福岡城福岡県福岡市

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冬の福岡城1 冬の福岡城2 冬の福岡城3 冬の福岡城4
  • 黒田長政が築いた筑前福岡藩の本拠
  • 全国有数の規模を誇る平山城
  • 現在は舞鶴公園として整備され、天守台・石垣・多聞櫓が残る

福岡城とは、福岡県福岡市中央区にある江戸時代初期の城跡である。関ヶ原の戦い後、筑前国へ入った黒田長政が慶長6年(1601)から築城を始め、7年をかけて完成させた。長政は当初、名島城に入ったが、城下町を広げるには地形が狭かったため、福崎の地に新たな城を築いた。城名は黒田氏ゆかりの備前国福岡に由来するとされる。現在は国史跡「福岡城跡」として保存され、舞鶴公園内に天守台、石垣、堀、多聞櫓、伝潮見櫓、下之橋御門などが残る。

福岡城の特長
目的 筑前福岡藩の政庁、黒田氏の本拠、博多湾・城下町・西国交通の支配拠点
特長 黒田長政、黒田官兵衛、舞鶴城、天守台、石垣、多聞櫓、伝潮見櫓、下之橋御門、名島門、舞鶴公園、鴻臚館跡
他の城との違い ・黒田長政が筑前52万石の本拠として築いた大規模城郭である
・天守の存在は長く定かではないが、大・中・小の天守台が残る
・城跡内に古代外交施設である鴻臚館跡も重なり、古代から近世までの歴史を一体で見学できる
福岡城の石垣・土塁
石垣 現存
土塁 一部現存
種類 野面積、打込接、切込接、算木積み、天守台、櫓台、枡形虎口、水堀、平山城
石材 花崗岩など
特長 福岡城は、石垣と広大な縄張りがよく残る城である。本丸、二の丸、三の丸を中心に石垣が残り、大天守台・中天守台・小天守台、櫓台、枡形虎口などから、黒田氏の本城としての規模を感じることができる。大天守台は現在展望台になっており、上面には建物を支えた礎石が残る。南丸の多聞櫓は、高く積まれた石垣上に建ち、石落や鉄砲狭間を備えた防御施設である。福岡城は建物が少ない一方で、石垣と縄張りが城の本質を伝える城跡である。
福岡城DATA
別称 舞鶴城、石城
所在地 福岡県福岡市
築城 1601年着工、1607年頃完成
築城者 黒田長政
住所 福岡県福岡市中央区城内
電話番号 092-732-4801
開館時間 福岡城跡・舞鶴公園は見学自由。福岡城むかし探訪館は9時~17時
休館日 福岡城跡・舞鶴公園はなし。福岡城むかし探訪館は年末年始、12月29日~1月3日
入館料 福岡城跡・舞鶴公園は無料。福岡城むかし探訪館も無料
備考 福岡城跡は国指定史跡で、日本100名城にも選定されている。多聞櫓は国指定重要文化財で、伝潮見櫓、下之橋御門、旧母里太兵衛邸長屋門は県指定有形文化財、名島門は市指定有形文化財である。大天守台は展望台として利用でき、福岡市街や博多湾を望める。城跡内には国指定史跡の鴻臚館跡もある。
福岡城への交通アクセス
地下鉄「大壕公園」駅 徒歩8分

HISTORY 黒田官兵衛・長政親子が築いた九州最大の城、福岡城

福岡城は築城の名人といわれた黒田官兵衛とその息子、黒田長政によって築かれ、明治になるまで黒田家野居城となった九州一の城です。現在は、天守台・多聞櫓が残る城跡が公園として整備され、観光名所の一つになっています。そんな福岡城の歴史を紐解いていきましょう。

