石垣のはじまり日本初の「石垣の城」はどこか?信長と松永久秀から読み解く近世城郭の誕生

日本の旅侍編集部
[執筆者] (メディア)

日本の城と聞くと、多くの人は巨大な石垣を思い浮かべます。

しかし実は、日本の歴史の大半において、城は「土の城」でした。

土塁を築き、堀を掘り、山の地形を活かす。
それが中世までの城の基本です。

では、私たちはいつから「石垣の城」を見るようになったのでしょうか。

そして、なぜ日本の城は、土から石へと姿を変えたのか。

その始まりを辿ると、そこには単なる技術革新ではない、戦国大名の思想・権力の見せ方・天下統一への欲望が見えてきます。

観音寺城〜石垣の“原型”は近江にあった、恒久拠点への第一歩

石垣の歴史を語る上で、最初に外せないのが観音寺城跡です。

六角氏の居城として築かれたこの山城には、全国でも早い段階で大規模な石垣が導入されていました。

しかもその多くは、荒々しい「野面積」。

まだ洗練された近世城郭ではありません。
しかし、ここには重要な変化があります。

それは、「一時的な陣地」ではなく、「恒久的に維持する拠点」として城を考え始めたことです。

なぜ近江だったのか

理由の一つが、近江という土地にありました。

近くには、延暦寺をはじめとする大寺院が存在し、石積み技術を持つ職人集団が活動していました。

後に「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工集団です。

  • 戦国大名の軍事需要
  • 寺院技術
  • 山城文化

つまり観音寺城は、これらが結びついた、石垣の“実験場”でもありました。

松永久秀〜石垣は「見せるもの」へ変わる、権威を演出した男

やがて石垣は、単なる防御構造ではなくなります。

その転換点にいた人物が、松永久秀です。

久秀は、多聞山城跡・信貴山城跡などで、石垣の上に白い漆喰壁や多聞櫓を築きました。

これは極めて画期的でした。

なぜなら石垣が、「敵を防ぐための土留め」から、「権力を視覚化する舞台装置」へと変化したからです。

“見せる城”の始まり

白壁は遠くからでも目立つ。
高石垣は、人を見上げさせる。

つまり久秀は、城を“戦う施設”としてだけでなく“支配を演出する建築”として使い始めました。

そしてこの思想こそが、後の近世城郭へと繋がっていきます。

そのため、「近世城郭の始まりは松永久秀にある」と評価されることも少なくありません。

安土城〜石垣は“天下統一の象徴”になる、技術と思想の完成形

そして、石垣の歴史を決定づけたのが安土城です。

築いたのは、織田信長。

天正4年(1576年)、信長は琵琶湖を望む安土山に、巨大な「総石垣」の城を築きました。

安土城が特別だった理由

安土城は、それまでの石垣文化を“統合”しています。

  • 観音寺城が持っていた「石積み技術」
  • 松永久秀が示した「見せる思想」

その両方を、圧倒的なスケールで具現化した。

つまり安土城は、「防御の城」ではなく、「天下人の城」だったのです。

石垣は“必須装備”になる

安土城以降、石垣は一気に全国へ広がります。

  • 豊臣秀吉の大坂城
  • 徳川家康の江戸城
  • 各地の近世城郭

石垣はもはや、一部の先進技術ではありません。

天下を目指す大名にとっての、“必須ステータス”になっていきました。

石垣は「天下統一」のツールだった

石垣の始まりは、一つの城から突然生まれたわけではありません。

  • 六角氏の観音寺城(実用)
  • 松永久秀の多聞山城・信貴山城(権威)
  • 織田信長の安土城(完成)

こうして、論理的な進化のステップを踏んでいます。

つまり石垣とは、単なる建築技術ではありません。

それは、城を恒久化し権威を演出し天下統一を可視化するための装置でした。そして信長によって全国へ広がった石垣は、その後さらに進化していきます。

参考文献・出典
記事カテゴリ
石垣のロジック
場所
滋賀県・奈良県
関連する城・寺・神社

安土城

信貴山城

多聞城

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