築山殿(瀬名姫)徳川家康の正室の最期とは

築山殿(瀬名姫)

築山殿(瀬名姫)

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人物記
名前
築山殿(瀬名姫)(生年不詳年〜1579年)
出生地
静岡県
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戦国時代は武将の活躍に目が行きがちです。しかし、女性もその血筋や立場・才覚によっては夫に負け劣らずの活躍を見せたり、名を残したりすることがありました。戦場には出なくとも、嫁ぎ先で影響力を発揮したのです。名を残した数少ない女性の1人に、築山殿がいます。徳川家康がまだ松平元信だった頃に結婚し、長男を産むも殺害される生涯を送りました。どんな女性だったのでしょうか。

築山殿の誕生

父は関口親永(氏純とも言われています)、母は今川義元の伯母とも妹ともいわれており、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる血筋を持っていました。のちに夫となる徳川家康よりも2歳くらい年上、低くみても同年齢くらいだったのではないかと言われています。

母は『井伊年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』の系図の中では井伊直平の娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に降嫁したとされています。この話が事実であれば、井伊直盛とは従兄、井伊直虎は従姪に当たることになります。

現在の大河ドラマなどでは、「瀬名姫」という名前で登場することも多い築山殿ですが、特に瀬名姫という名前が記録に残っているわけではないため、この呼び名についても不明点が残ります。
生まれた年についても同様で、現時点でははっきりとしていません。通説では天文8年(1539)から天文9年(1540)にかけて生まれたのではないかという説が一般的です。

築山殿の結婚と出産

築山殿は、弘治3年(1557)正月15日、今川家の人質として駿府にとどめ置かれていた松平元信(後の徳川家康)と結婚します。徳川家康は三河国岡崎城の城主でもあり、今川義元は自分の血縁である築山殿と姻戚関係を結ぶことで、三河国の支配権を維持しようする目論見もありました。
築山殿は永禄2年(1559)に長男の松平信康を産み、さらに永禄3年(1560)には長女の亀姫を出産。正室として世継ぎを産み、その立場を盤石にしていきます。

築山殿は正室として嫡男の信康を産みましたが、決して2人の夫婦仲はいいものではありませんでした。
家康が今川家の人質という立場にあったこと、何より築山殿が今川家の縁戚であったこともあり、どこか築山殿が夫の家康を低く見る傾向があり、その態度に家康も我慢するうちに関係が冷え切っていったと言われています。反面、家康は生涯を通じて多くの側室を持つこととなりました。

立場の変化

永禄3年(1560)5月19日に桶狭間の戦いが起こり、築山殿の伯父、今川義元が討たれてしまいます。家康は主君が討たれたことにより、岡崎に帰還することになります。
さらに悪いことに、永禄5年(1562)3月には築山殿の父・親永が娘婿である家康と織田信長と同盟を結んだ事によって今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害しました。

築山殿は、石川数正が駿河に来て今川氏真を説得し、鵜殿氏長・鵜殿氏次と築山殿母子との人質交換をすることで、駿府の今川館から子供たちと共に家康の根拠地である岡崎に移りました。
しかし、居住したのは岡崎城内ではなく城外の現在の西岸寺辺りにあった寺院です。『家忠日記』における築山殿を示す敬称が正室を指す「御前様」ではなく、「信康御母様」だったことから、この時点で今川氏との手切れのために築山殿が離縁されたとも言われています。

永禄10年(1567)、息子の信康と織田信長の長女・徳姫が9歳同士で政略結婚することになります。
元亀元年(1570)に信康が嫡子として岡崎城に移された際に、築山殿も信康の生母として岡崎城に入ることになりました。

当時の家康は正室である築山殿には見向きもせず、側室との関係ばかりが深まる事態となっていました。その側室の中には、築山殿の侍女「お万」という女性もおり、彼女が家康の子を身ごもったと知った築山殿は激怒。妊娠したお万を身ぐるみ剥がして庭先で鞭を打ち付けながら追いかけ回したという話も残っています。
家康は身分の低い町人の女性や下級武士の娘などを多く側室として迎えていますが、これは築山殿に対する当てつけであったとも言われています。

