石見銀山ガイドの会 大野さん
- 石見銀山ガイドに聞く!山吹城跡&石見銀山の見どころ
- 2007年に世界遺産登録の「石見銀山遺跡とその文化的景観」。日本国内はもとより、アジアで初めて世界遺産に登録された「産業遺産」です。産業遺産というと自然遺産や城や神社仏閣などに比べてわかりにくい部分もありますが、私たちの生活に密着しており、深く知れば知るほど面白くなるんです。そんな石見銀山をよく知るには地元の方々に聞くのが一番!
- 旅と城なのでお城には行きたい! 多数のガイドコースから、今回「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成要素から龍源寺間歩、そして山吹城跡を含む「山吹城跡・龍源寺間歩コース」に参加し深掘りしてきました。同行するのは世界遺産ライターの本田陽子さんです。
- スタートは銀山公園
- 今回参加したコースは「山吹城跡・龍源寺間歩コース」。石見銀山公園から江戸時代の趣がところどころに感じられる街並みを散策し、山吹城大手門跡登山口から山を登って山吹城跡を訪れ、龍源寺間歩を見学するコースです。普通に歩くと2時間程度ですが、ガイドコースは4時間。今回はガイドの大野さんが同行してくれました。
- 石見銀山公園では地図をもとにルートを確認します。鉱石を運んだ道や山吹城の曲輪の跡などを予め解説してくださるので、どんな道を歩くのかが分かりやすく、ツアーへの期待が高まります。
- 銀山公園から世界遺産に指定された街を通り抜けながら山吹城大手門跡の登山口に向かいます。大野さんが歩きながら街並みや植物などを解説してくれるので飽きることがありません。
- 「これはテイカカズラといって、百人一首の藤原定家の名前がついているんです」と大野さん。藤原定家が慕っていた式子内親王の死後、親王のことが忘れられず、テイカカズラに生まれ変わって墓に絡みついたという伝説が残るつる性植物なのだとか。大野さんは「永遠のストーカー」とさらっと説明していました。確かに…。
- 豊栄神社で毛利元就を偲ぶ
- 途中には江戸時代初期の銀精錬遺跡「下河原吹屋跡」や、毛利元就ゆかりの「豊栄神社」に立ち寄ります。豊栄神社は元は長安寺というお寺です。永禄4年(1561年)に毛利元就が山吹城内に自分の木像を安置し、元亀2年(1571)に建立した長安寺に木像を移したといわれています。毛利氏は翌永禄5年(1562年)に石見銀山を掌握し、その後38年間支配しましたが、関ヶ原の戦いで敗れ、石見銀山は徳川家が治めることに。長安寺は荒廃していきます。
- その後、幕末の長州征伐で長州藩は石見を攻めましたが、その際兵士たちは毛利元就を祀った寺の存在を知り、整備し直しました。ちなみに当時は廃仏毀釈で神道を重視したため、寺から神社になったそうです。
- この辺りは説明版に書いてある内容なのですが、大野さんは石見銀山と毛利氏の関係まで掘り下げます。実は、毛利氏が強かったのは石見銀山の銀のおかげ。銀は温泉津港から積み出され、下関などを経て中国との貿易に用いられ、火薬の原料である硝石の購入などに使われたそうです。大野さんは「毛利の強さは鉄砲軍団の充実もあったのでは。大友氏が毛利氏に『硝石を少し分けて』とお願いしたという資料もあるんですよ」と解説してくれました。
- その後、江戸時代の奉行所跡を経て、緑に囲まれた遊歩道をどんどん山を登っていきます。「以前この辺りは守りの中心でたくさんの寺があったのですが、人とともに動いていきました」と解説する大野さん。奉行所跡の立派な石垣についても教えてくれました。
- 山吹城跡から石見の地を眺める
- 山吹城跡に向かって遊歩道を進むなか、大野さんは山吹城の構成について解説してくれました。山吹城は5つほどの曲輪が階段状に続いており、下から攻めてきた場合は上から石を落とせるような竪堀を設けています。その数はなんと19本以上あるのだとか。山頂部からは360度のパノラマが楽しめますが、大野さんは「あちらは石見城、あちらが銀山を巡る攻防で築かれた矢滝城」と詳しく解説してくれました。
- さらに大野さんは戦国武将で歌人としても有名だった細川幽斎(藤孝)に関するエピソードも教えてくれました。細川幽斎といえば明智光秀と親交が深く、本能寺の変の際は明智光秀から協力を求められますが拒否した人物。そんな幽斎は仁摩から銀山を通って温泉津に移動した際、山吹城の句を詠んだそうです。
- その句が「城の名も ことわりなれや 間歩よりも 掘る銀(しろがね)を 山吹にして」。間歩(鉱山の掘り口)から掘り出す銀を山「やま」で精錬、つまり「ふい」て山吹色の金に変えたので城の名前が山吹城なのだ、という内容。勉強になりますね。
