明石城兵庫県明石市

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明石城DATA
別称 喜春城、錦江城
築城 1618年
住所 兵庫県明石市明石公園1-27
明石城への交通アクセス
JR神戸線明石駅、山陽電気鉄道本線山陽明石駅、徒歩約10分。

HISTORY 宮本武蔵作成の樹木屋敷もあった明石城

明石城は、兵庫県明石市にある平城です。2代将軍、徳川秀忠の命によって築城され、宮本武蔵が作庭した樹木屋敷があったことでも知られています。 そんな明石城の歴史を紐解いていきましょう。

2代総軍徳川秀忠の命で造られた城
明石城は、元和4年(1618年)2代将軍徳川秀忠の命によって築城された城です。元和元年(1615年)に武家諸法度が発布され、諸大名は自由に新しく城を築くことができなくなりました。明石城は、武家諸法度制定後に築城された例外的な城と言えます。 元々、明石の地は天正13年(1585年)に高山右近が6万石で拝領していました。彼は船上城を築城し、城下町を調えますが、熱心なキリスト教徒であったため、豊臣秀吉によって天正15年(1587年)に発せられたバテレン追放令によって領地を捨てて加賀へ去りました。 その後、明石の地は姫路藩に組み込まれ、船上城は支城の1つとなって初代姫路藩藩主、池田輝政の8男、池田利正が城主になります。 慶長20年(1615年)の大坂の陣で大坂城が陥落して豊臣家が滅んだ翌年、池田家は鳥取藩に移封され、代わりに信濃松本藩より小笠原忠真が移ってきました。小笠原忠真の母は徳川家康の長男本多信康と織田信長の娘徳姫の娘である、登久姫です。つまり、小笠原忠真は徳川家康と織田信長を父方、母方の曾祖父に持つという素晴らしい血統の持ち主でした。
そんな小笠原忠真が明石の地に移封されたのは、西国諸藩に対する備えとも言われています。西国は豊臣の重臣だった外様大名が多く、幕府としては信頼の置ける大名に監視を任せたかったのでしょう。明石城築城も、西国諸国監視のためという説が有力です。 小笠原忠真は、妻の父である本多忠政とも相談して、人丸山に明石城を築くことに決め、幕府の許可を得ます。築城と同時に城下町の整備も開始しましたが、その際、設計図に当たる町割図を作成したのが、宮本武蔵です。 宮本武蔵は剣豪として名高いですが、同時に作庭家であり建築家でもありました。当時、宮本武蔵は姫路藩主である本多忠刻と交流を持ちながら活動していましたが、彼は本多忠政の長男に当たります。つまり、小笠原忠真と本多忠刻は義理の兄弟でもありました。 宮本武蔵は町割だけでなく明石城内に、城主の遊興場所でもある樹木屋敷も造ったと伝えられています。なお、宮本武蔵は明石市内にある本松寺、円珠院の庭園も作庭しました。
明石城は、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用して着工され元和5年(1619年)には本丸御殿が完成し、小笠原忠真が入城します。翌年の元和6年(1620年)には本丸に4つの三重櫓が完成しました。なお、明石城は築城に当り、幕府からも銀一千貫が与えられ、普請奉行が派遣されています。そして、本丸や東丸の土塁や石垣、堀などは徳川幕府が工事を担当したという記録が残されています。つまり、幕府主導の築城でもあったわけです。 なお、本丸に造られた4つの三重櫓のうち、巽櫓は船上城から、坤櫓は伏見城から、移築されたと伝わっています。坤櫓は国内最大級の3重櫓で、明石城では天守閣の代わりとなっていました。
江戸時代の明石城
元和6年(1620年)に完成した明石城は、そのまま明石藩の藩庁として幕末まで機能しました。 しかし、寛永8年(1631年)、築城からわずか11年後に三の丸台所より出火し、本丸御殿などが焼失してしまいます。巽櫓もこのとき燃えてしまい、後年に再建されました。
明石藩は6つの家によって納められますが、火災発生後に建て替えられて以来、明石城には文化4年(1739年)まで大きな改修はありませんでした。 その代わり、歴代城主は新田開発や用水路の整備など城下の整備に力を尽しました。 そして、明治7年(1874年)に廃城令によって廃城を迎えます。
明治以降の明石城
廃城になった明石城は、北東の艮櫓、北西の乾櫓が解体されますが、巽櫓と坤櫓は保存され、城跡は明石公園として整備されました。 明治34年(1901年)傷みが激しかった本丸や二の丸本丸土塀なども取り壊されます。 なお、宮本武蔵が造った樹木屋敷は陸上競技場となりました。 昭和32年(1957年)巽櫓・坤櫓が国の重要文化財に指定されます。 平成7年(1995年)に発生した阪神淡路大震災により、明石城は大きな被害を受けます。 その後、平成11年(1999年)まで、5年の歳月をかけて修理を行ない、巽櫓と坤櫓を繋ぐ塀も復元されました。 平成15年(2003年)には武蔵の庭園が整備されて一般公開が行なわれ、平成18年(2006年)には、日本百名城の58番目に登録されます。 そして平成30年(2019年)には、築城400年を記念して、櫓・塀の漆喰の塗り直し、樹木の伐採などが行なわれました。
現在の明石城は、明石市の観光スポットとして、また市民の憩いの場として親しまれています。 春には桜、秋には紅葉が楽しめ、能舞台では毎年薪能が行なわれています。
まとめ
明石城は江戸時代初期に建てられ、櫓が現存する数少ない城です。 明石城巡りアプリなども開発されているので、それを利用しながら公園内を散策するとよりお城の歴史や現存する櫓や石垣等の理解も深まります。

