HISTORY
黒田官兵衛・長政親子が築いた九州最大の城、福岡城
福岡城は築城の名人といわれた黒田官兵衛とその息子、黒田長政によって築かれ、明治になるまで黒田家野居城となった九州一の城です。現在は、天守台・多聞櫓が残る城跡が公園として整備され、観光名所の一つになっています。そんな福岡城の歴史を紐解いていきましょう。
- 福岡城築城以前の福岡
- 福岡は古墳時代より国の要所として、また、外国との国交の窓口として重要視されてきた場所でした。
日本書紀には、「筑紫大宰(つくしのおおみこともち)」という官職が設けられており、中央から福岡へ役人が派遣されたという記録が残っています。
また、奈良時代には筑紫館、平安時代には鴻臚館(こうろかん)という施設が、現在の中国や韓国の施設を迎えるために建てられました。
なお、鴻臚館があった場所に福岡城が建てられており、現在も鴻臚館の発掘調査は続けられています。
鴻臚館の発掘品は、福岡城史跡にある「三の丸スクエア」に展示されています。
室町時代末期、立花山城の出城として名島城が大友氏の家臣である「立花鑑載」(たちばなあきこと)によって建てられます。
その後、秀吉の九州平定により筑前は小早川隆景に与えられ、彼は名島城を改修して居城としました。
なお、小早川隆景の養子が、関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったことで有名な小早川秀秋です。
小早川秀秋は、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いの功労により、岡山に移封されます。
その後、九州の地を任されたのが、同じく関ヶ原の戦いで功績をあげた黒田長政でした。
- 福岡城の築城
- 黒田長政は、慶長6年(1601年)に福岡に入り、最初は名島城を居城とします。
しかし、すぐに手狭となったために同年、福岡城の築城に着手しました。
完成したのは6年後の慶長12年(1607年)です。
黒田長政の父親は、軍師としても名高い黒田官兵衛(黒田如水)です。
官兵衛は藤堂高虎、加藤清正と共に築城の名手として名高い人物です。
福岡城は梯郭式の平山城で、本丸・二の丸・三の丸には、御殿をはじめとする建物のほか、47基の櫓、10棟の城門が作られました。
城の東側を流れる那珂川や、城の西にある「草江」干潟を堀として利用し、城の北側に城下町が広がっていたことが、資料からわかっています。
なお、福岡城は天守台が現在も残っていますが、天守が作られていたかどうかは不明です。
正保3年(1646年)に作成された「正保福博惣絵図」には、すでに天守台のみの姿で描かれています。
つまり、もし慶長12年に福岡城が完成した時に天守があった場合、40年程でなくなってしまったと考えられます。
そのため、現在は天守は作られなかったという説が有力ですが、新しい資料が発見されれば、定説が覆るかもしれません。
黒田長政は福岡城の完成を機に、それまで「福崎」と呼ばれていたその地を、黒田家ゆかりの「岡山県瀬戸内市長船町福岡」にちなんで、福岡と改めました。
その後、福岡城は幕末まで福岡藩の藩庁となり、黒田家が代々藩主を務めています。
福岡城は定期的に回収が行なわれましたが、特に11代目城主の黒田長溥が行なった大改修は有名です。
- 明治以降の福岡城
- 明治を迎えると、福岡城は廃藩置県によって廃城となりました。
福岡城は多くの建物が解体されたり移築されたりして、跡地には陸軍が駐屯します。
なお、鉄物櫓は明治35年(1902年)に火薬の爆発事故で消失、黒田別邸に移築された本丸武具櫓は、昭和20年(1945年)に福岡大空襲で焼失しました。
その後、昭和32年(1957年)には、福岡城跡が国の史跡に指定されます。
それに時を前後して、潮見櫓や祈念櫓、大手門などが福岡県文化財に指定されました。
平成18年(2006年)、日本百名城の85番目に指定されます。
そして、平成25年(2013年)より、城跡を中心とする大規模な歴史緑地公園『福岡セントラルパーク構想』に基づき、城跡の緑地化や建築物の復元が進められています。
- まとめ
- 福岡城は九州一の城であり、福岡藩の藩庁として幕末まで機能しました。
城跡は現在、舞鶴公園と大濠公園となっていますが石垣は当時のままです。
また、公園内にある資料館では、福岡城の在りし日を偲ぶことができるほか、四季折々の花が楽しめます。
現在は、櫓や門などが福岡セントラルパーク構想に基づいて順次復元されているので、いつの日か在りし日に近い福岡城が見られるかもしれません。
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