷った結果、最終的には羽柴秀吉につきます。そうこうしているうちに秀吉が京都に戻ってきてしまい、光秀は結局1万6000の兵と共に秀吉と山崎の戦いで争うことになるのです。

一方秀吉の動きですが、6月3日の夜(4日早朝とも)に本能寺の変の知らせを受け取るや否や、即座に備中高松城攻めを中止。毛利輝元と和平を結んですぐに京都に取って返します。約2万の軍を率いた「中国大返し」では、約200kmを10日間で駆け抜けました。そして6月13日、最終的には4万にも膨れ上がった軍を率いた秀吉は「主君の仇討ち」という大義名分のもと、摂津国と山城国の堺にある山崎(京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺城(京都府長岡京市)周辺で光秀と戦い、見事明智軍を破りました。

敗れた光秀は本拠地である近江国坂本城(滋賀県大津市)に戻ろうとするも、途中で農民の落ち武者狩りにあい死亡。小栗栖で竹やりに刺されたとも、醍醐付近で討ち取られたとも伝わっており、首は秀吉により京都の本能寺や粟田口に晒されました。こうして光秀の天下はわずか11日、12日間で終了。ここから「三日天下」という言葉ができました。一方の秀吉はその後、信長の後継者としての存在感を強め、最終的には天下を統一するに至るのです。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03