榊原康政徳川四天王の最期
榊原康政
室町時代後期から始まった戦国時代。戦国時代は徳川家康が天下人になる事で平定されました。この徳川家康の家臣の内、特に有能な家臣を徳川四天王と呼びます。本多忠勝、酒井忠次、井伊直政などです。そして榊原康政もその一人でした。徳川家康が今川家の人質となっていた頃より仕え、家康の戦いのほぼ全てに参加した康政。今回は家康譜代の臣、榊原康政について見ていきたいと思います。
康政が生まれた榊原家
榊原康政が生まれた榊原氏。榊原氏は清和源氏足利家の庶流、三河仁木氏の流れです。仁木氏は伊勢国守護大名になり、その仁木氏の庶流が一志郡榊原に移って榊原を称しました。戦国時代に入ると三河国を治めていた松平家(後の徳川家)の家臣になり定着します。榊原康政の父は松平家の家臣酒井忠尚に仕えていた家臣でした。つまり榊原康政は家臣の家臣(陪臣)の家に生まれました。
出生から家督相続
天文17年(1548)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれます。小さな頃から勉学に励み、三河国大樹寺で文字を習い後には能筆化としても知られるようになりました。勉学にも励み字も上手かったことから、松平元康(後の徳川家康)の小姓として抜擢されます。永禄5年(1562)に父の榊原長政が亡くなると長政の弟、榊原一徳斉の後見を受けます。
永禄9年(1566)に19歳で元服。同い年の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢され、徳川家康の側近となりました。
元亀元年(1570)の姉川の戦い、元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正9年(1581年)の高天神城の戦いと徳川家の戦いに従軍し手柄を挙げていきます。『武備神木抄』には「(榊原)康政は武勇では本多忠勝に劣るが、集団を指揮(部隊の指揮)する能力は康政、井伊直政が優れている」と記されています。個人の力では同じ徳川四天王の1人の本多忠勝に劣るが、集団を率いる管理能力は榊原康政の方が優れていたのでしょう。
兵の駆け引きが上手かった榊原康政とその家臣達。康政は自らの隊に「無」の一字だけを書いた旗を用いていました。この「無」の文字の意味は不明ですが、戦いに「無心」で臨むという意味だったのかもしれません。また、榊原康政が使用していた鎧「紺糸威南蛮胴具足」や「黒糸威二枚胴具足」などは、重要文化財として東京国立博物館に所蔵されています。
そんな榊原康政は次男にも関わらず、榊原家の家督を継ぎます。兄の榊原清政は徳川家康の長男松平信康の傅役でしたが、信康が自害に追い込まれると自責の念より隠居してしまいました。或いは清政自身も病弱であった事から榊原康政が兄清政の名代を務める事も多かったことから榊原家の家督を継いだと言われています。
ただ、清政の人柄には家康も一目置いており、病弱であった清政を徳川家康も度々見舞っていました。この兄の榊原清政は康政とは別に一家を立て、江戸時代に入ると徳川家康の葬られた久能山の城代を代々務める家となりました。
こうして手柄を立てていった榊原康政は徳川家康の信任を得て、一手の大将となっていきます。
伊賀越え
榊原康政が仕えていた徳川家康は、織田信長と同盟を結んでいました。その織田信長は日本各地を平定し着々と天下人の座に近づいていました。
天正10年(1582)、徳川家康は織田信長に挨拶をしに信長の居城安土城へ訪れます。この家康の一行には、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政など徳川家重臣の大部分も同行していました。徳川家一行は、安土城において織田信長の歓待を受けます。そこから京、堺へと移りました。ところが、その織田信長は本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれます。信長が討たれた時に、徳川家康は兵を持たず、堺という特段係わりのない地で漂っています。明智光秀はこの家康も討とうと考えました。徳川家康とその家臣達は伊賀の山道をかけ分けながら紀伊半島を横断した後、伊勢湾から船で三河国へと戻りました。
こうして織田家の同盟者、或いは織田家傘下の大名であった徳川家康は独立した大名となります。
