石垣山城神奈川県小田原市

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  • 豊臣秀吉が小田原攻めの本陣として築いた総石垣の城
  • 一夜城伝説で知られる関東最初期の織豊系城郭
  • 井戸曲輪の石垣が良好に残る国指定史跡

石垣山城とは、神奈川県小田原市早川にある安土桃山時代の城跡である。天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めた小田原合戦の際、小田原城攻略の本陣として築いた。もとは笠懸山と呼ばれていたが、秀吉が総石垣の城を築いたことから石垣山と呼ばれるようになった。一夜城、太閤一夜城とも呼ばれるが、実際には一夜で築かれた城ではなく、のべ4万人を動員し、約80日をかけて築かれたとされる。城は本丸、二の丸、三の丸、南曲輪、西曲輪、井戸曲輪などで構成され、天守台、櫓台、虎口、石垣が残る。小田原合戦後は使用や改修の形跡が少なく、豊臣秀吉が築いた当時の姿をよく伝える城跡として国指定史跡となっている。

石垣山城の特長
目的 小田原城攻略の本陣、豊臣秀吉の在陣地、北条氏への心理的圧力、関東制圧の軍事拠点、長期包囲戦に備えた総石垣の陣城
特長 豊臣秀吉、小田原合戦、小田原北条氏、一夜城、太閤一夜城、笠懸山、総石垣、野面積、穴太衆、天守台、井戸曲輪、二の丸、三の丸、南曲輪、西曲輪、続日本100名城
他の城との違い ・藩の政庁ではなく、小田原攻めのために築かれた豊臣秀吉の本陣である
・陣城でありながら、総石垣で築かれた本格的な織豊系城郭である
・一夜で築かれた城ではなく、完成後に周囲の樹木を伐採して突然現れたように見せたという伝承がある
・小田原合戦後の使用・改修が少ないため、天正18年(1590)前後の築城技術を伝える遺構として重要である
石垣山城の石垣・土塁
石垣 現存。大正関東地震などで崩落した部分もあるが、本丸、二の丸、井戸曲輪などに石垣が残る
土塁 一部痕跡あり
種類 野面積、総石垣、穴太積、天守台、櫓台、虎口、井戸曲輪、山城、陣城、織豊系城郭
石材 現地周辺の自然石。小田原市の説明では、あまり加工しない自然石を用いた野面積とされている
特長 石垣山城の石垣は、あまり加工していない自然石を積み上げる野面積で、近江の穴太衆による石積みとされる。関東で最初に造られた総石垣の城とされ、陣城でありながら本丸、二の丸、三の丸、南曲輪、西曲輪、井戸曲輪などに石垣をめぐらせた本格的な城郭であった。特に井戸曲輪は、谷状の地形に湧く水を守るために石垣で囲った珍しい遺構で、石垣山城を代表する見どころである。天守台跡などからは瓦も出土しており、天守や櫓が存在したと考えられている。石垣山城では、石垣そのものだけでなく、小田原城を見下ろす立地、曲輪配置、井戸曲輪、秀吉の心理戦を合わせて見るのが自然である。
石垣山城DATA
別称 石垣山一夜城、太閤一夜城、笠懸山城
所在地 神奈川県小田原市
築城 天正18年(1590)。小田原合戦に際し、同年4月から6月まで約80日をかけて築かれた
築城者 豊臣秀吉
住所 神奈川県小田原市早川1383-12
電話番号 0465-23-1373(小田原城総合管理事務所)
開館時間 城跡、石垣山一夜城歴史公園は見学自由
休館日 城跡、石垣山一夜城歴史公園は見学自由
入館料 無料
備考 石垣山城は国指定史跡で、続日本100名城の126番に選定されている。小田原市の説明では、国指定史跡「石垣山」の指定面積は48,262.95平方メートルで、城は標高250m前後の尾根上に立地する。現地に管理事務所はないが、石垣山一夜城歴史公園として整備されている。続日本100名城スタンプは、一夜城駐車場のトイレ前に設置されている。駐車場は無料で、駐車台数は58台である。
石垣山城への交通アクセス
JR東海道線「早川」駅下車、徒歩約42分
石垣山城へのアクセス
石垣山城の最寄り駅はJRの「早川駅」で、徒歩約50分、タクシーで約10分です。登城口の近くに駐車場もありますよ。JRの小田原駅から土日祝のみ運行する小田原宿観光回遊バス「うめまる号」に乗れば、城の前までバスで移動できます。小田原城と組み合わせて巡るのもおすすめです。

