徳島藩戦国末期から蜂須賀家が治める

徳島藩

蜂須賀家の家紋「丸に左万字」

記事カテゴリ
藩史
藩名
徳島藩(1585年〜1871年)
所属
徳島県
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島藩は、江戸時代を通して徳島県と淡路島を治めた藩です。戦国末期、四国征伐の功績によって豊臣秀吉よりこの地を与えられた蜂須賀家政を祖とし、そのまま明治維新まで蜂須賀家が治め続けたという珍しい藩です。そんな徳島藩の歴史を紐解いていきましょう。

徳島藩成立まで

徳島藩の開祖である蜂須賀家政は、蜂須賀正勝の嫡男として誕生します。織田信長と豊臣秀吉の両方に仕え、中国毛利攻めなどにも参加しています。蜂須賀家政は天正13年(1585年)の四国征伐の功績として徳島を与えられましたが、元々は父正勝に与える予定だったという説も有力です。そのときの石高は、18万6千石で、従五位下阿波守にも任命されました。

蜂須賀家政は徳島城を築城し、徳島賜杯の基礎を固めます。
その後、蜂須賀家政は朝鮮出兵にも参加しますが、黒田長政等と共に本土に戦線縮小案を上申します。それが秀吉の逆鱗に触れ、領地蟄居のうえ蔵入り地没収という罰を受けました。

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると蜂須賀家政は石田三成と反目、徳川家康との距離を縮めます。その結果、盟友であった黒田長政は妹、糸姫を離縁された上絶縁されてしまいました。この絶縁は実に120年続きます。

慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦では、本人は西軍を諫める書状を毛利に対して送り、息子蜂須賀至鎮が東軍として参加していたので、所領を安堵されました。
その後、大坂夏の陣・冬の陣では蜂須賀至鎮が功績を挙げたため、淡路7万1千石が加増され、蜂須賀家の石高は25万石7千石となります。

このような経過を経て徳島藩は誕生しました。ちなみに、初代藩主は蜂須賀家政ではなくその嫡男蜂須賀至鎮です。彼は非常に名君として知られており、塩田の開発や非常時の食料の確保に勤めたという記録が残っています。しかし、父より若く35歳で亡くなってしまいました。

江戸時代の徳島藩

蜂須賀至鎮の嫡男蜂須賀忠英は2代目藩主となりましたが、彼も42歳の壮年で亡くなっています。しかし、淡路支配の基礎を固め、法整備をおこなって農民の統制を図りました。

彼が藩主であったとき、江戸家老の益田長行が藩の所有している山林の樹木を伐採し、江戸で売りさばくという事件が発生します。益田長行は13年間幽閉されますが、それを恨んで正保2年(1645年)に幕府に対して「君主蜂須賀忠英が大型船を建造し、キリシタンの宗門改めを怠っている」と告発しました。しかし、この告発はねつ造であると見破られ、益田長行は再度処罰されました。(海部騒動)

5代藩主蜂須賀綱矩の時代、120年続いた黒田家との絶縁が解消されて和解が成立しました。
その後、10代目藩主蜂須賀重喜の時代まで徳島藩では大きな事件は起こっていません。

蜂須賀重喜は徳川吉宗にならって倹約令を施行したり、役席役高の制、若年寄の創設などを試みたりしましたが、かえって身分序列の崩壊を招き、藩政は混乱します。そのため、幕府から藩政宜しからずとして隠居を申しつけられました。藩主を退いた蜂須賀重喜は幕府に目を付けられるほど贅沢な生活を送ります。特に、本の収集は熱心で、彼の他、数人の藩主が集めた典籍は「阿波国文庫」として現在にまで伝わっています。

12代目藩主、蜂須賀斉昌は10代藩主の頃より傾き始めた藩政を建て直そうとタバコの専売に乗り出すなど経済改革に着手します。しかしその一方で、当時の老中水野忠邦に出世を願って多額の賄賂を送る、新しく税金を設けるなどしたため、領民が数百人単位で伊予藩に逃げ出したうえで一揆を起こします。(山城谷一揆)なお、この一揆で徳島藩は一揆を起した領民の要求を一部呑んでいます。

13代目藩主の蜂須賀斉裕は、12代将軍・徳川家慶の異母弟にあたる人物です。この頃、徳島藩の財政はさらに悪化し、破綻寸前でした。蜂須賀斉裕は経済改革に乗り出しますが、その一方で軍備を増強するための資金を惜しまなかったために、財政改革は失敗に終りました。

また、蜂須賀斉裕は徳川家の一族でありましたが、幕府と一定の距離を保っていました。その一方で、藩内の意見も分裂し統一できませんでした。土佐などに比べて徳島が幕末に今ひとつ活躍できなかったのは、藩内の意見を統一できなかったせいと言われています。なお、蜂須賀斉裕は鳥羽・伏見の戦いの最中に48歳で急死します。
最後の藩主、蜂須賀茂韶は藩内が混乱する中、父の急死で急遽藩主となります。彼は11代将軍徳川家斉の孫にあたり、14代将軍徳川家茂の従兄弟という素晴らしい血統の持ち主ですが、幕末の混乱の中、今ひとつ活躍しきれずに明治を向かえました。

明治になると、蜂須賀茂韶はオックスフォード大学留学後、フランス公使・東京府知事、第二代貴族院議長、文部大臣など政府の要職を歴任し、明治初期の日本を支えました。

徳島藩まとめ

徳島藩は戦国末期から徳島藩の成立、明治時代まで蜂須賀家という1つの家が治め続けた希有な例です。徳島藩は温暖な地で天災は少なく、藩主は文化人としての一面も持ち、阿波国文庫をはじめとする多くの文化財を残しています。しかし、幕末に近くなると藩主達の散財が基で財政が悪化し、一揆も多発します。そして江戸時代に活躍できなかった分を取り返すように、蜂須賀茂韶以降、太平洋戦争終結まで蜂須賀家は貴族院で要職を務めました。

なお、現在も蜂須賀家は存続していますが、第19代目当主蜂須賀正子氏には実子がいないため、断絶が確定しています。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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