築山殿(瀬名姫)(2/2)徳川家康の正室の最期とは

築山殿(瀬名姫)

築山殿(瀬名姫)

記事カテゴリ
人物記
名前
築山殿(瀬名姫)(生年不詳年〜1579年)
出生地
静岡県
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家康の上意によって妻・築山殿の処分が伝えられ、築山殿は8月29日に遠江国敷知郡の佐鳴湖に近い小藪村(現在の浜松市中区富塚付近)で徳川家の将来を危惧した岡本時仲と野中重政によって自害を迫られます。しかし、築山殿が自害を拒んだため彼らの独断によって首をはねられ殺害されました。検使役は石川義房が務めて首は安土城の信長の元に届けられています。信康は9月15日に二俣城で自害しました。

築山殿の遺体は浜松市中区広沢の高松山西来禅院に葬られました。首塚が岡崎市の祐傳寺、後に天保年間の頃八柱神社に移された。法名は西来院殿政岩秀貞大姉です。

信康自害事件にまつわる諸説

信康と徳姫との不仲は松平家忠の『家忠日記』にも記録がある通り、事実だったようです。しかし、不仲や不行状というだけで信長が婿・信康を殺そうとするのか疑問が残るのも事実。また、一方でこの時期の信長については相撲や蹴鞠見物に興じており、そのような緊張関係を同盟者の家康に強いていた様子は窺えません。
事件の発端となったとされる徳姫に対して、江戸幕府樹立後に家康が二千石の領地を与えている理由も不可解です。

また、築山殿がいかに家康の正室だと言っても武田氏と裏で外交ができるような力があったとは思えません。しかも信長は信康の処断についてのみ触れており、築山殿については何も言っていないとされています。にもかかわらず家康は築山殿を連座させて殺しており、不可解な点があることは否めないのが現実です。また酒井忠次は、その後も徳川家の重臣上位の地位に留まり、3年後の信濃制圧の際には新領の最高責任者になっています。
家忠が日記に記した「家康が仲裁するほどの喧嘩相手」の部分は原著では「御○○の中なおしニ」と破損しています。信康が仲違いしたのは「御新造」(徳姫)ではなく「御家門」(松平康忠、久松俊勝、松平康元)であるとの説もあります。

また「御母様(=築山殿)」の可能性もあり、「御前様」つまり家康の生母・於大の方の可能性もあるのです。於大の方に関しては、天正3年(1575)12月に信長の命令を奉じた家康の意を受けた石川数正によって実兄の水野信元が殺害されており、数正は信康の後見人であるため、信康との仲が険悪になっていた可能性があります。数正は後年に徳川家から出奔しています。ただし「御」の前には信康の名がくるため「御家門」と「御前様」の説には無理があるとの見解もあり、真実は闇の中です。

なお、家康が築き上げた信康の墓は質素なもので、改葬すらされていないとする説がありますが、家康は後に信康のため、浜松に清瀧寺を建立。信康の菩提寺に指定し、廟、位牌殿、庫裡、方丈、不動堂、山門、鐘楼などを建設しています。「信康山長安院清瀧寺」と号させました。また各所に墓所を建立しています。

父子不仲説

近年では、家康が信長に要求されたからではなく、家康と信康の対立が原因という説が出てきています。『安土日記』(『信長公記』諸本の中で最も古態をとどめ信憑性も高いもの)や『当代記』では、信長は「信康を殺せ」とは言わず、徳川家の内情を酌んで「家康の思い通りにせよ」と答えています。

つまり家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということになります。 また、信康処断の理由は「逆心(=謀反)」であり、家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したとも読み取れます。

また『家忠日記』によれば、事件が起きる前年の天正6年(1578)9月22日に、家康から三河国衆に対して、(信康のいる)岡崎に詰めることは今後無用であるとの指示が出されたことが記されています。
さらに家康は、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に信康に内通しないことを誓う起請文を出させていて、家康と信康の間で深刻な対立があったことがうかがえます。

また『大三川志』には、家康の子育て論として「幼い頃、無事に育てさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」と記載があり、『当代記』にも信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下に見限られたとあり、信康の性状を所以とした親子の不和が原因であることを伺わせます。

岡崎城

岡崎城は、三河国岡崎藩(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城で、徳川家康の生地でもあります。別名、龍城とも呼ばれています。

戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城となり、江戸時代には岡崎藩の藩庁が置かれていました。岡崎城は当初、「岡竒城」と記されました。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528(享禄元年)~1531(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり」と記載されています。

1959年(昭和34)3月、天守が復興されました。2010年(平成22)3月、東隅櫓が再建され、望楼式二重櫓と呼ばれる木造2階建で、入り母屋造りの屋根は、岡崎藩主を務めた本多氏の家紋立ち葵が刻まれた本瓦葺きです。

2022年(令和4年)5月24日、市は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』の放送にあわせ、岡崎城の展示をリニューアル。1〜4階の展示と5階展望台の刷新と外壁塗装、トイレの増設、照明設備のLED化などを行い、同年6月16日から改装工事に入りました。

2023年(令和5年)1月21日、リニューアルオープン。大河ドラマの放送にあわせて同様に整備された三河武士のやかた家康館も「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」としてリニューアルしています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.03