小牧長久手の戦いと羽柴秀吉の追討令
織田信長が本能寺の変で討たれると、信長の家臣である羽柴(豊臣)秀吉が台頭してきます。天正12年(1584)、徳川家康は羽柴秀吉と対立、小牧・長久手の戦いに発展しました。
この戦いの最中、徳川家康は羽柴秀吉の織田家乗っ取りを非難する檄文を文筆家でもあった榊原康政に書かせ、秀吉に送りました。読んだ羽柴秀吉は激怒し、榊原康政の首を獲った者に十万石を与えると家臣達に伝えます。逆を言えば、徳川家の榊原康政の首には10万石の値がつき、それだけ康政自身の評価も世間に広まりました。
天正14年(1586)、徳川家康は豊臣秀吉(羽柴秀吉)と和解します。和解した徳川家康は榊原康政など家臣達を連れ豊臣秀吉の下を訪れます。この時、秀吉は康政と和解し従五位下式部大輔に叙任され、豊臣姓も下賜されました。榊原康政は豊臣秀吉により官位叙任の祝宴を受ける程に歓待されました。
榊原康政は徳川家の中でも名の知れた家臣として認知されてゆきました。
関東入封と館林城
天正18年(1590)、関東の北条家が豊臣家により滅ぼされました(小田原征伐)。この戦いで榊原康政は東海道を進む徳川家の先陣を務めるほか、降伏した領地の受け取り、北条氏政、氏照兄弟切腹の検死役に従事しています。
同年、豊臣秀吉は徳川家に三河他東海地方から関東への領地替えを命じました。この関東移封において榊原康政は上野国館林城(現在の群馬県館林市)10万石を与えられます。これは上野国高崎12万石に据えられた井伊直政につぎ、上総国大喜多10万石の本多忠勝と合せて3人が突出して大きな領地を与えられています。徳川家康の姻戚で徳川家老酒井家次(酒井忠次の長男)下総国臼井3万石よりも大きく、徳川家での序列が変わった事が伺えます。
榊原康政は館林に入ると利根川河川工事や街道整備に力を注ぎました。
関ヶ原の戦い前夜と宇喜多騒動
さて天下人であった豊臣秀吉が慶長3年(1598)に亡くなりました。
豊臣秀吉没後の事です。慶長4年(1599)、五大老の1人で備前国(現在の岡山県)を治めていた宇喜多秀家の家中で内紛が起こります。重臣だった戸川達安・岡貞綱などが、秀家の側近中村次郎兵衛の処分を求め大坂にあった宇喜多家の屋敷に立て籠もりました。家中は主人である宇喜多秀家と反秀家派とに割れました、宇喜多騒動と言われる事件です。
この時、榊原康政は伏見城で政務に就いていました。康政は宇喜多家家臣の花房家から側室(花房殿、後の周光院)を貰っていた関係で調停を依頼されます。越前国敦賀城主の大谷吉継とともに康政は宇喜多家の調停に当たりました。ところが話し合いは長引きます。康政は伏見滞在の任期が終わっても居残り調停を続けた結果、関東での仕事が滞るようになりました。そのことで徳川家康より叱責をうけ、康政は国許へ帰らされました。或いは、徳川家康は豊臣秀吉亡き後の政局を考えており、五大老の1人宇喜多秀家の力を弱めようと考え調停役の榊原康政を遠ざけたのかもしれません。
結果、宇喜多家は古くから仕えていた戸川達安、岡貞綱、宇喜多詮家(坂崎直盛)、花房正成・花房職秀(職之)が離れ徳川家に仕えるようになりました。のちに、、花房職之の子の職直は榊原康政の養子となります。
苦戦した関ケ原
慶長4年(1599)、徳川家康と石田三成とが争います。石田三成は伏見城の家康を襲おうと考えます。この動きを一早く知った榊原康政は、関東から援軍に来た兵の数を少しでも多く見せようと、京、伏見、淀に兵糧の買取を行う触れを出し、いかにも徳川家10万の大軍が動いているかのように見せ、石田家を牽制しました。
慶長5年(1600)、石田三成が大坂で挙兵します。徳川家は家康が東海道から、息子の秀忠が中山道から大坂を目指して進軍しました。榊原康政は中山道を進む徳川秀忠軍の軍監(徳川家康から派遣された監督官)として参陣します。ところが信濃国上田(現在の長野県上田市)までくると真田家に阻まれます。榊原康政は秀忠に真田家を無視して先を進むよう進言しましたが、受け入れられませんでした。秀忠軍は上田で何日も足止めを受けます。徳川家康は秀忠に進軍を命じましたが、そこから大雨に逢い、関ケ原本戦に間に合いませんでした。
徳川家康は関ヶ原の戦いの後、秀忠の失態を怒りましたが、榊原康政の取りなしで許され秀忠は康政に大変感謝したと言われています。
