豊臣秀次秀吉に人生を翻弄された男

豊臣秀次

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人物記
名前
豊臣秀次(1568年〜1595年)
出生地
愛知県
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清洲城

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近江八幡山城跡

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関係する事件

戦国時代、戦国大名として大成するためには譜代と言われる重臣の存在と同時に兄弟や一族郎党の力もまた必要でした。時には家臣以上の働きをする一族もいれば、様々な理由で争ったり仲たがいをしたりするケースもあり、武将によって様々な記録も残されています。豊臣秀次もまた、天下人・豊臣秀吉の甥という立場によってその生涯を翻弄されました。今回は、そんな秀次の生涯を紹介します。

秀次の誕生と成長

永禄11年(1568)、秀吉の同母姉・とも(瑞竜院日秀)と弥助(後の三好吉房)夫婦の長男として誕生。生誕地については愛知県知多郡の父の屋敷があった貴船社周辺とみられています。名は治兵衛(じへえ)と名付けられました。

元亀元年(1570)4月、織田信長と同盟していた北近江の浅井氏が離反し、朝倉氏についたことから、信長は金ヶ崎より一旦撤退した後、6月に改めて徳川家康の援軍と共に近江国へ出陣し、浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利しました。

秀吉は小谷城の他の支城に対して次々と調略を試み、元亀3年(1572)、宮部城主の宮部継潤を巧みに勧降したが、この際に継潤の安全を保障するための人質として送られたのが、秀吉の甥、当時4歳の治兵衛です。
治兵衛は、名目上、継潤の養子とされ、治兵衛の百姓名を棄て、通称を次兵衛尉、諱を吉継と改めて、宮部吉継を名乗ることになりました。

天正元年(1573) 9月1日、小谷城は陥落して浅井氏は滅亡(小谷城の戦い)。
信長は第一の功績は秀吉であるとして同城を与え、宮部継潤を秀吉の与力の一人としています。吉継(秀次)がいつまで宮部家の養子でいたのか不明ですが、自分の臣下となった者に人質を出しておく道理がないため、天正2年(1574)、琵琶湖沿岸に長浜城が築かれたときにはすでに羽柴氏か木下氏に復していたと考えられますが、6歳の秀次がこの頃に何と名乗っていたかは不明です。

三好孫七郎の名乗りから羽柴秀次へ

天正3年(1575)、畿内で松永久秀や三好三人衆が信長に降った際に、三好一族で阿波国に勢力を持ち、河内高屋城で籠城していた三好康長も降ったが、彼は松井友閑を介して、信長が欲しがっていた名器「三日月の茶壷」を献上して大変喜ばれ、一転して家臣として厚遇されるようになります。

信長はこの頃土佐国を統一した長宗我部元親の所領を安堵し、「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」と書いた朱印状を渡していたが、天正8年(1580)に長宗我部氏が阿波国に勢力を伸ばして、織田方となった康長の息子・三好康俊や甥・十河一存の城を攻めるようになると情勢は変化。康長は秀吉に接近してその支援を得ると、織田家重臣で長宗我部氏との外交窓口となっていた明智光秀の考えが反映した従来の方針が撤回されるように働きかけます。

天正9年(1581)3月、信長は阿波勢と長宗我部氏の調停と称して、元親に阿波国の占領地半分を返還するように命じるも、元親は従わずに対立。翌年、信長三男の神戸信孝を総大将とする四国征伐が行われることになり、康長は信孝を養子とする予定でしたが、天正10年(1582)6月に本能寺の変が起こり、白紙に戻りました。
三好康長は連携を強めるために秀吉の甥を養子としてもらいます。

再び養子とされた吉継(秀次)は、通称を孫七郎と改め、諱を信吉として、三好信吉と名乗るようになります。天正11年(1583)頃には信吉が残った三好家の家臣団を率いる立場となり、河内北山2万石の大名になりました。

また百姓の倅が名門三好氏を継いだということで父の弥助も三好姓を用いるようになり、以後、三好武蔵守吉房と名乗りを改めました。

天正10年の山崎の戦いの直前、秀吉のもとに馳せ参じた池田恒興の娘(若政所)と信吉との婚約が成り、翌年に輿入れして正室となります。

天正11年1月、滝川一益が挙兵すると、信吉は中村一氏や近江勢2万を率いる大将として出陣し、鳥居本から大君ヶ畑峠を越えて伊勢国に入リ、滝川儀太夫(益重)の籠る峯城を攻略。さらに続く賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った秀吉が、信長の後継者として天下人の地位を確立すると、信吉は秀吉の数少ない縁者の中での二世世代の最年長者として重用されるようになりました。

天正12年(1584年)の春頃、羽柴姓に復帰して、羽柴信吉(孫七郎)と名乗りを改め、この段階で三好康長のもとを去ったと思われます。

同年3月、天下人の甥として期待されて参加した小牧・長久手の戦いでは失態を演じました。岳父である池田恒興と(羽黒の陣で敗北した)義兄・森長可が三河国に攻め入るという「中入り」策を秀吉に強く提案、信吉もこの別働隊の総大将になりたいと志願して認められますが、4月9日、白山林で榊原康政・大須賀康高らに奇襲されて、壊滅的な大敗を喫しました。見苦しい敗北で不甲斐ない様を見せたとして、怒った秀吉から激しく叱責されます。

