フランシスコ・ザビエル日本最初の宣教師
フランシスコ・ザビエル
日本中が戦乱の世となった戦国時代。しかし戦国時代は同時に海外との接触を深めた時期でもありました。特に日本に影響力を及ぼしてきた中国などアジアの国々だけではなく、ヨーロッパと初めて接した時期でもあります。そして日本にキリスト教を布教すべく一人の宣教師が日本やってきました、ザビエルです。今回は日本最初の宣教師フランシスコ・ザビエルについて見ていきたいと思います。
生まれについて
フランシスコ・ザビエルは1506年4月、ナバラ王国(現在のスペイン、バスク地方にあった王国)にあるハビエル城で地方貴族の子(兄2人、姉2人を持つ末っ子)として生まれます。フランシスコ・ザビエルの姓フランシスコは生家の城がある街より由来。また、名のザビエルはスペイン語では「ハビエル」、日本の教会では「ザベリオ」と呼ばれていましたが、現在ではザビエルに統一されています。
ザビエルの父ドン・フアン・デ・ハッソはナバラ王ファン3世(ファンの妹シャルロットはチェザーレ・ボルジアと結婚したためファンはチェザーレの義兄にあたる)の宰相を務めていましたが、ザビエルが生まれた頃には老齢に差し掛かっていました。そしてザビエルが幼少の頃、ナバラ王国はフランスとスペインの紛争地帯になります。父のファンはこの紛争期間の間に逝去、家族は翻弄されました。
青年期
1525年、19歳になったザビエルはパリ大学に留学。聖バルバラ学院(パリ大学を構成するカレッジの1つ)に入り、自由学芸を修めます。更に哲学を学んでいる時にフランス出身のピエール・ファーブルと同室になりました。後にザビエルと同じバスク出身の傷病騎士だったイニゴ(イグナデオ・デ・ロヲラ)も加わります。同室の3人は深く語りあい同志となりました。哲学を学んでいたザビエルでしたがイニゴの影響を受け、聖職者を志す様になります。
イエズス会の創設
この時期、ザビエルの他にもイニゴに影響を受けた青年たちがいて、ザビエル、ファーブル、イニゴなど7人がモンマルトン聖堂に集まります。その7人の中で司祭であったファーブルによって神に生涯を捧げるという誓いを立て(モンマルトンの誓い)、イエズス会は創立されました。イエズス会は「エルサレムへの巡礼」や「清貧と貞操」などを創立目的としています。特に初代総長となったイニゴは騎士出身であることから軍隊的な厳しい会風を特徴とし、「神の軍隊」「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれました。
1537年、イエズス会の一行はイタリアに赴き、教皇から修道会の許可を得ようとします。ヴェネツィアにおいて教皇パウル3世は彼らの徳と学識を認め、既に司祭であったファーブルを除いた他の叙階を与え後に全員が司祭となりました。しかしローマ帝国とオスマン帝国との争いでエルサレムに渡れなかった一行はひとまずイタリア半島において宗教活動に専念します。
東洋へ
およそイタリアにおいて3年が経過した頃、イエズス会は世界各地への布教を考えていました。そんなイエズス会にポルトガルの王ジョアン3世がインドのゴアにイエズス会宣教師を派遣するよう要請します。この時選ばれたのが、赴任先が未定であったザビエルでした。
1540年3月、ローマを出発したザビエルその他の宣教師たちはポルトガル経由でインドへと向かいます。およそ2年かけヨーロッパからアフリカを周りインドへ辿り着きました。
インドへと赴いたザビエルの一行はそこから約5年の間、インド各地からマラッカなどの東南アジアを回って布教活動を行います。
1547年12月、マラッカにおいてザビエルは鹿児島出身の武士ヤジロウ(アンジロー)と出会います。ヤジロウは若い頃に人を殺め、マラッカに逃亡していました。ヤジロウは司祭であったザビエルに会いその罪を告白すべく来ました。話を聞いたザビエルはヤジロウの人柄を高く評価しゴアに連れて戻ると、ヤジロウは日本人として初めて洗礼を受けます。ザビエルはヤジロウの人となり、更にヤジロウの薦めもあり日本への渡航を行う事にしました。
日本へ
1549年4月。ザビエルはトーレス(神父)、フェルナンデス(修道士)、アマドールというインド人、マヌエルという中国人、ヤジロウなどとゴアを出発、日本へ向かいます。明の上川市(中国広東省江門市台山)を経由し薩摩半島の坊津に上陸、鹿児島市に入りました。9月には薩摩国守護大名島津貴久に謁見し宣教の許可を得ます。
