下関事件長州藩が外国船を無差別砲撃

下関事件

下関事件

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事件簿
事件名
下関事件(1863年)
場所
山口県

文久3年5月10日(1863年6月25日)、幕府が定めた攘夷決行日に長州藩(現山口県)が関門海峡(馬関海峡、下関海峡)で外国船を砲撃しました。これが「下関事件」「長州藩外国船砲撃事件」などと呼ばれる事件で、後に外国からの反撃として起こった「四国艦隊下関砲撃事件」と合わせて「下関戦争」と呼ばれています。今回は下関事件について、朝廷、幕府、長州藩の攘夷に対する方針などと合わせて解説します。

下関事件の背景

安政5年(1858年)、大老・井伊直弼のもと、幕府は日米修好通商条約をはじめとした「安政五カ国条約」を締結しました。条約の締結は天皇の勅許を得ないまま行われており、幕府は朝廷や大名たちから激しい非難を受けました。

特に公家や天皇を頂点においた政治体制を主張する「尊王」派や、外国人排斥を主張する「攘夷」派は大いに非難しました。加えて孝明天皇は攘夷を強く求めており、条約締結に対する怒りは激しいものでした。

井伊直弼は反対勢力を「安政の大獄」で弾圧しますが、安政7年3月3日(1860年3月24日)、水戸藩士たちにより暗殺されてしまいました(桜田門外の変)。幕府の大老が江戸城の門前で殺害された事件は、幕府の権威を失墜させるのに十分でした。

長州藩が急進的な尊王攘夷派に

そんななか台頭してきたのが、尊王攘夷を掲げる長州藩と、天皇を尊重しながら朝廷と幕府、雄藩が協力して政治を行う「公武合体」を掲げる薩摩藩でした。このうち下関事件の主役となる長州藩はすぐさま攘夷を実行すべきと声高に主張します。

長州藩は日本海に面しており、中国大陸とも近かったことで欧米列強の船が行き来する様子を目の当たりにしていました。天保13年(1842年)、清がアヘン戦争で英国に敗れると、欧米への危機感は強まりました。

そうした状況のなかで長州藩で台頭したのが吉田松陰が主宰した松下村塾の一派です。松下村塾では久坂玄瑞や高杉晋作、桂小五郎など、多くの幕末の志士たちが生まれました。

松陰は開国によって欧米の知見を取り入れ国力を養い、その上で攘夷を目指す「開国攘夷派」でした。ところが長州の過激な藩士たちは即時攘夷を求めます。その後、松陰は天皇の勅許なく日米修好通商条約を締結したことで幕府を痛烈に批判し、老中首座の間部詮勝の襲撃を提案したことで安政の大獄でとらえられ処刑されてしまいました。

残された松下村塾のメンバーは尊王攘夷派の中心人物として長州藩を動かしていくことになります。特に久坂玄瑞は原理主義的かつ急進的な尊王攘夷論者で、長州藩に積極的に働きかけました。

当時の長州藩は直目付・長井雅楽による「航海遠略策」に基づく開国論が主流でした。これは開国により外国と交流して国力を高めることで、欧米列強に対抗していこう、という趣旨のものです。これに玄瑞ら急進的な尊王攘夷派は反発し、雅楽の追い落としをはかります。

文久2年(1862年)、坂下門外の変で公武合体を進めていた老中の安藤信正が襲われ失脚すると、朝廷内の尊王攘夷派と組んだ玄瑞の工作などにより、雅楽の力は弱まります。結局、「航海遠略策」は朝廷を誹謗するものと批判され、責任を取る形で雅楽は免職のうえ、文久3年2月6日(1863年3月24日)に切腹しました。

雅楽の失脚後、長州藩は急進的な尊王攘夷派が力を握り、即時攘夷に向けて活動していきます。

朝廷が幕府に攘夷の圧力をかける

一方、朝廷は幕府に対し、攘夷を実行するよう圧力をかけ続けていました。実は朝廷は、薩摩藩ら幕府の公武合体派が計画した孝明天皇の妹・和宮と将軍・徳川家茂の政略結婚の際も、和宮降下の条件として条約の破棄や攘夷の実行などを挙げていました。その際、幕府は10年以内に攘夷を実行すると約束しています。