HISTORY 石垣山城について

石垣山城の歴史
1590年 豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めるため、水陸の大軍で小田原城を包囲する
1590年4月 秀吉が小田原城攻略の本陣として、笠懸山で石垣山城の築城を始める
1590年4月~6月 のべ4万人が動員され、約80日をかけて総石垣の城が築かれる
1590年 山頂の林の中に塀や櫓を造り、完成後に周囲の樹木を伐採して、一夜で城が現れたように見せたという伝承が生まれる
1590年 秀吉は石垣山城に淀殿ら側室、千利休、能役者を呼び、茶会を開いたとされる
1590年6月 石垣山城が完成し、小田原城を見下ろす豊臣方の本陣として機能する
1590年7月 小田原北条氏が降伏し、小田原合戦が終結する
1590年以降 小田原合戦後、石垣山城は軍事拠点としての役割を終える
1591年頃 天守台跡などから「天正十九年」「辛卯八月日」と記された瓦が出土しており、小田原合戦後も短期間ながら造営が続けられたと考えられている
江戸時代 城としては使われなくなるが、石垣や曲輪、井戸曲輪などの遺構が残る
1923年 大正関東地震により、石垣の一部が崩落する
1959年 5月13日、石垣山が国の史跡に指定される
2017年 日本城郭協会により、石垣山城が続日本100名城のひとつに選定される
現在 石垣山一夜城歴史公園として整備され、本丸、二の丸、井戸曲輪、天守台、石垣などを見学できる城跡となっている

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石垣山城、秀吉が小田原攻めで築いた「一夜城」

神奈川県小田原市にある石垣山城は、天正18年(1590年)の小田原攻めの際、豊臣秀吉が築いた総石垣の城です。「石垣山一夜城」「太閤一夜城」の名でも知られ、一夜にして城が出現したことで北条氏を驚かせたという逸話が残されています。しかし、実際の築城には約80日間が費やされていました。現在も本丸や二の丸、井戸曲輪などに豪壮な石垣が残されています。平成29年 (2017年) に「続日本100名城」に選ばれました。