立場が悪くなっていく築山殿

築山殿が移り住んだ岡崎城には、家康はほとんど寄り付かず、家康の母と徳川信康に嫁いできた織田信長の娘・徳姫と一緒に暮らしていました。当時の徳川家康は、浜松城を手に入れたことでほとんどの時間を浜松城で過ごしており、逆に岡崎城には訪れていません。築山殿にとっては息が詰まる夫がいない反面、周囲の家臣や次女は決して信用することのできない敵だらけの状況でした。さらに追い討ちをかけるように、築山殿の両親が今川氏真の手により殺害されただけでなく、夫の家康は浜松城で毎年のように側室との間に子が生まれる状態。正室としても、実家の後ろ盾という意味でも築山殿の立つ瀬はありませんでした。

徐々に築山殿の立場が弱くなっていく中、唯一の希望が息子で嫡男だった信康の存在でした。
その一方で信康の正室である徳姫のことは気に入っていませんでした。築山殿にとっては、叔父・今川義元を討った織田信長の娘である徳姫を目の敵にし、日頃から篤姫に対して冷たい仕打ちをしていたと言われています。
さらに、信康と徳姫の間には、2人の女児しか生まれておらず、嫡男となる男子が生まれていないことを理由にし、徳姫に嫌味を言うだけでなく息子・信康に側室を持つことを勧めます。さらに悪いことに、このとき側室となったのが織田家の仇敵であった武田家の家臣で浅原昌時の娘です。実際に信康は側室を寵愛したことで、徳姫との夫婦仲に大きな亀裂が生じます。

徳姫の出自は、織田信長と側室・生駒の方の間に生まれた長女です。生駒の方は、信長に大変寵愛されており、徳姫も父の信長に愛されて育ったとされています。築山殿と同じで、プライドの高い、我慢ができない女性でした。

度重なる築山殿の嫌がらせに腹を立てた徳姫は、徳川信康と築山殿への不満を誇張も交えて父である織田信長に訴え出るという手段に出ます。

このとき、徳姫は夫・信康の悪行や築山殿の行動を、感情のままに書き連ね、挙句の果てに、「信康と築山殿の2人が父・信長を裏切って武田家と密通している」とまで書いて送りつけたのです。徳姫付きの侍女が、「武田勝頼から築山殿宛の密書を盗み見た」と話したことを受けて、徳姫は築山殿が武田勝頼と内通していると主張しました。

築山殿の最期

天正7年(1579)、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か条からなる訴状を信長に送ったことから、信長が激怒。この訴状がきっかけとなり、信長は家康に長男・信康の処刑を命じたと言われています。

家康の上意によって妻・築山殿の処分が伝えられ、築山殿は8月29日に遠江国敷知郡の佐鳴湖に近い小藪村(現在の浜松市中区富塚付近)で徳川家の将来を危惧した岡本時仲と野中重政によって自害を迫られます。しかし、築山殿が自害を拒んだため彼らの独断によって首をはねられ殺害されました。検使役は石川義房が務めて首は安土城の信長の元に届けられています。信康は9月15日に二俣城で自害しました。

築山殿の遺体は浜松市中区広沢の高松山西来禅院に葬られました。首塚が岡崎市の祐傳寺、後に天保年間の頃八柱神社に移された。法名は西来院殿政岩秀貞大姉です。

信康自害事件にまつわる諸説

信康と徳姫との不仲は松平家忠の『家忠日記』にも記録がある通り、事実だったようです。しかし、不仲や不行状というだけで信長が婿・信康を殺そうとするのか疑問が残るのも事実。また、一方でこの時期の信長については相撲や蹴鞠見物に興じており、そのような緊張関係を同盟者の家康に強いていた様子は窺えません。
事件の発端となったとされる徳姫に対して、江戸幕府樹立後に家康が二千石の領地を与えている理由も不可解です。

