姉川の戦い怒れる信長、浅井・朝倉に猛攻撃!

姉川の戦い

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
姉川の戦い(1570年)
場所
滋賀県
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長浜城

長浜城

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元亀元年(1570年)6月28日、近江国の浅井郡の姉川(滋賀県長浜市)で織田・徳川軍と浅井・朝倉軍が激突したのが「姉川の戦い」です。織田信長が金ヶ崎の戦いで朝倉義景を攻略している途中、浅井長政の裏切りにあったために京に撤退した後、岐阜で体制を整えて浅井・朝倉軍に再戦を挑んだ戦いですが、信長は大苦戦したものの勝利を収めた、というのが通説です。果たして実際はどうだったのか、詳しく解説していきます。

織田信長と浅井長政は義兄弟!当初は仲良し?

今回の合戦の主役、織田信長と浅井長政が義兄弟の関係にあったことは有名です。信長は妹で戦国一の美女と名高いお市を浅井長政に嫁がせました。嫁いだ時期ははっきりしておらず、永禄4年(1561年)、永禄7年(1564年)、永禄10年(1567年)など諸説あります。その目的も「美濃の斎藤氏攻略のため」「京に上洛するために通過する近江国と同盟を結びたかったため」と、婚姻を結んだ当時の信長の状況により分かれています。

浅井家としては、宿敵である南近江の六角氏が斎藤氏と同盟を結んでいたことから、斎藤氏と敵対している信長と同盟を結ぶことはメリットがありました。とはいえ以前から同盟関係にある朝倉氏と信長は敵対しており、同盟に反対する家臣もいました。結局、長政は信長と同盟を結ぶことを決意しますが、その際「朝倉家への不戦の誓い」を条件にしています。

信長は長政のことを評価していました。お市が嫁ぐ以前、長政は「浅井新九郎」という名前でしたが、結婚を機に信長の名前から一字貰い「長政」に改名。信長は大いに喜んだそうです。信長は本来なら浅井家が負担すべき婚姻の費用を全額負担しています。長政の心中は分かりませんが、お市とはとても仲が良い夫婦だったことから、お市の兄である信長のことを悪くは思っていなかったのではないでしょうか。

信長と足利義昭の上洛を長政が手助け

浅井長政は永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際にも協力しています。この上洛は永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍の足利義輝が京都で三好三人衆や松永久通(松永久秀の嫡男)らに殺害されたことをうけたものでした。

将軍殺害後、松永久秀らに幽閉されていた義昭はひそかに脱出し、朝倉義景の庇護を受けます。義昭は将軍に就任するために義景に上洛を助けるよう求めますが、義景は動きません。失望した義昭は、信長を頼ることを決意しました。こうして義昭が信長の治める岐阜に移動する途中、長政は小谷城で義昭を歓迎しています。

義昭という旗印を得た信長は上洛するための準備を進めます。そして永禄11年9月、軍勢を率いて美濃を出発。このとき信長は上洛を邪魔した、六角家を攻めています。六角家は信長に敗退し、最終的には本拠地の観音寺城(滋賀県近江八幡市)を手放して南の甲賀郡まで撤退することになりました。六角家と長年争っていた浅井家にとっては喜ばしい結果だったことでしょう。

「金ヶ崎の戦い」で長政が信長を「裏切る」

上洛を機に同盟を深めた織田信長と浅井長政。このまま順調にいくかと思いきや、信長が朝倉義景を攻めたことで同盟は破たんすることになります。

永禄11年10月、足利義昭は室町幕府第15代将軍に就任したことで信長の力はさらに増すことになります。そして元亀元年(1570年)4月、信長は3万の大軍を率いて越前国(福井県)の朝倉義景を攻めます。信長が上洛するよう再三にわたり命じたにもかかわらず、義景が拒否したことが原因で、天皇家と幕府の許可という大義名分をもった出兵です。

ところが、これは浅井長政との同盟で誓った「朝倉家の不戦の誓い」を破る出兵でした。長政は信長につくべきか朝倉家につくべきか迷いますが、結局朝倉家を選び、信長の軍勢を背後から襲うことに。驚いた信長は急いで京に戻ります。信長が長政の裏切りを聞いたのは木ノ葉峠のあたりで、「信長公記」によれば信長は「浅井はれっきとした織田家の縁者。北近江一帯の支配を任せているし不満はないはずだ。誤報だろう」とすぐには信じなかったと言います。ところが次々と浅井裏切りの報告が入り、信じざるを得ない状況に。信長は「是非に及ばず」とつぶやき撤退を決意したそうです。

なぜ長政が朝倉家につくかを決めたかははっきりとわかっていません。隠居後も力を持っていた父の朝倉久政が信長と手を切るよう求めたという説、急速に権力をつけていく信長に恐れを抱いたという説、同盟の掟破りをした信長に義憤を抱いたという説などがありますが、いずれにせよこの時信長に敵対したことが、未来の浅井家滅亡につながるとは想像していなかったことでしょう。

岐阜へ戻る途中で信長暗殺未遂事件!