- 知らなければただの山にしか見えない場所ですが、ガイドさんとともに回ると、銀山を巡る戦国武将たちの戦いが想像できてわくわくしますよ。
- 龍源寺間歩を歩く
- 石見銀山で銀が取れるのは仙ノ山(標高537m)で、大野さんによれば100万年以上前に火山活動により銀鉱床が生まれたようです。マグマの中にあった銀が数百度の液体にとけこみ、それが地中の割れ目や断層に沿って上昇、地表近くで冷却されて鉱脈ができるのだとか。仙ノ山は山吹城のある要害山と隣接しており、鉱床の一部が要害山にも続いてるそうです。
- 石見銀山で代表的な間歩が、今回訪れた龍源寺間歩です。約600mの坑道のなかに上下左右に向かう穴がたくさん掘られています。大野さん曰く、私たちが歩く坑道の部分は通路で、銀が出たのは横の小さい穴なのだとか。今回、撮影のために特別にヘルメット着用なしで案内していただきました(通常はヘルメットを着用します)。
- 近くにはシダ科の「ヘビノネゴザ」が群生していました。土の中の金属を吸収する植物で、この植物を目指して山師が銀を探します。第168回直木賞を受賞した千早茜さんの『しろがねの葉』はこれか…。
- 続いて龍源寺間歩の内部に入ります。壁にはのみで掘り進んだ後がはっきり残ります。大野さんによると、1日30cmずつ掘り進んでいくそうで、非常に狭い隙間のような場所を銀の鉱脈を辿りながら掘り進めるのだそう。上に掘ったり斜め下に掘り進んだりと、さまざまな場所で小さな穴が掘られていました。大野さんに「ほら、ここあたりがちょっと出た感じ」「ここは見えますね」と言われますが、言われないと全然わからない…!!
- それもそのはず、銀というときらきらしたものが岩に埋まってそうなイメージですが、実際は黒っぽく見えるんだそう。さらに昔はサザエ殻に油を入れて火をともす「螺灯」を使っていたので今ほどはっきり見えませんでした。1kgの鉱石から1gの銀が採れたら優秀な鉱石なんだそうです。厳しいですね。
- 坑道を進むと、新たに設けられた観光用の坑道に到着。ここはセメントが使われており、歩きやすいのが特徴。『石見銀山絵巻』の電照板が並んでおり、大野さんも説明版を使いつつ、鉱山の掘り方などさまざまなことを解説してくれました。
- 鉱山を掘り進む人を「掘子」と呼びますが、4時間勤務5人チームで掘り進んで、銀2匁、4000円位が給料として支払われていたのだとか。ちなみに4時間にはトイレや食事の時間は含まれていません。他には石をひたすら運ぶ仕事の人もおり、1日120往復するのがノルマだそう。思わず参加者皆で「ええええ」と叫んでしまいました。
- 石見銀山では子どもも働いていたそうで「10歳から坑道内で掘子の手伝いをして仕事を覚え、15歳から1人前、30歳まで生きたら長生きでお祝いしたんです。胸の病などで皆短命でした」と大野さんは説明してくれました。銀山の女性は生涯で3人の亭主を持つ、という話まであったんだとか。
- この対策に乗り出したのが医師の宮太柱で、日本最古のマスク開発者として知られています。もともと鉱山内では脱穀に使う「とうみ」を活用してなかに酸素を送っていました。それに、薬草を燻じたものを一緒に送るようにしたり、マスクを開発して着用させたそうです。初めて知った…。
- そして佐毘賣山神社へ
- 最後に訪れたのは佐毘賣山神社。かなり急こう配の階段を挙がると見えてくる鉱山の守り神的存在で、15世紀中頃に作られたそうです。主祭神は精錬の神である「金山彦命」で、別名「山神社」。地元の人々からは「山神さん」と呼ばれて親しまれていたそうです。実はこの辺りは石見銀山を発見した博多商人の神屋寿禎により、初めて灰吹き法が導入された場所なんだとか。
- 灰吹き法というのは鉛と灰を利用して銀の精錬を行う方法で、まず要石の上で鉱石を粉々にくだき、水を入れてゆすりながら熱します。そこに鉛を入れると、鉛が金や銀を吸収するのだそう。次に鉄鍋に灰を引いて鉛の合金を密閉し、熱すると融点の違いで銀が分離されるそうですよ。
- こうしてガイドは無事に終了。石見銀山歴史に加え、太古の昔の火山活動による鉱山の成り立ちから植物をはじめとした石見の景観まで、盛りだくさんのガイド内容は石見銀山の魅力を心に深く刻んでくれました。
- 石見銀山ガイドの会
- 2000年4月に地元の有志によって結成。石見銀山についての研鑽を重ねながら、ボランティアガイドとしての活動を続ける。ガイドツアーのお申し込みは事前予約が必要です。詳しくは公式ホームページをご覧ください。

- vol.9 島根県大田市