その後、朝廷内に入り込んだ長州藩の急進的尊王攘夷派と同じ志を持つ公家が協力し、朝廷内には武力行使に積極的な「尊攘急進派」が誕生します。この派閥が幕府に対し、たびたび圧力をかけました。孝明天皇の勅令と偽った「偽勅」まで出す始末です。

例えば孝明天皇は文久3年(1863年)に攘夷を実現するようにと一連の勅令「攘夷勅命」を出しますが、こちらは天皇の意図しないところで出されたといわれています(※諸説あり)。

孝明天皇はこの急進派の「偽勅」は疎ましく思っていたようです。天皇はあくまでも「幕府に任せる形で攘夷を実施する」との考えで、幕府に将軍の上洛を何度も働きかけました。その結果、文久3年(1863年)3月、徳川家茂が将軍としては229年ぶりに上洛することになりました。ここで朝廷と幕府が攘夷決行について協議しましたが、なかなかまとまりません。このため急進攘夷派はさまざまな策略を巡らせます。

4月11日、孝明天皇は石清水八幡宮に御幸して攘夷を祈願しています。その際、急進攘夷派は徳川家茂に儀式に参加させ、攘夷のための節刀(天皇が出征の将軍や遣唐使などに下賜した任命の印としての刀)を授けることを画策しました。節刀により、将軍に強制的に攘夷を実行させようとしたのです。

なお、孝明天皇はこうした動きを苦々しく思っていましたが、急進尊攘派に無理やり参加させられた、と青蓮院宮尊融親王に送った書簡で嘆いています。

ところがこうした画策は家茂の病欠、さらに代理として出席するはずだった将軍後見職の一橋慶喜の急な腹痛による儀式の欠席で実現しませんでした。

下関事件①攘夷の期限が決定

朝廷側と何度も交渉した結果、4月20日、徳川家茂は攘夷の期限を文久3年5月10日(1863年6月25日)にすることを約束します。この幕府の決定を受け、天皇も諸大名に武家伝奏経由で「軍政相整え、醜夷掃攘(醜い夷狄の侵略を取り除く)これ有るべく」という勅令を出します。ただし、幕府からは外国側からの武力行使があった場合に応戦するように、という消極的な命令が出されました。

幕府は攘夷の期限を受け、5月9日に横浜港を鎖港すると各国公使に通達しましたが、具体的な武力行使に出ませんでした。ところが、天皇の命令を好機ととらえて忠実に実行した藩がいました。それが「即時攘夷」を掲げる長州藩です。

下関事件②長州藩がアメリカ・フランス・オランダ船を砲撃

長州藩は5月10日の攘夷決行に向け、着々と準備を進めていました。壇之浦や前田(ともに山口県下関市)に台場(砲台)を築き、藩兵たちと浪士隊を配置しました。さらに帆走軍艦(丙辰丸・庚申丸)や蒸気軍艦(壬戌丸・癸亥丸)を展開し、海峡封鎖の態勢を整えました。

そして5月10日に日付が変わったばかりの深夜、長州藩は下関に仮停泊していたアメリカの商船・ペンブローク号を庚申丸と癸亥丸で挟み撃ちにするとともに、台場からも砲撃を加えました。ペンブローク号は周防灘へ上手く逃れたため人的損害は免れました。朝廷が称賛の勅を出したこともあり、長州藩の士気は高まりました。

さらに5月23日にはフランスの軍艦・キャンシャン号を台場や庚申丸から砲撃します。驚いたキャンシャン号の艦長は短艇をおろして長州藩に砲撃の理由を尋ねようとしましたが、その短艇も砲撃で粉砕されたため、応戦しつつ玄界灘に逃げました。この際水兵4名が死亡しました。

さらに5月26日にはオランダの軍艦・メデューサ号を台場と庚申丸と癸亥丸から砲撃します。オランダは鎖国時代から貿易を継続していたいわば友好国。さらに長崎奉行の許可証を持ち、幕府の水先案内人まで乗っていました。フランス軍艦の被害は認識していましたが、まさか砲撃されるとは…メデューサ号の人々はさぞかし驚いたことでしょう。メデューサ号は交戦の結果、なんとか周防灘に逃れますが、4名の死者を出しました。