織田信長は金ヶ崎の戦い後、京から岐阜へと戻って体勢を立て直そうと考えます。それに対し、浅井長政は朝倉義景の従弟である朝倉景鏡が率いる軍とともに南近江に進出し、鯖江城(東近江市)に兵を配置し、一揆を発生させるなどして信長の行く手を遮ります。そのため信長は南下して伊勢方面から岐阜に向かおうと考え、千草峠に向かいました。

ここで起きたのが信長暗殺未遂事件です。信長上洛の際に敗れた六角承禎が、鉄砲の名手で甲賀流忍者の杉谷善住坊を雇い、信長を狙撃させた事件です。善住坊は5月19日、千草山の道筋に隠れて山道を移動する信長一行を待ち伏せしました。信長が22mから24mの距離まで近づいたとき、善住坊は火縄銃を2発発射。幸い玉は信長の体をわずかにかすめる程度にとどまりました。その後、善住坊はとらえられ、首を出した状態で生き埋めにされ、竹ののこぎりで首を切られるという「鋸引きの刑」に処せられています。信長の怒りが伝わってきますね。なお、信長自身は5月21日、無事に岐阜に戻りました。

信長、浅井・朝倉攻めのため岐阜を出発

織田信長は岐阜に戻り、浅井・朝倉攻めに向けた体制を整えます。まずは浅井・朝倉軍と組んだ六角軍を野洲河原の戦いで退けました。そして徳川家康に出陣を要請し、北近江への侵攻準備を進めます。浅井長政のいる近江は京に向かうための大切なルート。ここを敵対勢力に押さえたままにさせるわけにはいきません。

一方の浅井・朝倉サイドはと言えば、信長が報復するのは予想済み。浅井長政は近江と美濃の国境沿いにある長比城や刈安尾城などを改修して信長への壁するとともに、本拠地である小谷城の守りを固めました。

ところが信長に仕えていた天才軍師・竹中半兵衛(重治)がここで素晴らしい活躍を見せます。長政から長比城や刈安尾城を任されていた樋口直房と堀秀村の調略に成功するのです。もともと半兵衛と直房の領地は隣同士。半兵衛は一時期直房の食客になっていたこともある仲でした。

調略成功の報を受け、信長は6月19日に岐阜を出発し、長比城を攻め落として入城します。21日には虎尾前山に布陣して小谷城の城下町を焼き払いました。しかし、難攻不落の城として有名な小谷城を攻めきれず、一時撤退。24日には小谷城の南西、姉川を越えたところにある横山城を包囲し、竜ヶ鼻に布陣しました。ここに徳川家康軍が合流します。

一方、浅井軍には朝倉義景の親戚衆の1人である朝倉景健率いる朝倉軍が合流し、後詰めとして小谷城に入りました。そして6月27日、両軍は小谷城の東側にある大依山に布陣します。

姉川の戦いは当時の情勢を考えると割と重要な局面で起こっていると思いますが、義景本人は参加していません。義景はこうした場面にはなかなか表に出ることがありませんでした。「対外出兵の際に当主は出向かない」という朝倉家ならではの伝統のようなものがあったようですが、浅井家からすれば援軍に義景がいないというのは少し拍子抜けだったかもしれませんね。

ちなみにそれぞれの軍勢の人数は、織田軍が1万から3万5000、家康軍が5000から6000。朝倉・浅井軍は信長公記によれば、浅井軍5000、朝倉軍8000となっていますが、資料により浅井軍が3000から1万、朝倉軍が8000~2万とばらつきがあります。「劣勢だったけど勝利した自分たちはすごい」「負けたのは兵力差があったから」と言いたいため、後世の文献になればなるほど数字を盛っている傾向にあるようです。

姉川の戦いはあっさり織田・徳川軍の勝利?