榊原康政の最期
関ヶ原の戦いで徳川家が勝利した後のこと。
榊原康政は江戸幕府老中となります。ところが、領地の加増はありませんでした。徳川家の中でも戦いを専門としていた武功派を冷遇した例の一つとして榊原家は取り上げられ、康政自身憤慨していた、とも言われています。
或いは「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と自ら領地の加増などを断っていたとも言われます。ただ慶長8年(1603)、在京時の費用補填として近江国に在京領5千石を加増されました。
慶長11年(1606)、榊原康政は出来物が悪化し病に臥せります。将軍となった徳川秀忠は医師や家臣を遣わせましたがその甲斐なく、館林において亡くなりました、享年59。
榊原家は康政の長男忠政が大須賀家を継ぎ、次男忠長は夭折していた事から三男康勝が継ぎ明治まで続きます。
上野上村城と榊原康政生誕之碑
榊原康政は松平氏(後の徳川氏)の重臣であった酒井忠尚の家臣の子として生まれました。つまり徳川家康から見ると榊原氏は家臣の家臣(陪臣)という事になります。
酒井忠尚は上野上村城を居城としていました。上野上村城は現在の愛知県豊田市上郷町藪間他にあった城です。応仁元年(1467)頃、戸田宗光によって建てられ、最終的に酒井氏によって治められました。榊原康政もここで生まれます。酒井忠尚は三河一向一揆の時に一揆側に付いて敗れ、三河国を去りました。上野上村城もこの時に廃城となりました。
この上野上村城のあった地に榊原康政生誕之碑が二つあります。一つは上野上村城跡の場所に在り、もう一つは天道院という寺院の前にあります。同じ地域に榊原康政の生誕之碑は二つあります。
館林城
館林城については文明3年(1471)、長尾景信・景春父子、長尾忠景ら上杉軍が、立林城(館林城)を攻略した、というのが最古の記録からそれより以前よりあったと考えられています。
館林城の別名は「尾曳城」。江戸時代に書かれた『館林記』に地域の領主が子キツネを助けたところ、親ギツネが恩に感じ自らの尾で地面に城の縄張り(図面)を書いた所から尾曳と付けられました。この狐の親子は城内で祀られ、これが現在の尾曳稲荷神社となります。
天正18年(1590)、徳川家康が関東に領地を持つと(関東入封)榊原康政は館林10万石の城主として入城。それまで中世的な城であった館林城は康政により天守、石垣を持った近代城郭へと変貌しました。
榊原家は康政から3代続いて館林を治めましたが寛永20年(1643)に陸奥白河に転封、その後は幕府の天領(直轄地)、大給松平家などが治め明治を迎えました。
明治7年(1874年)建物の大半は焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されて、建物の一部は復元、跡地には市役所などの公共施設が入っています。
榊原家とゆかた祭り
榊原康政が大名となって以降、榊原氏は江戸時代を通し度々転封(領地替え)を繰り返して明治時代を迎えます。
さて榊原氏8代当主榊原政岑が姫路藩を治めていた時です。
8代将軍徳川吉宗は厳しい倹約令を命じていましたが、榊原政岑はこの命令に反抗し贅沢を尽くしました。徳川吉宗は大いに怒り、榊原政岑を強制隠居、榊原家は越後国高田に転封となります。
隠居させられ転封となる直前、榊原政岑は城内にあった長壁神社を長源寺の境内に社を移し、夏至の日に遷座祭を開催しました。長壁神社は、千年以上前から姫路城のある姫山に鎮守神として民によって祀られていました。ところが豊臣秀吉の頃に姫路城が築かれ、武士以外には城内にある神社へ参拝できなくなりました。
その長壁神社を榊原政岑が気軽に参拝できるよう移し遷座祭を行う事にしましたが、町の人は礼服を作る暇がなく祭りに参加する事を躊躇しました。そこで榊原政岑は浴衣姿での参加を認めます。浴衣は本来、下着と同様の扱いで、そのまま外に出ることは「はしたない」と考えられていました。毎年例祭に参拝する人がそれに倣って浴衣を着るようになったのが、「ゆかたまつり」の起源であるとされています。しかしこれ以降、日本において夏祭りに浴衣を着る風習が広まったと考えられています。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。