石垣山城
石垣山城の歴史
石垣山城が築かれたのは天正18年(1590年)のこと。豊臣秀吉による天下統一の総仕上げとなった「小田原攻め」の際に築城されました。織田信長の死後に天下人への道を歩んだ秀吉は、四国や九州を平定。残る大勢力のひとつが北条氏でした。両者の関係は次第に悪化し、天正17年(1589年)10月に北条方の猪俣邦憲が、真田領内の名胡桃城を奪取した「名胡桃城事件」をきっかけに、秀吉は北条氏討伐を決定します。
翌天正18年(1590年)1月、秀吉は21万(15万とも)の大軍とともに小田原攻めにむけ準備を開始。2月から北条方の支城を次々と攻略し、3月末には秀吉自身が着陣し、4月上旬に小田原城を包囲しました。
そして秀吉が小田原城を見下ろす笠懸山に本陣として築いたのが、石垣山城です。伝承によれば、秀吉は小田原城から築城の様子が見えないよう、山頂付近の樹木を残したまま城を築きました。そして城がほぼ完成したところで周囲の木々を一気に伐採。小田原城からは、それまで何もなかった山の上に突然巨大な城が一晩で現れたように見えました。このため石垣山城は「一夜城」と呼ばれています。
ただし、石垣山城と小田原城との距離の近さから、石垣山城の築城中の様子は小田原城も把握していた、という説があります。また、秀吉は城に淀殿ら側室や千利休、能役者などを呼び、茶会を開いています。総石垣の壮大な城を築いた背景には、圧倒的な財力や動員力を北条氏に見せつける狙いもあったと考えられています。
実際のところ、石垣山城は天正18年(1590年)4月から6月まで約80日間、のべ4万人が動員され築城されました。城は関東で初めて作られた総石垣の城で、本丸(本城曲輪)、二の丸(馬屋曲輪)、井戸曲輪、南曲輪、西曲輪、東曲輪などからなります。石垣は近江国の穴太衆による野面積みです。
城が落成した6月26日、秀吉が早雲寺から石垣山城へ本陣を移しました。その後、7月5日に北条氏直が降伏し、小田原城は開城。後北条氏は滅亡しました。なお、小田原合戦後も短期間は城の造営が続いていたようで、天守台跡などからは「天正十九年」「辛卯八月日」と記された瓦が出土しています。瓦からは北条氏が滅亡した天正18年(1590年)7月以降も工事が行われていたことが分かります。
ただし、小田原攻めのために築かれた石垣山城は、その役割を終えると城として使われなくなったと考えられています。その後、石垣山城が本格的に再利用されることはなく、廃城となりました。
明治時代以降も城跡は残され、大正12年(1923年)の関東大震災では石垣の一部が崩落するなどの被害を受けました。その後、昭和34年(1959年)に北曲輪と出曲輪以外の部分が「石垣山」として国の史跡に指定されます。
平成2年(1990年)には「石垣山一夜城歴史公園」として整備・公開されました。平成18年(2006年)と令和5年(2023年) には一部地域が史跡に追加指定されています。
石垣山城の見どころ①圧巻の石垣が残る「井戸曲輪」
石垣山城を訪れたらぜひ見ておきたいのが「井戸曲輪」です。「淀殿の化粧井戸」とも呼ばれています。井戸曲輪は谷状になった地形の四方を石垣で囲っており、底には谷の湧水を利用した井戸があります。
井戸曲輪には石垣山城のなかでも特に保存状態のよい野面積みの石垣が残っており、秀吉の築城当時の石垣山城を知るうえで欠かせないスポットです。石垣の高さは約10mにも及び、迫力満点ですよ。
石垣山城の見どころ1 石垣山城の見どころ2 石垣山城の見どころ3
石垣山城の見どころ②南曲輪に残る野面積みの石垣
登城口から入って程近くにある南曲輪の石垣も見どころの一つです。南面には安山岩による野面積みの高石垣がゆるやかな勾配で続いています。ごつごつした石垣ですが、現在も崩壊せずに残されており、当時の穴太衆の技術力の高さが実感できます。
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石垣山城の見どころ③本丸と馬屋曲輪
石垣山城の中心となるのが山頂付近の本丸(本城曲輪)です。城内でも最大級の曲輪で、標高は257m。南西側には天守台が設けられていました。天守台の石垣はほぼ崩壊しています。石垣の間からは大量の瓦が出土しており、瓦葺きの天守だったことが推定されていますが、具体的な形ははっきりとわかっていません。
本丸の北東側には物見台があり、小田原城の天守や小田原市街、相模湾を一望できます。石垣山城から小田原城までは直線距離で約3km。秀吉がなぜこの場所を本陣に選んだのかがよく分かります。
本丸の北側には二の丸にあたる「馬屋曲輪」があります。本丸と並ぶ広大な曲輪で、現在は芝生広場として整備されています。周辺には石垣が残されており、本丸とあわせて石垣山城の規模を実感できる場所です。
石垣山城の見どころ7 石垣山城の見どころ8 石垣山城の見どころ9
石垣山城のフォトスポット
石垣山城でおすすめのフォトスポットは、本丸の物見台です。眼下には小田原市街が広がり、その先には相模湾を望むことができます。小田原城も確認でき、秀吉が北条氏の本拠を見下ろしていた当時の位置関係が実感できます。当時の石垣山城を彷彿とさせる井戸曲輪もおすすめのフォトスポットです。
石垣山城の見どころ10 石垣山城の見どころ11 石垣山城の見どころ12
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。