そして6月28日、いよいよ「姉川の戦い」の始まりです。ちなみに戦いの名称ですが、布陣した場所から織田・浅井家では「野村合戦」、朝倉家は「三田村合戦」と呼んでおり、姉川の戦いとの呼び名は徳川家による呼び名です。後世の軍記物ではさまざまなエピソードが加わっていますが、まずは信長公記の記述をもとに解説します。

28日未明、朝倉・浅井軍は姉川の手前まで進み、軍を2手に分けて東の野村と西の三田村に布陣します。それに対し織田・徳川軍は、織田軍が野村、徳川軍が三田村で対峙しました。

そして午前6時から戦闘が始まります。姉川を越えてくる浅井・朝倉軍と織田・徳川軍は押し返し押し返されの大乱戦に陥りましたが、最終的には織田・徳川軍が浅井・朝倉軍の主だった武将を討ち取り勝利しました。浅井・朝倉軍は1100人余りの死者を出しました。この時亡くなった武将は、浅井家が重臣の遠藤直経や長政の弟の浅井政之など、朝倉家が猛将として知られる真柄直隆・直澄兄弟と直隆の息子の真柄隆基などです。

織田・徳川軍は小谷城に退却する浅井・朝倉軍を追撃し、小谷城下に再び火を放ちます。しかし、山の上にある小谷城は難攻不落。信長は追撃を止めて再び横川城を攻め、陥落させました。横山城には豊臣秀吉(当時はまだ木下藤吉郎)を城番として入れ、さらに南下して勇将・磯野員昌の守る佐和山城の攻略に向かいます。信長は佐和山城を取り囲む形で付け城を作って孤立させ、籠城戦へと持ち込みますが、結局落城させることはできませんでした。

ちなみに、「信長公記」には織田・徳川軍の死亡者数について記述はありません。朝倉氏滅亡まもないころに旧臣によって書かれたとされる「朝倉始末記」によれば、織田・徳川軍にも1000人近くの死者がでたとのこと。こうした資料や、佐和山城を攻めきれず終わったことから、姉川の戦いは織田・徳川軍の勝利ではなく、ほぼ引き分けだったのでは?という説もあります。とはいえ少なくとも激戦だったことは間違いないようで、姉川の戦い古戦場付近には「血原」「血川橋」という血なまぐさい地名が残されています。

「浅井三代記」による華々しい「姉川の戦い」

信長公記では割とあっさり書かれている姉川の戦いですが、江戸時代に成立した軍記物「浅井三代記」ではもう少しドラマティックです。「通説」として幅広く知られているのでここに紹介します。正直、こちらの方がはるかに面白いです。

布陣については信長公記と同じです。まずは朝倉軍が徳川軍を攻撃し、最初は朝倉軍の有利に進みます。兵力差としても徳川軍が不利だったこともあり、徳川軍は徐々に押されはじめました。

これを見た浅井軍は勢いに乗り奮戦します。織田軍は13段構えの陣を敷いていましたが、浅井軍は磯野員昌の活躍などにより、11段まで突破します。「員昌の姉川十一段崩し」として有名なエピソードですね。

信長は大ピンチに陥りますが、ここで奮戦したのが徳川軍。最初は劣勢でしたが、朝倉軍の脇から榊原康政が率いる徳川軍が襲い掛かったことで形勢は逆転します。一方の浅井軍は、織田軍深くに入り込んでいたところを、織田家家臣の稲葉一鉄などが率いる徳川軍が側面から背後をついて攻撃し、混乱状態に陥ります。こうした徳川軍の働きにより、浅井・朝倉軍は撤退することになりました。

このように浅井三代記では姉川の戦いで磯野員昌が登場していますが、直後に信長が佐和山城を攻めていることから考えると、本拠地を守らず姉川付近まで出陣し、その後すぐ佐和山城に戻れるか、ということから疑問が残りますね。

姉川の戦い後の浅井・朝倉家

姉川の戦いで多数の戦死者を出した浅井・朝倉軍ですが、まだ余力はありました。その後も織田信長と敵対し続け、姉川の戦い直後には比叡山延暦寺や石山本願寺と組んで比叡山に立てこもり、信長に対抗。「志賀の陣」と呼ばれるこの戦いでは信長の弟・織田信治や森可成を討ち取っています。その後も武田信玄や本願寺顕如らととともに信長包囲網に参加して信長を苦しめました。

こうした動きに対し、信長も黙ってはいません。横山城を起点に小谷城と佐和山城をつなぐ陸路を分断し続けることで佐和山城の磯野員昌を孤立させ、員昌に調略を仕掛けます。員昌は耐えきれず、元亀2年(1571年)2月に降伏して織田方に下りました。

その後、浅井・朝倉家は徐々に弱体化していきます。そして浅井家は天正元年(1573年)7月の小谷城の戦いで滅亡、残る朝倉家も8月の一乗谷城の戦いで滅ぶことになるのです。

関係する人物
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。