小倉藩譜代大名が治めた九州の要地

小倉藩

小笠原家の家紋「三階菱」

記事カテゴリ
藩史
藩名
小倉藩(1600年〜1871年)
所属
福岡県
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小倉藩は、豊前国(現在の福岡県北九州市)にあり、小倉城を藩庁とした藩です。戦国時代を舞台にしたドラマや小説、漫画などにもよく登場する細川忠興が初代藩主を務め、その後は松本藩を治めていた小笠原氏が幕末まで治めました。そんな小倉藩の歴史を紐解いていきましょう。

小倉藩の基礎を築いた細川家

小倉藩を開いたのは肥後細川家初代当主である細川忠興です。忠興は足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といったときの権力者に仕え、明智光秀の子女である細川ガラシャを妻としたことでもしられています。細川忠興は、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦い戦功を立てた褒美として豊前国を与えられました。その結果、彼は丹後12万石から豊前国中津39万9000石の大大名に出世します。細川忠興は、豊前に移ってから一度は中津城に入りましたが、すぐに毛利勝信が居城としていた小倉城を大改築して居城とします。城だけでなく城下町も整備して小倉藩の基礎を築きました。

細川忠興は武将であると同時に当代きっての教養人である茶人でもありました。彼が築いた小倉城は破風が最上階に1つだけという例を見ない造りで、「唐作り(南蛮づくり)」とも呼ばれました。

なお、細川忠興が藩主だった時代、宮本武蔵と佐々木小次郎が小倉藩の領内にあった巌流島で決闘をしています。

細川忠興は、この時代にしては珍しく80代まで長生きしました。しかし、長男を廃嫡し、次男と三男のどちらに家督を継がせるか決定しないまま藩政を続けており、家臣たちをやきもきさせていました。慶長9年(1604年)忠興が病気に倒れると、幕府が三男の細川忠利を跡継ぎにするように勧めます。これは、三男の忠利のほうが幕府との結びつきが強かったためと言われています。なお、次男興秋は忠利の代わりに江戸へ人質に送られる途中、出奔して細川忠興の父、幽斎のもとに出奔してしまいました。

結局、細川家は3男の忠利が継ぐことになり、徳川家康のひ孫にして2代将軍徳川秀忠を大叔父に持つ千代姫を妻にして2代目藩主を継ぎました。なお、細川忠利は父に代わって藩主時代に大坂の陣にも参加しています。大坂の陣の後、細川忠利は戦功によって熊本藩へ石高を増加されたうえ、移封されました。こうして、2代にわたる細川家の治世は幕を下ろしました。

小笠原氏治世の時代

細川忠利が熊本藩に移封された後、松本藩の2代目藩主にして忠利の義理の兄にあたる小笠原忠真が、豊前国15万石を拝領して移封されてきました。彼は、宮本武蔵が仕えた大名としても有名です。また、茶人であり風流人でもあったので、現在の福岡県田川郡香春町で上野焼(あがのやき)という焼き物の育成に力を注ぎました。なお、彼は小笠原家茶道古流の祖でもある一方、大変なぬか漬け好きであり松本藩から明石藩を経由して小倉藩に入るときも、ぬか床を持参したという逸話が残っています。

この小笠原忠真を祖とする小笠原家が幕末まで小倉藩を治めました。2代藩主小笠原忠雄の時代、弟の真方に1万石を分与して支藩である小倉新田藩が誕生します。この時、飢饉や幕府の普請を多く引き受けたせいで藩の財政が悪化していきます。4代藩主小笠原忠総が子供を残さずに死んでしまったので、以後小倉藩の小笠原家は支藩の小倉新田藩と小笠原忠真の血脈が伝わる播磨国安志藩を治める小笠原家から養子を取り合うなどとして、結束を強めていきました。ちなにに、5代目藩主小笠原忠苗は播磨安志藩主・小笠原長逵の三男に当たります。

