明石藩西国諸国への抑えとして造られた

明石藩

小笠原家の家紋「三階菱」

記事カテゴリ
藩史
藩名
明石藩(1617年〜1871年)
所属
兵庫県
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明石藩は明石城を藩庁とし、播磨国明石郡と播磨国美嚢郡(現在の兵庫県明石市、神戸市西区、神戸市垂水区、兵庫県三木市)を治めた藩です。明石城が西国への抑えに建てられた城であるのと同様、明石藩は西国諸国への監視のために設置された藩でした。そのため、譜代大名と親藩の家が治めましたが、幕末までに6つの家が入れ替わる国替えが頻繁な藩でもありました。
そんな明石藩の歴史を紐解いていきましょう。

明石藩が生まれた経緯

明石の地は慶長20年(1615年)の大坂の陣まで、姫路藩の所領の一部でした。元和3年(1617年)、藩主を務めていた池田光政が鳥取藩に移封になると、20万石の領地は分割され、明石の地は松本藩から移封されてきた小笠原忠真に10万石で与えられます。小笠原忠真は、徳川家康の長男本多信康と織田信長の娘の1人、徳姫の娘、登久姫を母に持ちます。

つまり、小笠原忠真は徳川家康と織田信長を父方、母方の曾祖父に持つという素晴らしい血統の持ち主であり、徳川家としても信頼がおける人物でした。

なお、彼はぬか漬けが大好物で、自前のぬか床を持ち歩くほどだったというエピソードが残っています。また、大名茶人でもあり、明石から小倉藩に移封された後に当地に茶道を定着させ、上野焼きの育成に尽力しました。
彼は、2代将軍徳川秀忠の命明石城を築きます。明石の地は山陽道が通っており、丹波国、但馬国、淡路島、四国に通じています。そこに城を築き幕府に忠実な大名家が治める藩をおくことは、西国諸国への抑えとしてとても効果的だったのです。

なお、明石藩の築城や城下町の整備には、剣豪として名高い宮本武蔵も関わっています。
宮本武蔵は、播磨国の生まれで池田光政の後に本多忠刻と交流がありました。本多忠刻と小笠原忠真は義理の兄弟にあたります。宮本武蔵は明石城の樹木屋敷などを造った後、小笠原忠真自身に長期間仕えました。

小笠原忠真は、明石城を造り、明石藩を開いた11年後の寛永9年(1632年)、豊前国小倉藩へ移封となりました。彼はぬか床と共に小倉へ移り、彼の地でぬか漬けをひろめ、今でも小倉の各家には「百年床」と呼ばれるぬか床が残っているそうです。

小笠原忠真移封後、やはり松本藩から移封されてきた松平庸直が次ぎましたが、僅か18歳で亡くなったので甥が後継となりました。しかし、家督を継いだ甥の松平光重は、程なくして美濃国加納へ移封になります。
その後、明石藩は譜代と親藩の家が数代おきに入れ替わることになります。

藤井松平家から本多家までの統治

戸田松平家が移封された後、大久保忠職が10年間1代だけ藩主を務めます。彼は、祖父大久保忠隣が改易された影響を受け、蟄居処分を受けていましたが寛永2年(1625年)に罪を赦され、いろいろな藩の藩主を務めます。明石藩もその一つでした。

大久保忠職が移封された後、藤井松平家が2代にわたって藩主を務めます。松平忠国は新田開発や掘割の開削に尽力しました。跡を継いだ松平信之は、幕府批判をしたことにより明石藩預けとなった熊沢蕃山を庇護したり、人麻呂神社を建立したりするなど、学問や文化の庇護に力を尽しました。その後、貞享2年(1685年)に老中にまで出世しています。

松平信之が明石を離れた後、藩主となった本多政利は、徳川四天王の1人本多忠勝の曾孫に当たる人物です。彼が明石藩の藩主になったのは、本多家のお家騒動に巻きこまれたためです。「九六騒動」とも呼ばれるこの騒動により、政利は郡山藩から明石藩へと移封されました。彼は、領内の大久保村という場所で新田開発に力を入れています。しかし、幕府からの巡検使へ村民から愁訴が行なわれ、懲罰的な移封が行なわれ、陸奥大久保藩へと去っていきました。

明石松平家の統治

本多政利が明石藩を去った後、幕末まで明石藩を統治したのは明石松平家です。明石松平家は、徳川家康の次男、結城秀康からはじまる家系です。結城秀康の孫に当たる松平直明が、明石藩の藩主として初めて着任しました。この頃から、明石藩は蝗害で不作が続いたり、幕府から普請を命じられたりするなどして、財政が逼迫していきます。

明石松平家3代目の藩主、松平直純の時代には銀札を発行するなどしてなんとか財政を建て直そうとしました。しかし、財政は悪化の一途を続け、6代目藩主松平直周の時代には、領内の商人達から借金をするまでになります。

8代目藩主となった松平斉宣は、7代目藩主の養子で徳川家斉の二十六男です。12代目将軍徳川家慶の異母弟、13代目将軍の徳川家定の叔父にあたります。そのため、藩の石高は6万石から8万に増加されましたが、斉宣は不満を覚え、10万石の大名格の扱いを求めました。

幕府はその要求を受け入れましたが、しかしその結果、10万石格という格式を維持しなければならなくなり、藩の財政は一層悪化します。それだけのことをしたのに、松平斉宣は20歳で病没しました。

9代藩主松平慶憲は、7代藩主松平直韶の長男であり、8代藩主徳川家斉が7代藩主の養子になったせいで一時は家督相続から外された人物です。しかし、8代藩主徳川家斉が急逝したことにより、急遽家督を継ぎました。
世の中は幕末を向かえており、明石沖にも外国船が現われるようになっていました。松平慶憲は明石海岸に12箇所の砲台を築き、品川警備を幕府から命じられます。

戊辰戦争は最初こそ幕府側について参戦しましたが、たいした働きもないまま明治政府軍に降伏し、明治を向かえました。
なお、最後の藩主に10代目松平直致がいますが、彼は実質藩知事として活躍し、早々に弟に家督を譲って病没しました。

明石藩まとめ

明石藩は西国の要所として幕府から重要視された藩ですが、譜代大名や親藩の家が6つも入れ替わる落ち着かない藩でした。明石松平家が最終的に10代の藩主を輩出しましたが、その中には8代藩主松平直致のように、幕府から無理に押しつけられた人物もいたのです。
ちなみに、明石松平の姓を受け継ぐ子孫は途絶えましたが、血筋の上では子孫が残っており、現在も明石市との縁を繋いでいます。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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