天正13年(1585)、秀吉が紀伊雑賀征伐に出陣すると、信吉(秀次)は叔父・秀長とともに副将を任されて汚名を雪ぐ機会を得ます。3月21日、千石堀城の戦いでは、信吉軍は四方より猛然と攻めかかり、首は一つも取らずに打ち捨て、一揆勢を皆殺しにして城を落としました。
同年7月頃、秀吉の関白就任に前後し、偏諱を受けて秀次と改名、羽柴秀次を名乗りました。

第二代関白に就任

長宗我部元親が降伏し四国平定が成ると、その後の評定で大規模な国替え・加増が行われました。秀次の本人分としては20万石、宿老(中村一氏・山内一豊・堀尾吉晴)たちへの御年寄り衆分としては23万石が与えられ、併せて43万石の大名となります。

領地は東西交流の要となる近江国の蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡で、秀次は蒲生郡の現在の近江八幡市に居城を構えることになり、安土を見下ろし琵琶湖にも近い場所に、八幡山城を築きました。

秀次は、領内の統治では善政を布いたといわれ、近江八幡には「水争い裁き」の逸話などが語り継がれています。天正14年(1586)春頃、秀次は右近衛権中将に叙され、11月25日、豊臣の本姓を秀吉から下賜され、同時に参議にも補任されました。

天正18年(1590)の小田原征伐には出陣し、秀次が副将とされ、今度は徳川家康の指南を受けるように指示されます。山中城攻撃では秀次が大将となって城を半日で陥落させ、守将・松田康長の首を取りました。

秀次は奥州にいて不在であったが、小田原攻めの論功行賞で、織田信雄が東海道五カ国への移封を拒否して改易された影響で、信雄領であった尾張国・伊勢国北部5郡などが秀次に与えられ、旧領と合わせて100万石の大大名となりました。これに伴って、秀次は居城を清洲城に移した。年寄衆の所領も東海道に転封されています。

天正19年1月22日に秀長が、8月5日には秀吉の嫡男・鶴松が相次いで死去。通説ではこの年の11月に秀次は秀吉の養嗣子となったとされますが、養子となった時期についても、従来から諸説あって判然とせず、それ以前に養子とされていたという説もあります。関白職の世襲のために秀次の官位は、急遽引き上げられ、11月28日には権大納言に、12月4日には内大臣に任ぜられました。

12月28日に、秀次は関白に就任、同時に豊臣氏の氏長者となります。関白就任以後、秀次は政庁である聚楽第を主な住居として政務を執ったが、諸事は秀吉が定めた「御法度」「御置目」に従うようにされており、太閤秀吉が依然として統括的立場を保持して二元政治となりました。

秀吉の隠居地とされた伏見城(指月城)の築城作業も、結局は秀次の管理下で行われます。5月17日、従一位に叙せられ、8月の大政所の葬儀も喪主は秀吉でしたが、葬儀を取り仕切ったのは秀次でした。

豊臣秀頼の誕生

しかし、継承が済んだ後に肥前国から戻った淀殿の懐妊が判明。当初、平静を装っていた秀吉であった[37]が、文禄2年(1593)8月3日、大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を産むと、その報せを受けた8月15日には名護屋城を発ち、25日に大坂に来て我が子を抱きかかえたほど大変な喜びようでした。

秀吉と秀次両者の関係は少なくとも表面上は極めて良好でした。『駒井日記』によると、文禄3年(1594)2月8日、秀次は北政所と吉野に花見に行っており、9日には大坂城で秀吉自身が能を舞ったのを五番見物した。13日から20日までは2人とも伏見城にあって舞を舞ったり宴会をしたりして、27日には一緒に吉野に花見に行っている。3月18日には、滋養に効くという虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきたので、山中長俊が煎じたものを秀吉に献じて残りを食していたといいます。このような仲睦まじい様子が、翌年事件が起こる直前まで記され、何事もなく過ごしていたのも事実のようです。

秀吉は当初、聚楽第の秀次と大坂城の秀頼の中間である伏見にあって、自分が仲を取り持つつもりでしたが、伏見は単なる隠居地から機能が強化され、大名屋敷が多く築かれるようになり、むしろ秀次を監視するような恰好になります。4月、秀吉は普請が終わった伏見城に淀殿と秀頼を呼び寄せようとしますが、淀殿が2歳で亡くなった鶴松(棄丸)を思って今動くのは縁起が悪いと反対、翌年3月まで延期されます。

秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が台頭し、秀次には暗雲となったようです。またこの頃、大坂城の拡張工事と、京都と大阪の中間にあった淀城も破却工事が実施されていますが、これは聚楽第の防備を削り、大坂の武威を示す目的があったのではないかという説もあります。