また、築山殿がいかに家康の正室だと言っても武田氏と裏で外交ができるような力があったとは思えません。しかも信長は信康の処断についてのみ触れており、築山殿については何も言っていないとされています。にもかかわらず家康は築山殿を連座させて殺しており、不可解な点があることは否めないのが現実です。また酒井忠次は、その後も徳川家の重臣上位の地位に留まり、3年後の信濃制圧の際には新領の最高責任者になっています。
家忠が日記に記した「家康が仲裁するほどの喧嘩相手」の部分は原著では「御○○の中なおしニ」と破損しています。信康が仲違いしたのは「御新造」(徳姫)ではなく「御家門」(松平康忠、久松俊勝、松平康元)であるとの説もあります。

また「御母様(=築山殿)」の可能性もあり、「御前様」つまり家康の生母・於大の方の可能性もあるのです。於大の方に関しては、天正3年(1575)12月に信長の命令を奉じた家康の意を受けた石川数正によって実兄の水野信元が殺害されており、数正は信康の後見人であるため、信康との仲が険悪になっていた可能性があります。数正は後年に徳川家から出奔しています。ただし「御」の前には信康の名がくるため「御家門」と「御前様」の説には無理があるとの見解もあり、真実は闇の中です。

なお、家康が築き上げた信康の墓は質素なもので、改葬すらされていないとする説がありますが、家康は後に信康のため、浜松に清瀧寺を建立。信康の菩提寺に指定し、廟、位牌殿、庫裡、方丈、不動堂、山門、鐘楼などを建設しています。「信康山長安院清瀧寺」と号させました。また各所に墓所を建立しています。

父子不仲説

近年では、家康が信長に要求されたからではなく、家康と信康の対立が原因という説が出てきています。『安土日記』(『信長公記』諸本の中で最も古態をとどめ信憑性も高いもの)や『当代記』では、信長は「信康を殺せ」とは言わず、徳川家の内情を酌んで「家康の思い通りにせよ」と答えています。

つまり家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということになります。 また、信康処断の理由は「逆心(=謀反)」であり、家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したとも読み取れます。

また『家忠日記』によれば、事件が起きる前年の天正6年(1578)9月22日に、家康から三河国衆に対して、(信康のいる)岡崎に詰めることは今後無用であるとの指示が出されたことが記されています。
さらに家康は、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に信康に内通しないことを誓う起請文を出させていて、家康と信康の間で深刻な対立があったことがうかがえます。

また『大三川志』には、家康の子育て論として「幼い頃、無事に育てさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」と記載があり、『当代記』にも信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下に見限られたとあり、信康の性状を所以とした親子の不和が原因であることを伺わせます。

岡崎城

岡崎城は、三河国岡崎藩(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城で、徳川家康の生地でもあります。別名、龍城とも呼ばれています。

戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城となり、江戸時代には岡崎藩の藩庁が置かれていました。岡崎城は当初、「岡竒城」と記されました。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528(享禄元年)~1531(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり」と記載されています。

1959年(昭和34)3月、天守が復興されました。2010年(平成22)3月、東隅櫓が再建され、望楼式二重櫓と呼ばれる木造2階建で、入り母屋造りの屋根は、岡崎藩主を務めた本多氏の家紋立ち葵が刻まれた本瓦葺きです。

2022年(令和4年)5月24日、市は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』の放送にあわせ、岡崎城の展示をリニューアル。1〜4階の展示と5階展望台の刷新と外壁塗装、トイレの増設、照明設備のLED化などを行い、同年6月16日から改装工事に入りました。

2023年(令和5年)1月21日、リニューアルオープン。大河ドラマの放送にあわせて同様に整備された三河武士のやかた家康館も「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」としてリニューアルしています。

葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。