明石城を藩庁とする、明石藩の歴史

明石藩西国諸国への抑えとして造られた
明石藩は明石城を藩庁とし、播磨国明石郡と播磨国美嚢郡(現在の兵庫県明石市、神戸市西区、神戸市垂水区、兵庫県三木市)を治めた藩です。明石城が西国への抑えに建てられた城であるのと同様、明石藩は西国諸国への
明石藩DATA
藩庁 明石城
旧地域 播磨国明石郡
石高 8万石
譜代・外様 親藩
主な藩主 小笠原氏・松平氏(戸田)・大久保氏・松平氏(藤井)・本多氏・松平氏(越前)
推定人口 8万2000人(明治元年)

元姫路藩池田家の所領で小笠原忠真が10万石で立藩。譜代が続いた後、親藩の越前松平家が入封。

明石城、二つの三重櫓が現存する天下普請の名城

兵庫県明石市の中心に位置し、JR明石駅から徒歩数分という立地の良さを誇る明石城は、元和4年(1618年)に小笠原忠政が築いた城です。幕府の命による「天下普請」の一環として建てられ、西国諸藩の抑えとなる拠点の城でした。現在は「明石公園」として整備され、全国に12基のみ現存する三重櫓の巽櫓・坤櫓が国の重要文化財に指定されています。

