首里城沖縄県那覇市

首里城DATA
別称 御城、首里の御城、中山
築城 不明
住所 沖縄県那覇市首里金城町1-2
電話番号 098-886-2020
開館時間 8時30分~18時
休館日 7月の第1水曜日とその翌日
登閣料 大人400円、中人(高校生)300円、小人(小・中学生)160円
首里城への交通アクセス
ゆいレール「首里」駅、徒歩約15分。

HISTORY 琉球王国の中心地 首里城

首里城は、15世紀初めに成立した琉球王国の中心地にして国王の居城として使われていた王城です。明治以降は一部の建物が国宝に指定されるなど、琉球王国の歴史を伝える史跡となりましたが、沖縄戦で焼失しました。そんな首里城の歴史を紐解いていきましょう。

首里城の築城~琉球王国
首里城は、沖縄本島を統一すべく南山・北山・中山の三国が争っていた三山時代に中山が建てた城が始まりといわれています。おおよそ13世紀末~14世紀頃に成立したという説が有力です。その後、尚巴志が三山を統一し琉球王朝を設立すると、首里城は琉球王家の居城として使われるようになりました。
琉球王国は中国を始め東アジア~東南アジアの各国、日本との貿易で栄えた王国です。首里城は現在の沖縄県那覇市、海外貿易の拠点であった那覇港を見おろす小高い丘の上にあり、曲線を描く城壁で取り囲まれていました、城壁内には王の住居をはじめとして、いくつもの建物があり、信仰上の整地も存在していたと記録に残されています。このような築城形式は、「グスク」と呼ばれる沖縄の城に共通する特徴です。グスクは三山時代に沖縄各地に建てられましたが琉球王朝成立過程の争いで多くが破壊されたため、遺構が残っているのは、首里城を含めて僅かです。
首里城は、内側城郭と外側城郭に分かれており内郭は15世紀初期、外郭は16世紀中期に完成しました。西を正面としており、正殿など城内の主要な建物は東西の軸線に沿って配置されています。交易によって栄えた国らしく、建物は中国が日本の建築物の影響を受けた造りでした。
首里城は、国王の居城、政庁であったと同時に王国祭祀を行う場所でもありました。そのため、城内には「聞得大君(きこえおおきみ)」と呼ばれる宗教上の指導者をはじめ、神に仕える神女が多数居住していました。また、首里城周辺には美術・工芸・芸能に関する仕事に就いていた方の居住区があったという記録も残っています。
首里城は記録に残っているだけで、3度焼失しています。1度目は「志魯・布里の乱」と呼ばれる王位継承を巡った内乱のときで、この際首里城の内部はほとんど破壊されたようです。2度目の焼失は1660年、3度目の焼失は1709年です。沖縄本島には良質の木材が育ちにくく、首里城は焼失の度に薩摩藩から木材の提供を受けて建物の再建を行っています。また、沖縄本島の北部では首里城の再建に備えて植林事業も行われていました。
1879年、明治政府によって最後の国王尚泰が追放されるまで首里城は琉球王国の政治・文化・宗教の中心であり続けました。
明治以降の首里城
明治政府の政策により琉球王国から沖縄県になった後、首里城は政庁や文化・宗教の中心としての役割を終え、敷地や建物は陸軍の軍営に活用された後に首里市に払い下げられ、首里尋常高等小学校女子部及び沖縄県立女子工芸学校の校舎として、利用されました。
1900年代に入ると建物の老朽化が激しくなり、正殿など主要な建物の解体が検討されます。しかし、沖縄の文化研究を行っていた東京帝国大学教授伊東忠太や鎌倉芳太郎が解体に反対、当時の法律「古社寺保存法」の対象になるよう、正殿の背後に沖縄神社を建立して、正殿を拝殿とみなすことで国の予算で正殿が修復できるように体裁を整えました。
その結果、首里城は「沖縄神社」となり、琉球王朝の歴代国王と源為朝が祀られます。源為朝が祀られたのは、保元の乱で平清盛に敗れた後、沖縄まで逃れ、その子孫が中山を興した舜天王という伝説を持つためです。
その後、1925年に正殿は旧国宝に指定されますが、太平洋戦争中の沖縄戦で陸軍第32軍総司令部を置いたことから、アメリカ軍の総攻撃を受けます。首里城は正殿を含め、周囲の城下町や城に保管されていた文化財や歴史書の多くが破壊されました。なお、文化財の一部はアメリカ軍によって略奪され、戦後に一部が返還されています。
終戦後、首里城跡に琉球大学がおかれましたが、1958年より守礼門から再建がはじまり、1972年に沖縄県が日本に返還されると首里城跡は国の史跡に指定されました。
1979に琉球大学が現在地に移転すると首里城の復元は本格化し、1992年に正殿を中心とする建築物群や門、城郭が復元され、首里城跡は「首里城公園」となります。2000年には首里城跡やその周辺のグスクが、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録されました。
2006年には日本百名城の1つに登録されますが、2019年に再度火災が発生して正殿と北殿、南殿が焼失しました。歴史上5度目の焼失です。 現在、首里城は復元工事がすすめられており、2026年に焼失した建物はすべて再建が予定されています。
まとめ
首里城は独自の文化・歴史を持つ琉球王国の貴重な史跡です。太平洋戦争のときに、琉球王国時代の建物はすべて破壊されましたが、遺構や文化財の一部は現存しており、世界遺産にも指定されています。現在の首里城は沖縄有数の観光地として、国内だけでなく海外からも多くの見学者が訪れています。