秀次の最期

文禄4年(1595)6月末に突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がります。

しかし、7月3日、聚楽第に石田三成・前田玄以・増田長盛・富田左近など秀吉の奉行衆が訪れ、巷説の真偽を詰問し、誓紙を提出するよう秀次に要求しました。

秀次は謀反の疑いを否定、吉田兼治に神下ろしをさせた前で誓う起請文として7枚継ぎの誓紙をしたため、逆心無きことを示そうとします。

7月5日、前年の春に秀次が家臣・白江備後守(成定)を毛利輝元のもとに派遣し、独自に誓約を交わして連判状をしたためている(または、輝元よりこのような申告があった)と、石田三成は秀吉に報告。このことから、秀吉は「とかく父子間、これかれ浮説出来侍るも、直談なきによれり」として、秀次に伏見城への出頭を命じています。

しかし、この報告の内容は事実無根であり、秀次はすぐには応じなかったようです。
7月8日、再び前田玄以・宮部継潤・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊の5名からなる使者が訪れ、秀次に伏見に出頭するよう重ねて要請。

秀次は伏見に到着しますが、登城も拝謁も許されず、木下吉隆(半介)の邸宅に留め置かれます。上使に「御対面及ばざる条、まず高野山へ登山然るべし」とだけ告げられた秀次は、すぐに伏見を出立。

10日、高野山青巌寺に入り、この場所で秀次は隠棲の身となりました。この出家の際に道意と号し、以降は豊臣の姓から豊禅閤ほうぜんこうと呼ばれることがあります。

同じころ、秀次の妻や側室・侍女や乳母・子ども達が8日の晩に捕えられ家臣の徳永寿昌宅に監禁され、監視役として前田玄以と田中吉政が付けられますが、11日に丹波亀山城に移送されました。12日、秀吉は、さらに高野山の秀次に対して供廻りの人数や服装の指定、出入りの禁止と監視を指図、監禁に近い厳しい指示を出しています。

7月13日、四条道場で秀次の家老の白江備後守が切腹、その妻子も後を追って自害しました。同じく嵯峨野二尊院で熊谷直之が切腹。摂津国の大門寺で木村常陸介(重茲)が斬首、財産没収。重茲の妻子も後に三条河原で磔にされたのです。

7月15日、高野山に福島正則・池田秀雄・福原長堯の3名の検使が兵を率いて現れ、秀次に切腹の命令が下ったことを告げます。秀次は、雀部重政の介錯により切腹して果てました。享年28。法名は、高野山では善正寺殿高岸道意大居士、菩提寺の瑞泉寺では瑞泉寺殿高厳一峯道意とされています。

秀次亡き後の悲劇

7月16日、秀吉は三使が持ち帰った秀次の首を検分。それでも秀吉はこれで満足せず、妻や側室・そば仕えや子どもたちも根絶やしにすると決めます。

7月31日、秀次の妻妾公達が亀山城より京都の徳永邸に戻され、8月1日、翌日に処刑されると通達されたため、女性達は辞世の句を認めたり、身支度などをしたのでした。

8月2日早朝、三条河原に40メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ中で処刑が行われることになり、さらに3メートルほどの塚を築いて秀次の首が西向きに据えられた。その首が見下ろす前で、まず子どもたちが処刑され、次に最も寵愛を受けていた一の台は、前大納言・菊亭晴季の娘であったことから秀吉の北政所・ねねが助命嘆願したが叶わず、真っ先に処刑されました。結局、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名]の全員が斬首され、子どもの遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なっていったと言われています。さすがにこの非道な行いは、民からも大きな罵詈雑言が浴びせられたと伝わります。

最も悲劇的だったと言えるのは、駒姫です。
最上義光は娘(駒姫)を秀次の側室に差し出していたことで咎められました。駒姫は事件が起こった時にはまさに上京したばかりで秀次の下にはまだ嫁いでおらず、前田利家や徳川家康らが助命嘆願したが聞き入れられず、ほかの妻や子どもたちと同じように三条河原で処刑されたのでした。これが憐れであるというので、義光は許されましたが、あまりにも気の毒であったと言えるでしょう。

豊臣秀次の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1568年 永禄11年 0歳 尾張国に生まれる(豊臣秀吉の姉・瑞竜院の子)
1582年 天正10年 14歳 山崎の戦い後、豊臣家の一門として台頭
1584年 天正12年 16歳 小牧・長久手の戦いに従軍
1585年 天正13年 17歳 近江八幡城主となる
1590年 天正18年 22歳 小田原征伐に参加。戦後、清洲城主となる
1591年 天正19年 23歳 関白に就任(豊臣秀吉の後継者として指名)
1593年 文禄2年 25歳 豊臣秀頼誕生により立場が不安定化
1595年7月 文禄4年 27歳 謀反の疑いをかけられ、高野山へ追放
1595年8月 文禄4年 27歳 高野山にて自害。豊臣一族の多くも処罰される
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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。