伊達政宗天下奪取の野望に燃えた奥州の粋

伊達政宗

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人物記
名前
伊達政宗(1567年〜1636年)
出生地
山形県
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戦国時代、数々の武将が綺羅星の如く現れては消えた時代に奥州でひときわ輝いた武将がいました。戦国から江戸初期を駆け抜けた伊達政宗は、いつも虎視眈々と天下を狙っていた男です。伊達男の由来ともなった派手好みで、洒落た男は茶道や能楽といった芸事にも優れており、徳川家康をはじめ、歴代将軍にも重用された別名副将軍でした。今回は、そんな伊達政宗の生涯についてご紹介します。

伊達政宗の幼少期から元服

伊達政宗は永禄10年(1567)8月3日、に出羽国米沢城において伊達氏第16代当主であった伊達輝宗(てるむね)の嫡男として、正室の最上義守の長女・義姫(最上義光の妹)との間に生まれました。幼名は梵天丸です。

天正5年(1577)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名乗るようになります。諱の「政宗」は父である輝宗が伊達家中興の祖である第9代目当主・大膳大夫政宗から名付けたものでした。梵天丸はこの諱を固辞しましたが、父の輝宗から強いられ名乗った経緯があります。

天正7年(1579)10月、初代征夷大将軍・坂上田村麻呂の子孫である東北地方南部の三春城主であった田村清顕から娘を政宗に嫁がせたいと言う話が持ち上がります。
父の伊達輝宗はこれを承諾、政宗は13歳で田村清顕の娘である当時12歳だった愛姫(伊達政宗と同じく伊達稙宗を曽祖父にもつ)を正室に迎え入れた。

天正9年(1581)5月上旬、政宗は父輝宗と一緒に隣接する戦国大名の相馬氏との戦いで伊具郡に出陣、初陣を飾っています。この後政宗は、父の輝宗の代理人として田村氏や蘆名氏との外交を担当するようになりました。

家督相続、そして摺上原の戦いへ

天正12年(1584)10月、父の輝宗が隠居し家督相続しました。
その後、天正14年(1586)4月政宗は自ら出馬して二本松城を包囲。畠山氏は当主・国王丸を立てて必死に抵抗しますが、相馬義胤の仲介により伊達氏と蘆名氏の間で和議が結ばれたのち、国王丸は二本松城を明け渡し会津の蘆名氏へ身を寄せます。
政宗は佐竹氏をはじめ南奥州諸侯との和議を進め、一旦は平和を取り戻します。

しかし、同年11月に蘆名氏に身を寄せた亀若丸がわずか3歳で急死。佐竹義重は自分の子の義広を蘆名氏の当主に擁立してしまいます。しかし、義重は事前に白河結城氏・岩城氏などに義広の擁立に関する同意を取りつけており、弟の小次郎を擁すると思われた政宗には事前連絡がありませんでした。これを機に、政宗は佐竹氏との全面対決を意識するようになります。
天正15年(1587)12月、天下人となった関白・豊臣秀吉は関東・奥羽の諸大名に惣無事令(私戦禁止令)を出しますが、政宗は秀吉の命令を無視します。

政宗は、天正16年(1588)になると2月、北方の大崎氏家中の内紛に介入して戦を興しますが旗色の悪い戦が続きます。しかし、南方戦線では伊達成実による大内定綱の調略が成功、北方戦線で5月に最上氏との間に母・義姫が介入した末に停戦。
同年7月、最上氏および蘆名氏と和議が成立して窮地を脱します。正室であった愛姫の実家・田村氏領を確保しました。9月、金山宗洗を通じて豊臣秀吉へ恭順の意を表します。

天正17年(1589)2月、政宗は落馬で左足を骨折してしまいます。その隙を狙い、4月には岩城常隆が田村領に侵攻、相馬義胤も呼応しました。
回復した政宗は5月に出陣しますが、蘆名方の片平親綱(大内定綱の弟)が政宗に帰順したと知り、一転して会津に向かいます。
6月にかけて会津の蘆名義広と争い、磐梯山麓の摺上原で撃破しました(摺上原の戦い)。
秀吉は恭順と惣無事令を反故にした政宗に「会津から撤退しなければ、奥羽へ出兵する」と通告します。