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琉球侵攻

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琉球王国
琉球王国DATA
王城 首里城
旧地域 琉球
主な国王 尚氏

首里城、再建が進む世界遺産のグスク

沖縄県那覇市にある首里城。2000年に世界遺産に登録され、優美な朱塗りの正殿や門が見どころでしたが、2019年10月31日に発生した火災で正殿を含む建物8棟が焼損。現在は2026年の正殿復元をめざし工事が進んでおり、復元工事の様子を見学できます。

首里城
首里城の歴史
首里城は琉球王国の王宮があった、沖縄最大級のグスク(城)です。グスクとは石造りの城塞であると同時に、いわゆる「御嶽」と呼ばれる拝所を備えた聖域を指しており、首里城は政治に加え、宗教的な儀式の中心地でもありました。
首里城の創建年代は定かではありませんが、発掘調査などから14世紀中ごろと推定されています。1429年、南部の佐敷按司(豪族の首長)だった尚巴志が沖縄本島の北山、中山、南山の三山を初めて統一し、琉球王国を建国しました(第一尚氏)。首里城は王の居城となり、火事で全焼しても何度も創建され、整備・拡大していきます。琉球王国は1469年、農夫出身の金丸(尚円王)によるクーデターで一度政権を交代していますが(第二尚氏)、首里城は変わらず琉球王国の中心であり続けました。
1609年、薩摩藩の島津氏が琉球王国を侵略して以降、琉球王国は島津氏の支配下に置かれつつ、半独立国として諸外国との交易を継続しました。明治維新後の1879年、明治政府は軍を派遣し首里城から最後の国王・尚泰を追放して沖縄県を設置。これにより琉球王国は滅亡し、首里城は軍の駐屯地を経て学校の校舎になりました。
老朽化が進む首里城でしたが1929年には首里城正殿が国宝に指定され、1928年から大規模修繕が進みます。ところが第二次世界大戦の沖縄戦により正殿をはじめとした建物は焼失してしまいます。
戦後は跡地に琉球大学が置かれましたが、1952年に守礼門が再建。その後城跡の整備や建物の復元が進み、琉球大学が移転した1980年代から本格的な復元工事が始まりました。1992年には首里城正殿の復元が完了するとともに「首里城公園」が開館。2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、世界文化遺産に登録されました。
しかし、2019年10月31日の火災で正殿、北殿、南殿など7棟の建屋が焼失。首里城の消失は今回でなんと5度目です。2022年11月からは正殿復元工事が開始され、2026年秋に再建が完了する予定です。
首里城の見どころ①復元中の正殿
首里城は第一尚氏時代に成立した内郭と第二尚氏時代の外郭に分かれています。正殿や北殿、南殿などの主要な建物は内郭に集中していましたが、火事で焼失。このうち正殿については2層3階建ての建物で、赤い壁に描かれた竜、赤瓦に唐破風妻飾りが美しいものでした。中国の紫禁城がモデルだとされています。
正殿の前の「御庭(うなー)」と呼ばれる広場はさまざまな儀式が行われる場所で、朱色と城の2色のタイルが特徴。儀式の際に諸管が並ぶ目印の役割でした。
首里城は「見せる復興」をテーマに工事の過程を公開しており、建築中の正殿を覆う素屋根の内部を見学できます。工事の解説が書かれたパネルや火災の残存物なども展示されているので、復元中の今だけしか見られない貴重な姿が観光客から人気を博しています。
なお、正殿基壇にあった遺構は世界文化遺産に登録された貴重なものですが、現在は非公開。2026年の正殿再建とともに公開予定です。
首里城の見どころ1 首里城の見どころ2 首里城の見どころ3
首里城の見どころ②守礼門
首里城のシンボルとして知られる中国風の「守礼門」は火災から免れ現在も見学できます。もとは第二尚氏4代目の尚清王の時代(1527年〜1555年)に建てられたもので、現在の門は1958年に復元されたものです。
門の扁額には「琉球は礼節を重んずる国」を意味する「守礼之邦」と書かれています。2000年に開催された沖縄サミットにあわせて発行された2000円札の表の絵柄に採用されたことでも知られています。
このほか、守礼門から正殿までの道には個性豊かなさまざまな門が建てられており、見比べながら回るのがおすすめ。例えば次の「歓会門」は城郭内の第一の正門で、中国からの冊封使を歓迎することからその名がつきました。門の両側にある魔よけのシーサーにも注目です。
首里城の見どころ4 首里城の見どころ5 首里城の見どころ6
首里城の見どころ③聖なる御嶽
首里城は宗教施設としても機能しており、城内には「御嶽(うたき)」と呼ばれる聖域が数多く残ります。園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)は門の形をしていますが礼拝所で、国王が外出する際に安全祈願をした場所。国指定の重要文化財でもあり、世界遺産の構成遺産のひとつです。
正殿のある御庭に入る前広場「下之御庭」の南側は「京の内」と呼ばれる城内最大の信仰の場で、数々の儀式が行われました。首里城発祥の地と言われており、なかの御嶽では信仰の最高位「聞得大君」や神女たちが祈りをささげていました。
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首里城のフォトスポット
首里城のフォトスポットといえば守礼門。入り口での記念撮影にピッタリの場所です。カラフルな色合いが魅力の正殿と御庭も人気の撮影スポットですが、現在は復興工事中。復興のために御庭に建てられた木材倉庫には復元後の姿をイメージしたグラフィックが描かれており、フォトスポットとして人気を博しています。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。