下関事件③アメリカとフランスが長州藩に報復攻撃

長州藩の動きに対し、アメリカとフランスは幕府を非難するとともに、長州藩に報復するため実力行使にでます。6月1日、横浜から移動したアメリカの蒸気軍艦・ワイオミング号が下関を奇襲します。この攻撃により、壬戌丸と庚申丸が撃沈し、癸亥丸は大破しました。

さらに6月5日にはフランス軍艦のセミラミス号とタングレード号が下関の台場を砲撃するとともに、陸戦部隊が上陸します。長州藩の兵士たちは抵抗しましたがフランス軍の武力にはかなわず、結局台場は破壊されてしまいました。

下関事件④奇兵隊の暴走!?幕府に逆らった「朝陽丸事件」

大きな損害を受けた長州藩ですが、攘夷の姿勢を崩しませんでした。2か国による反撃の直後、長州藩の志士・高杉晋作は外国艦隊に備えるため、藩士に加え武士や庶民からなる「奇兵隊」を結成しています。

また、長州藩は関門海峡を挟んで隣り合う小倉藩に使者を送り、攘夷を実行しなかったことを激しく非難します。そのうえ、小倉藩領に勝手に侵入して台場を築きました。

小倉藩としては幕府に従い、攻撃してこない限り外国船は打ち払わない、という方針を貫いていました。このため長州藩とのもめ事を幕府に仲裁してもらおうと考えました。小倉藩の訴えを受け、幕府は長州藩に対し、外国船に砲撃しないよう命じます。欧米列強からの批判を受け、何とか長州藩を落ち着かせたいところでした。

幕府は旗本の中根市之丞らを使者として軍艦「朝陽丸」に乗せ、長州藩に派遣します。文久3年(1863年)7月24日、朝陽丸が関門海峡に差し掛かったところ、なんと下関の台場が朝陽丸を砲撃!さらに奇兵隊が朝陽丸に乗り込み、同乗していた小倉藩兵士を引き渡すように要求します。

小倉藩士たちは長州藩士に討たれるよりはと切腹しました。さらに幕府の使者は奇兵隊により暗殺されてしまいます。そのうえ、奇兵隊は「朝陽丸は長州藩が借り受ける」と主張しました。

これは奇兵隊内の急進派の暴走で、長州藩の上層部は「流石にやりすぎだ」と彼らの説得に乗り出しました。奇兵隊の中核的存在だった吉田稔麿が説得した結果、朝陽丸は無事に幕府に返還されました。なお、この事件の直後の8月18日、八月十八日の政変で急進尊攘派と長州藩は朝廷から排除されています。

下関事件から四国艦隊下関砲撃事件へ

強硬策を貫く長州藩と、長州藩を非難するアメリカ、フランス、オランダ、イギリスら欧米列強達。幕府は完全に両者の板挟みでした。なお、被害を受けなかったイギリスが非難する側に入っているのは、長州藩が関門海峡を閉鎖したことで貿易に大きな影響が出たためです。

これに対し幕府は前述の通り長州藩には砲撃をやめるよう命じるとともに、欧米列強に対しては横浜の鎖港を訴えていました。そう、朝廷と約束した鎖国の実施に対し、幕府がその回答として実施した対策です。とはいえ幕府は各国の公使に「横浜港を閉めます」と通達しただけで、9日後には撤回しています。

もっとも幕府としては攘夷派をなだめるために何とか横浜を鎖港したいところ。このため文久3年12月29日(1864年2月6日)、横浜鎖港談判使節団をフランスに派遣しましたが、結局失敗に終わっています。

長州藩を止められなかった幕府。結果として、4か国は元治元年6月19日(1864年7月22日)、幕府に「20日以内に関門海峡の封鎖を解かない場合は武力行使する」と通達しました。そして元治元年8月5日(1864年9月5日)、4か国による17艦の連合艦隊が下関を攻撃しました(四国艦隊下関砲撃事件)。

当時、長州藩は元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」の準備のため主力を京に送っていたため、下関を守っていたのは奇兵隊を中心とした約2000の兵でした。しかも禁門の変で長州藩は敗北しており、戦力差は歴然としていました。

こうして長州藩は連合艦隊に大敗。8月14日に長州藩と4ヶ国間で講和が成立しました。長州藩は欧米列強の武力の高さから即時攘夷をあきらめるとともに、講和を機にイギリスに接近。軍事力を強化するとともに、倒幕へと大きく方針を変えることになったのです。

栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。