小田原合戦で豊臣秀吉に服従

天正17年(1589)11月、北条氏が真田領へ侵攻したため、豊臣秀吉は小田原征伐を決めます。伊達政宗は父の輝宗時代から北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたと言われています。

秀吉の小田原征伐中となる天正18年(1590)5月、豊臣配下浅野長政から小田原への参陣を催促されます。政宗は5月9日に会津を出立、米沢や同盟を結んでいた上杉景勝の所領の越後国・信濃国、甲斐国を通って小田原に到着しました。
秀吉の動員した兵を考慮した政宗は秀吉に服従、秀吉は会津領を没収しましたが、伊達家の本領72万石(おおむね家督相続時の所領)を安堵しました。

この時、遅参の詰問に来た前田利家たちに「千利休の茶の指導を受けたい」と申し出て、秀吉らを感嘆させたそうです。これは秀吉の派手好みの性格を知っての振る舞いだったとも言われています。
政宗が秀吉に服従して間もなく、北条氏政・氏直親子は秀吉に降伏、秀吉は宇都宮城で奥州仕置(宇都宮仕置)を行って、秀吉の日本統一が達成されました。

関ヶ原の戦いから仙台藩創始まで

豊臣秀吉が亡くなったのち、慶長5年(1600)になると徳川家康が会津の上杉景勝討伐の軍を送ります。政宗も家康に従い、7月25日には登坂勝乃が守る白石城を奪還しました。家康が畿内を離れた間に、反家康派だった五奉行の石田三成たちは五大老の毛利輝元を総大将に挙兵。
下野国小山(現在の栃木県)まで北上していた家康は引き返すことになります。同年9月、関ヶ原の戦いが起こりました。西軍の上杉家重臣・直江兼続が率いる兵が東軍の最上氏領内に侵入すると(慶長出羽合戦)、東軍に属していた政宗は最上氏からの要請を受けて兵を派遣します。
関ヶ原の戦いは東軍の徳川家康の勝利となりますが、政宗が望んだ恩賞は叶えられず、領地は60万石となりました(のちに近江国と常陸国に飛地2万石を加増されて62万石。

関ヶ原の戦い後、徳川家康の許可を得て慶長6年(1601)、居城を仙台に移して城・城下町の建設を始めました。仙台城は山城で天然の地形を利用したもので、仙台の城下町は一からの開発となったため、のべ100万人を動員した大工事となったと言われています。
政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を計画、慶長18年(1613)に仙台領内で船を建造。政宗は家康の承認を得て、支倉常長らをメキシコ・スペイン・ローマへ派遣しました(慶長遣欧使節)。
慶長8年(1603)以降は江戸幕府の幕臣と交際が多くなり、さまざまな贈答品に頭を悩ませ、酒宴・歌会・茶会・能見物等に熱中していました。

政宗の最期

政宗は慶長19年(1614)の大坂冬の陣と翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣に出陣します。夏の陣では、道明寺の戦いで後藤基次らと戦っています。

豊臣家が大坂の陣で滅ぶと世情が落ち着き、政宗は以後領国の開発に力を入れていました。のちに貞山堀と呼ばれる運河を整備しています。こうした領国開発のおかげで、仙台藩は表向きの石高よりもずっと豊かであったと言われています。
また上方の文化を積極的に導入、技師・大工らを招いて桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出しました。
国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物が現在まで残っています。

政宗は3代将軍・徳川家光の頃まで仕えます。寛永12年(1635)に家光が参勤交代制を発布し、「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べたとき、政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出て、誰も反対できなくなった逸話は有名です。家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼んで慕っていたと言われています。
家光に乞われ、秀吉や家康との思い出をはじめ合戦の話など、戦国時代の昔話をしては家光を喜ばせていたようです。