この鹿児島での布教の時、後に日本人として初めてヨーロッパに留学しローマ法王にも謁見した「鹿児島のベルナルド」(日本名不明)にも会っています。ところが島津貴久は仏僧の進言を受け入れキリスト教を禁教としたため、ザビエル一行は鹿児島を後にしました。
長崎から京、そして山口へ
1550年(天文19)8月、鹿児島をあとにしたザビエルたちは肥前国平戸(長始崎県平戸)に入り布教を行います。ところが3ヶ月後には二手に分かれザビエルたちは京へ向かいます。途中周防国山口(山口県)に入ると守護大名大内義隆に謁見します。そこから海路に変え堺に上陸、1551年(天文20)1月、京へ辿り着きました。
ザビエルは全国での布教を認めて貰うため、ゴアの司教の親書を携え後奈良天皇や征夷大将軍足利義輝への謁見を求めます。ところが献上の品がなかった事や朝廷、幕府の権威低下により謁見は認められませんでした。京での布教を諦めたザビエルは再び山口を経て平戸へ戻ります。
平戸に戻ったザビエルは献上品を携えると来た道を引き返し、山口に入ります。そこで大内義隆に再謁見、ゴア司教の親書の他、望遠鏡などの献上品を献じると義隆は布教の許可を出しました。更に廃寺となっていた大道寺を住居兼教会として与えます(日本最初の教会)。
ここでザビエルは1日2度の布教を行い、信者を獲得していきました。
豊後へ、そして日本出国
山口において布教活動を行っていたザビエルは、豊後国府内(現在の大分県大分市)にポルトガル船が来た事を聞きつけ、山口での布教を仲間に託すと豊後へと赴きました。1551年9月ザビエルは豊後国守護大名、大友義鎮(大友宗麟)と対面し布教の許可を得ます。
日本に滞在し布教活動を始めて約2年。インドからの便りから離れていたザビエルは一端インドへと戻る事にしました。1552年2月、インドへの帰路に日本の青年ベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオを連れ戻ります。このうちベルナルドは司祭の養成学校に入学させ、更にヨーロッパへと渡りました。ベルナルドはヨーロッパに留学した最初の日本人となります。
日本にやって来たザビエルは鹿児島、長崎、山口、京、山口、大分と日本での布教を行い2年間の宣教活動を終わりました。日本人についてザビエルは「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます」と高く評価しています。
中国の布教とその死
1552年2月、インドのゴアに着いたザビエル。ところが同年4月には再度東アジアの渡航を考えます。ザビエルは日本に古くから影響を与えていた中国の布教が不可欠と考え、中国への渡航を目指します。日本にはバルタザル・ガーゴ神父を代わりに派遣し自身は9月に上川島(中国広東省江門台山市の沖合にある島)に上陸します。ところが中国の入国が許されないまま病にかかります。同年12月、キリスト教の布教の為アジア各地を訪れていたフランシスコ・ザビエルは病により上川島で亡くなりました、享年46。
遺骸はマラッカ、更にはゴアに移送され聖パウロ聖堂で一般に拝観されました。
1619年に教皇パウルス5世によって列福され、更に1622年教皇グレゴリウス15世によって聖人に列聖されました。
フランシスコ・ザビエル肖像
日本を始めアジアでキリスト教の布教を行っていたフランシスコ・ザビエル。
さて我々がよく知るザビエルの姿とされる肖像画。この肖像画は彼の福者認定(1619)または列聖(1622)以降に日本で作成されたと考えられています。作者は落款から狩野派を示し「漁夫」の署名から絵師ペトロ狩野(狩野源助)と考えられていますが確証はありません。大正9年(1920)に大阪府茨木市の隠れキリシタンであった邸宅に伝わる「開けずの櫃」から発見されました。発見時のモノクロ写真から掛け軸だったものが額縁入りに仕立て直された他、制作時に使われた真鍮が変色して黒であった頭光が、発見後に黄色に書き直されたと推測されています。肖像画は現在、神戸市立博物館に所蔵されており、この頭部部分がザビエルの顔として知られています。
ザビエルの所縁の場所
