岡山藩(1/2)宇喜多秀家が基礎を作り池田氏が治める

池田家の家紋「備前蝶」

記事カテゴリ
藩史
藩名
岡山藩(1603年〜1871年)
所属
岡山県
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岡山藩は、備前全体と備中の一部を領有した外様の大藩です。関ヶ原の戦いで西軍につき、のちに八丈島に流刑になった宇喜多秀家が整え、小早川秀明を経て姫路城を現在の形に整えた、池田輝政の次男、池田忠継をはじめとする池田家が幕末まで治めました。
そんな岡山藩の歴史を紐解いていきましょう。

池田家が治めるまでの岡山藩

岡山の地は、豊臣家の五大老の一員でもあった宇喜多秀家が岡山城を築き、城下町を整えました。
宇喜多秀家は下剋上によって戦国大名にのし上がった父、宇喜多直家の所領をそのまま受け継ぎ、8年の歳月をかけて岡山城を大改築し、岡山の城下町を整えました。

しかし、前述したように宇喜多秀家が関ヶ原の戦い後に八丈島に流されて改易された後、関ヶ原の戦いの最中に西軍から東軍に寝返ったことで有名な小早川秀明が入封し、備前・美作の51万石を拝領します。
小早川秀明は岡山城を改築するなど一定の実績を残しますが、入封してわずか2年後に急死してしまいました。
小早川秀明は嫡子がいないので、小早川家はここで断絶します。

池田家の治世

再び治める家がいなくなった岡山藩の城主の地位に就いたのは、池田輝政の次男、池田忠継です。
池田忠継の母は徳川家康の次女、督姫なので徳川家康の外孫にあたります。

しかし、城主になった当時はわずか5歳であったので、異母兄の池田利隆が城主代行として岡山に入り、池田忠継は父が治める姫路城にとどまりました。
ここに、岡山藩が正式に成立します。

慶長18年(1613年)には約10万石の加増を受け38万石となり、外様大名としてはトップクラスの大大名となります。

しかし、池田忠継は、元和元年(1615年)が跡継ぎのないまま没したため、淡路国を治めていた、同母弟の池田忠雄が二代目城主となります。

池田忠雄は、岡山城を石高にふさわしい格式に改築したり城下町を整備したりしました。
さらに、新田開発や治水工事にも取り組みますが、寛永7年(1630年)、目をかけていた小姓が藩士の河合又五郎に殺害される事件が起こります。
激怒した池田忠雄は、又五郎の捕縛を命じますが彼は、旗本・安藤正珍にかくまわれ、岡山藩池田家と旗本のメンツをかけた争いになってしまいました。

池田忠継は、この騒動の最中に没しますが、毒殺されたのではないかという説もあります。
ちなみに、この岡山藩池田家と旗本との争いは、のちに殺された小姓の兄が、河合又五郎を討って仇討ちを成し遂げることで決着がつきました。

これは、「鍵屋の辻の決闘」として現在も語り継がれており、赤穂浪士の討ち入り・曽我兄弟の仇討ちと並んで、日本三大仇討ちのひとつに数えられています。

この仇討ちは小姓の兄と共に仇討ちに参加した「荒木又右衛門」が有名となり、彼の名前を表題にした小説やドラマ・映画も作られました。

池田忠雄には、嫡子である池田光仲がおりましたが、まだ幼少のため岡山藩は治められないと判断され、因幡鳥取藩に移封されます。

代わりに、因幡鳥取藩の藩主であった池田光政が岡山藩の藩主になります。
池田光政は、池田忠継に変わって岡山藩の城主代行であった池田利隆の長男に当たります。
この国替えにより、池田光政の系譜が明治まで岡山藩の藩主を務めることになりました。
池田光政は、岡山城の鎮守として東照宮(現在の玉井宮東照宮)を勧進します。

次いで、陽明学者熊沢蕃山を招聘して藩に儒学を広めました。岡山藩初めての藩校である藩校花畠教場を開校しています。

池田光政は、その後寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校とて知られる閑谷学校まで作り、教育の充実と質素倹約を旨とした「備前風」といわれる政治姿勢を確立しました。
このほか、岡山郡代官津田永忠を登用し、干拓事業を行って新田開発をしたり、旭川の放水路である百田川を造ったりするなど、土木工事にも力を入れています。
この賢君ぶりにより、池田光政は、水戸藩主徳川光圀、会津藩主保科正之と一緒に、江戸時代初期の三名君と称されています。
寛文12年(1672年)光政は藩主の座を嫡男の綱政に譲りますが、天和元年(1681年)に死去するまで実権は握り続けました。

4代目藩主池田綱政は、岡山後楽園を造園した大名として知られています。
また、は津田永忠、服部図書らを登用して財政再建に取り掛かったり、干拓事業に力を入れたりしました。
さらに、洪水対策として百間川や倉安川の治水工事も行っています。

綱政の政策は一定の成功をおさめ、藩主になった時には傾きかけていた財政がいったんは立ち直りました。
このほか、綱政は大変な子だくさんとして知られており、記録に残っているだけで14人の子供がいます。
しかし、実際は正式な届け出もない庶子もいて、一説には70人以上の子供がいたともいわれえています。
「土芥寇讎記」などでは「暗愚」とも記されていますが、これは、綱政が父光政ほど儒教に興味を持たず、公家風の文化を好んだせいではないかという説もあります。
綱政の子女はその多くが早世し、70歳を超えてようやく12歳の十七男継政(公式には四男)を跡継ぎに定めることができました。

5代目藩主池田継政は温厚で堅実な人柄で、手堅い政治を行いました。そのため、近隣の藩で一揆が相次いだ時でも岡山藩だけは一揆が起こらず平穏であったという逸話が残っています。
しかし、継政は正徳3年(1713年)に仙台藩5代目藩主伊達吉村の子女、村子と結婚しますが、4年後に突如離婚してしまいます。

大名の離婚は前代未聞であり、しかも幕府や伊達家に一切の相談なくいきなり離縁してしまったので、幕府の詮議を受けただけでなく、伊達家とは絶交状態となりました。
池田家と伊達家がようやく和解したのは、天明4年(1784年)のことです。

跡を継いだ6代目藩主池田宗政は、38歳の若さで父に先立って死去、7代目藩主の座に就いた池田治政は、老中・松平定信が行った寛政の改革に反発し、豪華な大名行列を仕立てて参勤交代のために江戸に下ったという逸話が残っています。

文人として大変優れた人物で、絵画や俳諧にいくつもの作品を残しました。
また、すっかりさびれていた閑谷学校も再興しています。

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執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。