福岡城の歴史
1600年 関ヶ原の戦いで黒田長政が徳川家康に味方し、戦後に筑前国ほぼ一国を与えられる
1600年 黒田長政が豊前中津から筑前へ移り、まず名島城に入る
1601年 黒田長政が福崎の地で福岡城の築城を始める
1607年頃 約7年の工事を経て、福岡城が完成する
江戸時代 黒田氏が代々福岡藩主となり、福岡城が藩政の中心となる
江戸時代 本丸、二の丸、三の丸、櫓、門、石垣、堀を備えた大規模な城郭として機能する
1853年 南丸多聞櫓の平櫓が建て替えられる
1871年 廃藩置県により福岡藩が廃止される
明治時代 城郭建造物の多くが失われるが、石垣・堀・一部櫓や門が残る
1957年 福岡城跡が国の史跡に指定される
1987年 旧平和台野球場周辺で鴻臚館跡が発見される
2006年 日本100名城に選定される
2024年 福岡城の天守について、「天守を建てた」と読める新史料が発見される
2025年度 天守台周辺の発掘調査等が始まる予定とされる
福岡城築城以前の福岡
福岡は古墳時代より国の要所として、また、外国との国交の窓口として重要視されてきた場所でした。 日本書紀には、「筑紫大宰(つくしのおおみこともち)」という官職が設けられており、中央から福岡へ役人が派遣されたという記録が残っています。 また、奈良時代には筑紫館、平安時代には鴻臚館(こうろかん)という施設が、現在の中国や韓国の施設を迎えるために建てられました。 なお、鴻臚館があった場所に福岡城が建てられており、現在も鴻臚館の発掘調査は続けられています。 鴻臚館の発掘品は、福岡城史跡にある「三の丸スクエア」に展示されています。
室町時代末期、立花山城の出城として名島城が大友氏の家臣である「立花鑑載」(たちばなあきこと)によって建てられます。 その後、秀吉の九州平定により筑前は小早川隆景に与えられ、彼は名島城を改修して居城としました。 なお、小早川隆景の養子が、関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったことで有名な小早川秀秋です。 小早川秀秋は、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いの功労により、岡山に移封されます。 その後、九州の地を任されたのが、同じく関ヶ原の戦いで功績をあげた黒田長政でした。
福岡城の築城
黒田長政は、慶長6年(1601年)に福岡に入り、最初は名島城を居城とします。 しかし、すぐに手狭となったために同年、福岡城の築城に着手しました。 完成したのは6年後の慶長12年(1607年)です。 黒田長政の父親は、軍師としても名高い黒田官兵衛(黒田如水)です。 官兵衛は藤堂高虎、加藤清正と共に築城の名手として名高い人物です。 福岡城は梯郭式の平山城で、本丸・二の丸・三の丸には、御殿をはじめとする建物のほか、47基の櫓、10棟の城門が作られました。 城の東側を流れる那珂川や、城の西にある「草江」干潟を堀として利用し、城の北側に城下町が広がっていたことが、資料からわかっています。 なお、福岡城は天守台が現在も残っていますが、天守が作られていたかどうかは不明です。 正保3年(1646年)に作成された「正保福博惣絵図」には、すでに天守台のみの姿で描かれています。 つまり、もし慶長12年に福岡城が完成した時に天守があった場合、40年程でなくなってしまったと考えられます。 そのため、現在は天守は作られなかったという説が有力ですが、新しい資料が発見されれば、定説が覆るかもしれません。
黒田長政は福岡城の完成を機に、それまで「福崎」と呼ばれていたその地を、黒田家ゆかりの「岡山県瀬戸内市長船町福岡」にちなんで、福岡と改めました。 その後、福岡城は幕末まで福岡藩の藩庁となり、黒田家が代々藩主を務めています。 福岡城は定期的に回収が行なわれましたが、特に11代目城主の黒田長溥が行なった大改修は有名です。
明治以降の福岡城
明治を迎えると、福岡城は廃藩置県によって廃城となりました。 福岡城は多くの建物が解体されたり移築されたりして、跡地には陸軍が駐屯します。 なお、鉄物櫓は明治35年(1902年)に火薬の爆発事故で消失、黒田別邸に移築された本丸武具櫓は、昭和20年(1945年)に福岡大空襲で焼失しました。 その後、昭和32年(1957年)には、福岡城跡が国の史跡に指定されます。 それに時を前後して、潮見櫓や祈念櫓、大手門などが福岡県文化財に指定されました。 平成18年(2006年)、日本百名城の85番目に指定されます。 そして、平成25年(2013年)より、城跡を中心とする大規模な歴史緑地公園『福岡セントラルパーク構想』に基づき、城跡の緑地化や建築物の復元が進められています。
まとめ
福岡城は九州一の城であり、福岡藩の藩庁として幕末まで機能しました。 城跡は現在、舞鶴公園と大濠公園となっていますが石垣は当時のままです。 また、公園内にある資料館では、福岡城の在りし日を偲ぶことができるほか、四季折々の花が楽しめます。 現在は、櫓や門などが福岡セントラルパーク構想に基づいて順次復元されているので、いつの日か在りし日に近い福岡城が見られるかもしれません。

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福岡藩黒田家が治める
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福岡藩DATA
藩庁 福岡城
旧地域 筑前国那珂郡
石高 52万3000石
譜代・外様 外様
主な藩主 黒田家