水城跡とは、福岡県太宰府市から大野城市にかけて残る古代の防衛施設である。天智天皇3年(664)、前年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた倭が、大陸からの侵攻に備えて築いた。大宰府の北西側で平野を横断するように、全長約1.2km、基底部幅約80m、高さ約9mの巨大な土塁を築き、その内外に濠を設けた。土塁内部には水を流す木樋が通され、東西には官道が通過する城門が置かれていた。「城」と呼ばれるが、曲輪を囲む一般的な城郭ではなく、敵の進路を遮断する長大な防塁である。翌天智4年(665)に築かれた大野城・基肄城とともに、大宰府を守る古代の防衛網を形成した。
| 目的 | 唐・新羅による侵攻への備え、大宰府の防衛、博多湾方面から内陸への進入阻止、官道の通行管理 |
|---|---|
| 特長 | 天智天皇、白村江の戦い、大宰府、大野城、基肄城、土塁、外濠、内濠、木樋、東門、西門、官道、古代防衛施設、特別史跡 |
| 他の城との違い | ・山や曲輪を囲む城郭ではなく、平野を横断する長大な防塁である ・『日本書紀』に天智天皇3年(664)の築造が明記されている ・土塁だけでなく濠と木樋を組み合わせ、水を利用した防御施設となっていた ・東門と西門には官道が通り、防衛施設であると同時に大宰府への出入口として機能した |
| 石垣 | なし |
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| 土塁 | 現存 |
| 種類 | 版築土塁、防塁、外濠、内濠、木樋、城門、古代城塞、大宰府防衛施設 |
| 石材 | 石垣を主体とする城郭ではないため、該当なし |
| 特長 | 水城跡の中心となる遺構は、平野を横断する全長約1.2kmの巨大な土塁である。土塁は基底部幅約80m、高さ約9mに達し、土を層状に突き固める古代の土木技術を用いて築かれた。土塁の内外には濠が設けられ、博多湾側では幅約60m、深さ約4mの外濠が確認されている。また、土塁内部には内濠から外濠へ水を送る木樋が複数確認されている。両端には東門と西門が設けられ、官道が土塁を通過していた。水城跡では、単体の土塁を見るだけでなく、大野城・基肄城とともに大宰府を囲む広域的な防衛システムとして見るのが自然である。 |
| 別称 | 水城 |
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| 所在地 | 福岡県太宰府市、大野城市、春日市 |
| 築城 | 天智天皇3年(664) |
| 築城者 | 天智天皇期のヤマト政権 |
| 住所 | 福岡県太宰府市水城・国分・吉松、大野城市下大利周辺ほか。見学拠点の水城館は福岡県太宰府市国分2丁目17-10 |
| 電話番号 | 092-555-8455(水城館) |
| 開館時間 | 水城跡は見学自由。水城館は9時~16時30分 |
| 休館日 | 水城跡は見学自由。水城館は月曜日、月曜日が祝日の場合は翌日、年末年始12月28日~1月4日 |
| 入館料 | 水城跡、水城館ともに無料 |
| 備考 | 水城跡は大正10年(1921)3月3日に国の史跡、昭和28年(1953)3月31日に国の特別史跡に指定された。『日本書紀』には「筑紫に大堤を築いて水を貯え、名づけて水城という」とする記録があり、築造年代を史料から確認できる日本最古級の城塞である。東門跡近くの水城館では、水城の構造や大宰府の防衛体制について展示している。 |
| 660年 | 朝鮮半島の百済が唐・新羅連合軍によって滅亡する |
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| 663年 | 倭が百済復興を支援して朝鮮半島へ出兵するが、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れる |
| 664年 | 大陸からの侵攻に備え、筑紫に水城が築かれる。『日本書紀』に築造が記録される |
| 665年 | 大宰府防衛をさらに強化するため、大野城と基肄城が築かれる |
| 飛鳥時代 | 水城、大野城、基肄城などによって、博多湾方面から大宰府へ至る経路を守る広域的な防衛体制が形成される |
| 奈良時代 | 大宰府の外郭防衛施設として機能し、東門・西門を通る官道が大宰府への主要な出入口となる |
| 奈良時代 | 水城の門は大宰府へ赴任する官人や帰京する人々の往来の場となり、『万葉集』にも水城に関わる別れの情景が詠まれる |
| 平安時代以降 | 古代国家の防衛施設としての役割を終えるが、長大な土塁は地域の地形として残る |
| 1921年 | 3月3日、水城跡が国の史跡に指定される |
| 1953年 | 3月31日、水城跡が国の特別史跡に指定される |
| 平成時代 | 発掘調査や保存整備が進み、土塁、濠、木樋、東西の門跡など水城の構造が明らかになる |
| 現在 | 大宰府、大野城、基肄城などとともに古代日本の防衛体制を伝える史跡として保存・公開されている |