フランシスコ・ザビエルはインドからアジアにかけ布教活動を行ってきました。ですからヨーロッパやアジア、日本において所縁の教会や記念碑などが多く存在します。特に日本に入国してから立ち寄った場所には所縁の碑などがある事から、ザビエルの足跡に沿って所縁の場所を見ていきたいと思います。
鹿児島県
- ザビエル来鹿記念碑
- ザビエル記念公園は鹿児島カテドラル・ザビエル記念聖堂の向かいにある公園です。
明治時代、日本最初の仏和辞典を作成したラゲ神父(エミール・ラゲ)は初めて日本で布教したフランシスコ・ザビエルの功績をたたえ教会を建てました。ところが第二次世界大戦で大半が焼失します。 戦後、フランシスコ・ザビエル渡来400年を記念して「ザビエル公園」が造られ、その中に焼失した教会の石壁がザビエル滞鹿(滞麑)記念碑として残っています。また等身大のザビエルやヤジロウ、ベルナルドの像が園内にあります。 - ザビエル上陸記念碑
- ヤジロウに勧められ日本に赴いたフランシスコ・ザビエル。ゴアを出発したザビエル一行は1549年8月、今の鹿児島市祇園之洲町に来着しました。 錦江湾に面した祇園之洲公園の一角にザビエル来着の場所を記念して、ザビエル上陸記念碑が建てられました。記念碑にはザビエル一行の乗って来た船や、上陸の姿、布教を許可した島津氏の家紋、ザビエルの像があります。
- 太守島津貴久聖師・ザビエル会見記念碑
- 1549年、日本に渡航してきたザビエルの話を聞き守護大名であった島津貴久は面会します。面会した場所は一宇治城で、現在の鹿児島県日置市伊集院町にある城山公園でした。それを記念し島津家の家紋「丸に十字」と「十字架」を組み合わせた記念碑を園内に建立しました。
長崎県
- ザビエル来航記念碑
- 鹿児島を後にしたザビエルは次に長崎県平戸を訪れます。領主であった龍造寺隆信から布教の許可を得たザビエルは平戸で布教伝導を行います。そこでザビエル来航400年の1949年、布教をした場所としての記念に崎方公園(平戸市大久保町)の高台に白い大理石で出来た記念碑を立てます。記念碑の中にあるザビエルはエルサレムを向いているそうです。
山口県
- 聖サビエル記念公園
- 「聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地」の碑
肥前国平戸を出て京を目指したザビエル。そのザビエルが周防国(現在の山口県)に入国した場所が、九州からの渡し場があった現在の下関市唐戸町です。この上陸した事を記念した碑が唐戸市場近くに立つ「聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地碑」。この碑にはザビエルが日本行きを決意した「たとえ、全世界を手にいれても自分の魂を失ったならば、なんの益になろうか」(マタイ福音書16章26節)が刻まれています。
大阪府
- ザビエル公園
- 周防国山口から京を目指したザビエルは、海路で堺に入ります。このザビエルを堺の町で歓待したのが、後に熱心なキリシタンとなる日比屋了慶です。このザビエルを歓待したとされる了慶の屋敷跡に公園が造られる事になりました、公園の名は「戎公園」。
ところで、公園が造成された年がザビエル来航400年の1949年であった事から、園内に「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅」碑(碑にはザビエルが堺に入り日比屋了慶の屋敷で過ごしたことが書かれています)がたてられます。ここから通称としてザビエル公園と呼ばれるようになりました。
大分県
- 聖フランシスコ・ザビエル像
- フランシスコ・ザビエルは京に辿り着きましたが、天皇将軍に会う事は叶いませんでした。ザビエル一行は九州へと引き返します。この時に立ち寄ったのが豊後国(大分県)です。豊後の守護大名大友義鎮はザビエルと会見、布教を許すとともに自身も後にキリシタン大名になります。この縁から大友家にはしばしば宣教師が訪れ、ヨーロッパの音楽や医術などが入るようになりました。この会見を記念し現在の大分市荷揚町にある府内城の南、遊歩公園の北側入り口にザビエルの像が建てられました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。