彼は、先代藩主の代から重用された犬甘知寛という人物を家老に据え、藩政改革に着手します。厳しい倹約令を出し、身分が下の人々の衣装を統一するなど身分制度の強化に努めました。その結果、藩の財政は好転しますが厳しい倹約を命じられたうえ重税を課せられた領民の不満が爆発し、強訴が起こります。この責任を取って犬甘知寛はすべての職を辞して入牢、非業の死を遂げました。小笠原忠苗も責任を取る形で藩主の座を降り隠居します。一連の騒動は「小笠原騒動」と呼ばれました。

跡を継いだ6代藩主小笠原忠固は、播磨国安志藩主・小笠原長為の長男として生まれながら生母が側室であったために小笠原忠苗の養子となった人物です。彼が藩主になったとき、財政は好転していましたが天守の焼失、朝鮮通信使の正使の接待役に任命されるなどして出費が相次ぎ、藩の財政は再び悪化していきました。

小笠原忠固は幕府の閣僚になりたいと考え、江戸家老であった小笠原八雲という人物に、閣僚になるための働きかけをするように命じます。しかし、小笠原八雲は幕府の閣僚、しかも小笠原家の格に合わせた位を手にするには多大なわいろが必要であり、今の小倉藩にわいろを用意する余裕はないと反対します。小笠原忠固は一度はその提案を聞き入れますが、結局野望を抑えることができずに八雲に対して政治活動をするように迫りました。八雲はしぶしぶ彼を幕府の閣僚(老中)にするべく活動を開始します。この活動は小倉藩の財政をさらに圧迫し、ついに破綻寸前にまで藩の財政は悪化しました。

小倉藩を支えていた臣下たちの一部は「小笠原八雲が諸悪の根源である」と暗殺を画策、八雲の腹心を暗殺します。さらに、家臣の一部は集団で隣国福岡藩領である筑前国黒崎へ出奔してしまいました。この醜聞はさすがに幕府の耳に入り、小笠原出雲は家老罷免となって失脚、家臣の一部は処刑、6代目藩主小笠原忠固も100日の閉門となります。この騒動は出奔した家臣の行き先が黒崎であったことから、残った家臣たちを碁石の「白」に例えて「黒白騒動」と名付けられました。

黒白騒動により小倉藩は荒廃し、百姓の困窮を見かねた奉行が独断で年貢を軽くした後で切腹して罪を償うといったことまで起こるようになります。忠固はいまさらながら藩の財政を立て直そうと対策を行いますが効果はなく、小倉藩は衰退していきました。

しかし、7代藩主小笠原忠徴は大変有能かつ公正な人物だったので、衰退した小倉藩をなんとか「6代目藩主の時代よりはまし」程度まで立て直しましたが、49歳の若さで亡くなってしまいます。跡を継いだ8代藩主小笠原忠嘉は忠徴の弟にあたり、兄によく似た聡明な人物でした。彼は兄の志を継いで殖産興業政策をすすめ、薬剤の生成にも力を注ぎます。その結果、領民からの信頼も回復して藩政の立て直しも進みましたが、家臣団に生まれた亀裂は、まだまだ尾を引いている状態でした。彼は兄よりももっと若い22歳で死去します。

その後を継いだ小笠原忠幹も39歳で死去、最後の藩主小笠原忠忱はわずか4歳で藩主の座につきました。彼が藩主の座についてすぐに第二次長州征伐が勃発します。小倉藩は譜代大名だったため、長州藩に攻撃されて劣勢となりました。このとき、藩政を握っていた家老の小宮民部、島村志津摩らが小倉城の放棄を決定し、おさない藩主を熊本藩に逃がした後、城に火を放って焼失させます。これにより実質小倉藩は消失しました。その後、家臣団は田川郡香春に新しい政庁を設置して、翌年長州藩と和解し、慶応4年に新政府に従う姿勢を見せました。明治2年(1869年)、最後の藩主小笠原忠忱は藩知事となり、廃藩置県の後はヨーロッパに留学して伯爵として貴族院議員になり、36歳で亡くなりました。

小倉藩まとめ

小倉藩は天災こそ少ない藩でしたが何度も飢饉に襲われ、しかも小笠原家の統治時代は苛烈な倹約令、行き過ぎた閣僚となるための活動などによって藩政が傾きかけてしまいます。優良な藩主も多かったのですが、黒白騒動の後は往年の輝きを取り戻すことがないまま明治を迎えました。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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