明石城
明石城の歴史
明石城は元和4年(1618年)、江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠が西国防備の要として、小笠原忠政(忠真)に築城を命じた城でした。明石は山陽道が通る交通の要衝で、幕府は西国に対する抑えとして明石城を位置づけたのです。このため銀1000貫目(約31億円)の予算を投じ、幕府の手助けのもと建造されました。
小笠原忠政は織田信長と徳川家康を曾祖父に持つ、戦国時代のサラブレッドで、大坂夏の陣では獅子奮迅の活躍を見せ、血まみれになりながらも奮戦しました。家康は「我が鬼孫」と称賛しました。
明石城の築城にあたっては、幕府の「天下普請」として多くの大名が動員されました。指導役として義父の本多忠政が入り、元和5年(1619年)に着工し、8月までは幕府による石垣、土塁、堀の普請が、9月からは明石藩による櫓、御殿、城門、塀などの建築工事が実施されました。同年末に本丸御殿が完成。建材は廃城となった三木城(現兵庫県三木市)のものなどを活用しました。城は本丸を中心に二の丸・三の丸を配した連郭梯郭複合式。なお、天守台は作られたものの、天守は建てられませんでした。
翌元和6年(1620年)には本丸に4つの三重櫓が完成しています。また、このころ城下町の町割りも整えられており、一説によれば宮本武蔵が町割りを手伝ったとされています。その後、明石港が整備され、明石城と城下町は貿易の街として栄えました。
寛永8年(1631年)は火事などにより本丸御殿などが焼失。その後は再建されることはなく、藩主は以降は三の丸西の居屋敷曲輪の居館に住むことになります。
寛永9年(1632年)に小笠原忠真が豊前小倉藩(福岡県北九州市)へと国替となると、半年ほど幕府の直轄地になったのち、松平氏、大久保氏・本多氏など譜代大名が交替しながら藩政を担いました。
明治6年(1873年)、廃城令を受けて明石城は廃城となり、建造物の多くが取り壊されましたが、一部は民間に払い下げられました。明治16年(1883年)には地元有志が国から借りる形で「民営明石公園」を開設。御料地に編入されたこともありましたが、その後兵庫県が宮内庁から借り受ける形で大正7年(1918年)に県立明石公園を開園し、のちに拡張しました。
第二次世界大戦下で被害を受けたこともありましたが、坤櫓、巽櫓は戦火を免れ、昭和32年(1957年)に国の重要文化財に指定されています。平成18年(2006年)には「日本100名城」に選ばれました。
明石城の見どころ①重要文化財の坤櫓と巽櫓
明石城のシンボルである「巽櫓」と「坤櫓」は、江戸初期に建てられた当時の姿をほぼ完全に残しています。三重櫓は全国で12基しか残っていませんが、三重櫓が2基以上現存する城は明石城と高松城と弘前城だけです。
本丸南東端の巽櫓は船上城(兵庫県明石市新明町)から移築されたものと伝わっており、天守だった可能性もあります。江戸時代前期に焼失しており、現在のものは再建されたものです。
本丸の南西にある巽櫓よりも一回り大きな坤櫓は伏見城から移築されたと伝わっており、天守の代用として活用されました。両櫓の乗る、美しい扇の勾配の石垣も見どころのひとつです。
明石城の見どころ1 明石城の見どころ2 明石城の見どころ3
明石城の見どころ②天守台跡
坤櫓のすぐ近くには天守台が築かれていますが、東西25m、南北20mと大きく、5重の天守が建築できる規模感を誇ります。大砲の的になるため天守は建設されなかったと考えられていますが、中津城(大分県中津市)の天守を移築する計画もあったようです。
天守台からは町の向こうに明石海峡、天気の良い日は淡路島を望むことができ、往時に西国警備の要衝であったことを実感できます。また、天守台に登るための石段には宝篋印塔の基礎が転用されているので注目して見ましょう。
明石城の見どころ4 明石城の見どころ5 明石城の見どころ6
明石城の見どころ③石垣の造形美
明石城の高石垣は東西380mで、三の丸からの高さは約29mを誇ります。石垣は主に花崗岩で、後に明石藩が修復した部分は凝灰岩が利用されました。
石垣の櫓台の出角、算木積みの部分にはノミで稜線を尖らせる「江戸切」という手法が施されているのが特徴的。さらに石垣にはさまざまな刻印が記されており、1445個の刻印が発見されています。
このほか、本丸と二の丸を隔てる大堀切や、三の丸の枡形虎口などは見ごたえたっぷりです。
明石城の見どころ7 明石城の見どころ8 明石城の見どころ9
明石城のおすすめフォトスポット
最も人気のある撮影ポイントは美しい石垣でつながった巽櫓と坤櫓を一直線に望む構図です。また、巽櫓手前の展望台からは明石海峡と明石大橋が望めるフォトスポットとして知られています。また、季節により異なる色の明かりがともる夜のライトアップ時の撮影もおすすめです。
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栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。