健康に気を使う政宗も、寛永11年(1634)頃から食欲不振や嚥下に難を抱えるなど体調不良となり、寛永13年(1636)4月20日に参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化、宿泊した郡山では嚥下困難と嘔吐で何も食べられなくなってしまいました。4月28日に江戸に入った頃には絶食状態が続いており、病を押して参府します。
家光は、5月21日に伊達家上屋敷に政宗を見舞っています。
5月24日死去。享年70。「伊達男」の名に恥じず、臨終の際は妻子にも死に顔を見せない心意気だったそうです。将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発しており、御三家以外で異例の事でした。

伊達男にふさわしい逸話の数々

政宗と眼帯
政宗の肖像では、天然痘で失明した右目は白濁して見開いており、健康であった左目は右目よりもさらに大きく見開いています。
これは政宗の生前の希望に従っており、右目を黒く描く肖像も存在しています。他にも「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えで、死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。
政宗が登場するゲームや物語では眼帯をつけているのが多く存在しています。しかし、残っている記録には目を覆った様子は見当たらないのです。ドラマなどで政宗役の俳優が演技時に刀鍔型をした眼帯などで右目を覆う慣習は、古くは1942年の映画『獨眼龍政宗』からであると言われています。しかし、近年では右目を隠していない作品もあり、より史実に基づいた描写に変更しているものもあります。
伊達政宗が「独眼竜」と呼ばれるようになったのは、江戸時代後期の儒学者・頼山陽の賦した漢詩が始まりとされています。山陽の没後、天保12年(1841年)に刊行された『山陽遺稿』に収められている「詠史絶句」15首のひとつに、政宗に題をとったものがあり、天保元年(1830年)の作と言われているようです。
料理に傾倒した政宗
若い頃は兵糧開発を目的としており、岩出山名物の凍り豆腐とずんだは政宗の研究の末に開発されたものでした。
仙台城の築城のときには味噌が作れるよう、仙台城内に『御塩噌蔵(ごえんそぐら)』を建て、筑紫国からわざわざ職人を呼び寄せたことが仙台味噌の始まりと言われています。味噌の大規模な生産体制が確立されたのはこれが日本で初めてだったとか。
江戸時代になると兵糧の需要は激減しますが、「美食を極める」ことで料理研究を続けていました。
『政宗公御名語集』には「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」という政宗の言葉が残されています。
この金言は後世多くの料理人に影響を与えており、伊達家御用蔵が母体となっている宮城調理製菓専門学校のほか、服部栄養専門学校などでも校訓に引用されているほどです。
酒も大好きだった政宗は、柳生宗矩に紹介された職人を招き仙台城に酒の醸造所を建てています。ただし、政宗本人は酒に弱く、二代将軍秀忠との面会を二日酔いが原因で反故にしたり三代将軍・家光の御前で酩酊した挙句眠りこけたりしたなどの失敗談も残っています。

生誕の地、米沢城

伊達政宗が生まれた米沢城は代々伊達家の居城として豊臣秀吉に召し上げられるまでの約200年治めていた城です。
慶長3年(1598)豊臣政権の五大老である上杉景勝が120万石で移ってきたときに、直江兼続が城主を務めていた時期もありました。その後は江戸時代を通じて、上杉家の居城とされて、現在、本丸跡は上杉神社の境内、上杉鷹山を祀る松岬神社も隣接しています。

仙台城と伊達家

仙台城は別名、青葉城とも呼ばれています。
標高は約130mで、東と南を断崖という天然要害に築かれている仙台城は、徳川家康から警戒されないために、 天守閣はわざと作らなかったとも伝わります。残念ながら城は残っていませんが、石垣と再建された脇櫓が往時をしのばせてくれます。
政宗公騎馬像も建っており、天下取りの野望に燃えた政宗公と同じ視線で、市街を展望することができます。また、青葉城資料展示館ではコンピューターグラフィックスを使った青葉城復元映像などを見学が見られます。平成15年夏、国の史跡指定を受けました。
城跡一帯は青葉山公園となっており、本丸跡からは仙台市内、太平洋を一望できます。
土井晩翠銅像前では「荒城の月」の自動演奏が9:00から18:00までの30分ごとに流れます。
日没後から23時まで石垣と伊達政宗公騎馬像がライトアップされており、仙台の夜景を楽しむことができるため、デートスポットとしても親しまれています。

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。